礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年4月28日  ユダヤ人の指導者たちの混乱

使徒言行録22章22〜23章11節
22 パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」
23 彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、
24 千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。
25 パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」
26 これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」
27 千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。
28 千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。
29 そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。
30 翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。

[23] 1 そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」
2 すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。
3 パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」
4 近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。
5 パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」
6 パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」
7 パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。
8 サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。
9 そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。
10 こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。
11 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

1.使徒言行録記者の意図

 今日も続けて使徒言行録の記事から使徒パウロの伝道活動について学びたいと思います。いくつの聖書の注解書を読むと今日の部分で取り上げられているパウロの言動には、いろいろな疑問が向けられていることがわかります。簡単に言えば、今日の箇所に記されているパウロの言動は「パウロらしくない」と言うのです。この箇所には普段のパウロの言動を知っている人には首をかしげるような出来事や発言が記されているので、これは史実とは違った架空の物語ではないかと疑う人も出るくらいです。特にここで問題となっているのは大祭司アナニアに対するパウロの発言が一貫せずに、むしろパル尾が自分の語った前言を翻すような言動が見られるということです。またさらに、もう一つは最高法院でのパウロの発言も問題となっています。ここでパウロは最高法院の議員がサドカイ派とファリサイ派の議員で構成されているのを認識すると、自らを「うまれながらのファリサイ派です」と語り、ファリサイ派の議員を自分の味方に引き入れるような発言をしているのです。ファリサイ派の律法主義を激しく非難し、主イエスを信じること以外には救いの道はないと説いたパウロの発言には似つかわしくなく、読者に違和感を感じさせる内容がここには記されているのです。
 ただ、パウロの言動に一貫性がないという理由でその史実性までを批判してしまうのは、大変に問題があると思います。なぜなら、通常その言動を書き記す著者、つまり使徒言行録の著者ルカはむしろ読者を説得し、パウロの行動を理解させるために手を加えたとしたら、一貫性をもたせることに心を砕くはずです。つまりその逆にルカが後から手を加えてパウロの言動を矛盾したものに書き換えてということは考えられないのです。ですから、一見パウロの言動性に一貫性が欠いているように見えるのは、あくまでもルカが自分が見聞きした通りのことをこの使徒言行録に書き記したからであり、かえってその史実性が証明されると考えてもよいのです。
 ただ、この記事には一貫性が欠けているのかといえば、実はそうではないということが今日の箇所の最後に記された主がパウロに語られた言葉からもわかります。

「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」」(11節)。

使徒言行録の著者ルカはこの主の言葉が成就して、パウロがどのようにローマに赴き、そこで福音を宣べ伝えるようになったかを読者に説明しようとしています。特にパウロはこのローマに囚人の身分で護送されることになりました。その事情を説明するために、今日の箇所の出来事は欠かすことができないものとなっているのです。ですから私たちはこのパウロのローマ行がどのように実現して行ったのかについてこの箇所から学ぶことができるのです。

2.千人隊長の対処

 パウロは前の箇所でエルサレムにあったローマ軍の兵営にまで連行される際にローマの千人隊長の許可を得た上で、そこまでパウロについてきた群衆に向かって語りかけています。それは彼自身の立場を擁護する弁明というよりは、キリストの福音を伝えるための伝道説教のようなものであったと言うことができます。そのとき群衆は最初パウロの言葉に静かに耳を傾けました。しかし、パウロの言葉に群衆が説得されてしまうことを恐れたのか、ここでパウロの命を付け狙う反対者たちは次のように叫び始めました。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」(22節)。この発言によってふたた群種の上に険悪なムードが支配することになりました。そこで、とにかくエルサレムでの紛争の火種は早いうちに消しておかなければならないと考えていたローマの千人隊長はパウロを縛って鞭打つことで彼の口から騒ぎの原因を知ろうとしたと言うのです。
 しかし、ここで物語は新しい局面に向けて歩みだします。パウロは「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」(25節)と言い出したのです。国家の法律は昔も今も、その国民が守るべき義務と、彼らが持っている権利を明確にするために作られます。ローマの法律もそうでした、ローマの市民権を持つ者には簡単に拷問を加えることはできず、裁判でその正当は理由を見出さなければ勝手に懲らしめることはできなかったのです。パウロはここで自分のローマ市民として権利を主張し、「自分をローマの法律によって裁いてほしい」と願いでたのです。つまり、この発言こそが、パウロが囚人としてローマに護送されるためのきっかけを作るものとなったのです。
 このパウロの発言を部下の百人隊長から聞いた千人隊長は驚いて、パウロのもとに赴き、彼がローマの市民であることを直接に確かめようとします。パウロは生まれたときからローマの市民であったこと、つまり、彼の両親の代からすでにローマの市民権を持っていたことがここで語られます。千人隊長はローマの植民地の住民を自由に取り調べたり、罰する権力を持っていましたが、相手がローマ市民であれば別です。ローマの市民を不当に取り扱えば自分が法律に背くことになるからです。だから千人隊長は「パウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった」(29節)とまで語られているのです。

