礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年5月12日  パウロと総督フェリクス

聖書箇所:使徒言行録24章1〜27節 一部抜粋(新P.262)
10 総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。
11 確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。
12 神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。
13 そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。
14 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。
15 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
16 こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。17 さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。
18 私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。
19 ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。
20 さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。
21 彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」
22 フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。
23 そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。

1.弁護士テルティロの訴え
(1)大祭司と長老、弁護士テルティロ

 使徒言行録の記事から今朝も学びたいと思います。エルサレムでの騒動に巻き込まれたパウロは、そのエルサレムの治安を維持するために駐屯していたローマ軍によって捕らえられ、兵舎に保護されました。ところが、パウロの命を狙おうとする暗殺者たちの計画が明らかにされることにより、パウロを兵舎に保護していたローマ軍の千人隊長リシアは急遽、カイサリアのフェリクスと言うローマ帝国から派遣されていたシリア州の総督の元に彼を護送することにしました。それはエルサレムで騒動が起これば自分の責任なると感じる千人隊長の判断によるものであり、これで自分は厄介者のパウロから解放されると考えたからです。
 さてこの件に関して、エルサレムの最高法院のメンバーである大祭司や長老たちの反応は意外と早く示されました。彼らはパウロがカイサリアに護送された「五日の後」にそのカイサリアにやって来て、パウロの件で総督フェリクスに訴え出たと言うのです(1節)。ここで登場するのは「弁護士テルティロ」と言う人物です。彼の名前から推測できるのは、彼はギリシャ語を話すユダヤ人であり、おそらくパウロと同じようにローマの市民権を持ち、ユダヤの律法とローマの法律の両方に詳しい知識を持っていた人物であっただろうと言うことです。ですから、パウロをローマの法廷に訴えるために最高法院のメンバー達はこのテルティロの助けを求めたのです

(2)テルティロが語るパウロの罪状

 ここではまずこのテルティロの発言が紹介されています(2〜8節)。テルティロは最初、総督フェリクスを褒め称える言葉を並び立てています。これはおそらく裁判官であるフェリクスに好印象を与えようとする法廷戦術のようなものだったのでしょう。その上でテルティロが述べるパウロの罪状を要点に沿って整理してみると、第一に彼は「疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者」と言われています。つまりパウロは世界のユダヤ人を恐怖と破壊に導いている元凶のような人物だと言うのです。現代社会にこれを適応すれば国際テロ集団のリーダーのように恐れられている存在だと言うことになります。パウロをこのままにしておけばローマ帝国にも危害が及ぶだろと総督フェリクスに訴えたのです。
 第二にパウロは「『ナザレ人の分派』の主謀者であります」と訴えています。ナザレはご存知のようにイエスの出身地で、イエスは度々人々から「ナザレ人」と呼ばれています。ですから、パウロはこのイエスから発生した宗教的グループのリーダーであると言っているのです。
 第三にテルティロはパウロ逮捕の直接のきっかけを次に述べています。「この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました」。パウロが神殿の境内でユダヤ人に捕らえられたのは「ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」(21章28節)と言う理由からでしたが、テルティロはそこまで詳しくは述べていません。なぜなら、パウロは実際にはギリシャ人を神殿の境内には連れ込んでいなかったからです(同29節)。ですから、この件に関して詳しい調査が入れば、むしろユダヤ人たちの訴えが偽りであることが分かってしまいます。だから彼はただパウロが神殿を汚そうとしたという漠然とした罪を訴えるにとどまったと考えることができます。
 イエスが十字架にかけられる際に最高法院で取り上げられた彼の罪状の一つは「神殿を打ち倒して、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」(マルコ14章58節)というものでしたから、パウロもイエスと同じようにエルサレム神殿の問題で訴えられていることが分かります。また、ユダヤ人たちはイエスを罪に陥れるために、時の総督ピラトに対して「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」(ルカ23章5節)と訴えました。これもまたこの時のパウロに対する罪状とよく似ています

2.パウロの弁明
(1)テルティロの言葉に反論するパウロ

 次に総督フェリクスはテルティロのパウロに対する訴えを聞いた後、パウロにこの訴えについて直接答弁させています(10節)。かつてイエスは自分に従う弟子達にこのような預言の言葉を語ったことがあります。

「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21章12〜15節)。

 この言葉に従えばパウロのここでの弁明はイエスが与えてくださった「言葉と知恵」によるものであると言うことが分かります。
 次にパウロの弁明を先ほどのテルティロの訴えの要点に従って整理して見るとこうです。第一に自分が「疫病」のように危険で、人を惑わすような人物であると言う点について、実際に彼はエルサレムで12日間滞在しましたが、その間、誰かと論争したり、民衆を扇動する活動など一つもしていないこと言うのです。だからちゃんと確かめて見ればこの件が根も葉もない訴えであることがわ分かると言っているのです。その上で、パウロが逮捕されたきっかけは先ほども触れましたように「律法に反して、異邦人であるギリシャ人を神殿の境内に入れた」と言うものでした。つまり、テルティロがここで語った罪状は後から勝手にユダヤ人達が考え出したものでしかないとパウロは反論するのです。
 第二に自分が「ナザレ人の分派」の首謀者だと言う点です。パウロは自分の信仰を「この道」と言う言葉で表現した上で、自分たちの先祖達が礼拝した神を礼拝し、旧約聖書の言葉をイエスが教えてくださったように熱心に信じていると語ります。そしてその点に関して自分は「神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と語っているのです。つまり、彼は自分の信仰のことで人々から責められる点は何もないと主張したのです。
 第三にパウロが「神殿を汚した」と言う点についてです。彼がエルサレムにやって来たのは同胞に救援金を渡すためであり、その折、神殿で清めの儀式に参加して供え物を献げただけであると彼は語ります。神殿に害を与えるような行為は何もしていないのです。そして騒動が起こったのは「アジア州」、つまりエフェソからパウロの命を狙ってやって来ていたユダヤ人たちが原因であって、その原因を作った人々はこの裁きの場に来ていないと彼は指摘しています。つまりテルティロの訴えにはそれを裏付けるはずの肝心の証人がいないと言っているのです。

(2)正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望

 このパウロの弁明の中で興味深いのは15節に登場する復活の希望について彼が語った言葉です。
「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております」。
 聖書では通常、復活についての希望を語る場合は、神を信じて死んで行った義人達が再び神から命を受けて甦ることを言っています。ですから普通は「正しくない者」が復活することは決して希望とは言わないのです。なぜなら、聖書は「正しくない者」が復活するのは神の厳しい裁きを受けるためであると語っているからです。厳しい裁きを受けて永遠の滅びの刑罰を受けるために復活することは決して「希望」とは呼べません。それなのになぜパウロは「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」と呼んだのでしょうか。それはパウロが終わりに日に行われるべき神の審判、神の正しい裁きに希望を持っていたからです。パウロは実際、今、人々の不正な裁きの場に連れ出され苦しんでいます。彼を訴えるユダヤ人たちはあることないことを勝