3.大祭司アナニアを非難するパウロ
(1)最高法院の招集

 しかし、千人隊長はこの時点ではパウロをローマに護送して裁判を受けさせるという考えはなかったように思えます。この後に取り上げられているこの千人隊長がシリア州の総督であったフェリクスに記した手紙を見ると彼はパウロがローマの法律で裁かれるような犯罪を犯したのではないことを知っていました。千人隊長はパウロがユダヤ人の宗教の問題で騒ぎに巻き込まれてことを知っていたのです。だから、千人隊長はこの件をユダヤ人の最高法院で取り扱うことを決め、そこで処理させようとして最高法院のメンバーを招集させたのです。
 注解書では「はたして当時のユダヤ人の宗教議会をローマの役人が招集することができたのか」と言う疑問を記すものもあります。しかし、この後登場する大祭司アナニアに関しては興味深い歴史的記録が残っています。アナニアはこの後、数年後に熱心党のような愛国者のグループによって襲われて暗殺されているのです。その暗殺の理由はアナニアが「親ローマ派」のリーダーであったからだと言われています。つまり、ローマとの関係を大切にする大祭司アナニアは千人隊長の要請を受けて異例な形の議会の招集を行ったとも考えることが可能なのです。

(2)大祭司アナニアに関する醜聞

 このアナニアに対する噂はほかにも残されていて、彼が神殿で働く祭司たちの上前をはねて、私腹を肥やす人物であったことが伝わっています。そんな彼でしたから議会で堂々と発言しようとするパウロに腹を立てたのか、彼の口を打つようにアナニアは命じています。するとパウロはアナニアに向かって次のように発言したというのです。

「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」(23章3節)

「白く塗った壁」というのはうわべだけを取り繕う「偽善者」を指す言葉です。このパウロの非難に他の者が「大祭司をののしる気か」と抗議します。するとパウロは「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています」(5節)と語ったというのです。実際この文章を読んでわかることは、このパウロの言葉は本当にアナニアが大祭司であったことを知らなかったと言っているのではなく、アナニアが大祭司には似つかわしくない人物であって、そのままでは誰も彼が大祭司だとは気付かないだろうというような皮肉交じりの言葉を語っていると考えた方が適切であると思えます。正確に読めばパウロは宗教議会の権威や大祭司の脅かしに決してひるんではいないことが分かるのです。

4.議会を混乱させたパウロ
(1)サドカイ派の信仰を攻撃するパウロ

 興味深いのはこの後のパウロの言動です。パウロは最高法院の議会のメンバーがサドカイ派のメンバーとファリサイ派のメンバーで構成されているのを知り、新たな作戦をここで立て発言し始めるのです。皆さんもご存知のようにパウロはかつてファリサイ派に属する律法学者としての生涯を送っていました。ここには登場しませんが、パウロはかつてこの最高法院のメンバーの一人であったガマリエルという有名な律法学者の弟子だったのです。だからおそらく、このときも最高法院のメンバーの中にパウロが知っているファリサイ派の議員たちがいたのかもしれません。このサドカイ派とファリサイ派は仲が悪く、特に聖書解釈の方法でいつも争っていました。そのことを知っているパウロはここでもサドカイ派とファリサイ派の聖書解釈で最も争われている部分を取り上げるのです。

「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」(6節)。

 サドカイ派は「死者の復活」を信じず、「そんなことを聖書は教えられてない」と主張しました。その上で「死者の復活」を信じれば、むしろモーセの律法が教えるところと矛盾してくると攻撃したのです。少し前にこの礼拝で、夫に先立たれた妻がその兄弟と結婚しなければならないと教えるモーセの律法について取り上げ、「死者の復活」の教えについて批判したサドカイ派の主張とそれに対するイエスの答えを学んだことがありました(ルカ20章27〜40節)。

(2)信仰と理性の関係

 サドカイ派の信仰がどのようなものであったのか、今は定かではありませんが、多くの注解書はサドカイ派の人々の信仰を「合理主義」という言葉で紹介しています。「合理主義」とは理性に合致することは受け入れるが、そうでないものは拒否するという考え方です。それではその人間の理性は何を根拠とするのかといえば、人間が経験できることを重要な判断の基準とします。「死者の復活」は人間の経験を超えた聖書が教える真理であるといえます。もちろんイエス・キリストの復活を経験した人々の証言が聖書には記されています。しかし、合理主義者たちはそのような一部の人間が主張する経験は人間が誰もができる経験、つまり普遍的な経験とはなりえないといって拒否するのです。
 信仰を考える場合、この理性との関係をどうするかということが大きな問題となります。世の宗教の中には自分たちの持っている「信仰を合理的な信仰」、あるいは「科学的な信仰」と言うグループがあります。しかし、それとは反対に信仰と理性は対立するものであって、理性を捨てて信仰を選ばなければならないと主張する人たちもいるのです。
 それでは聖書が教える信仰はどのようなものなのでしょうか。まず一番に大切なのは、聖書は人間の理性を信仰に反するものとは言っていなということです。神は私たち人間を理性を持つ存在として創造されたのですから、人間の理性はとって大切なことが分かります。ですから、信仰者であっても理性を用いて科学を研究することは大切であると言えるのです。ただ、聖書は人間の理性が完全であるとは教えてはいません。ましてや罪に陥った人間の理性はそのままでは根本的なところで過ちを犯しているとまで語るのです。人類の科学がいくら進歩しても、すべての人間に幸福を与えれないのは、むしろ人間の理性がどこかで問題を持っていることが原因であると言えるのです。そのような点で聖書は私たちの理性が把握できない神の真理を教えるとともに、私たち人間がどうしたら自分たちの理性を正しく用いることができるかをも教えてくれるのです。
 サドカイ派の人々はそのままでは不完全な自分たちの理性を基準に、聖書の中で自分たちに都合のよい部分を受け入れ、そうでない部分を拒否するという過ちを犯していました。もちろん、彼らと違って「死者の復活」を信じたファリサイ派の人々が正しかったとも言うことができません。なぜなら、彼らは実際に「死者の中から復活された」イエス・キリストを拒否したからです。この点ではファリサイ派の人々の信仰も不完全なものであったことが分かります。
 いずれにしても、パウロが「死者の復活」について問題を取り上げることで、最高法院の舞台は紛糾します。いつものサドカイ派とファリサイ派の人々の論争がそこで再燃されて、収拾がつかなくなってしまうのです。この結果、千人隊長の考えた「パウロの問題をユダヤ人の間で解決させる」という計画は失敗してしまいます。そして使徒言行録の著者はパウロのローマ行がどのような方法で成就していったのかをさらに語り続けていくのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちのためにイエス・キリストを死者の中から甦らせ、私たちの理性では理解することができなかった真理を私たちのために明らかにしてくださったあなたの御業に感謝いたします。私たちの理性の力では私たちは自分の罪を解決することができず。死の呪いの中にとどまることしかできません。しかし、あなたは今私たちに聖霊を送り、信仰を与えることで、私たちの理性をも新たにしてくださることを感謝いたします。どうか私たちが信仰に基づき、迷信を排し、理性的な判断を下していくことができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。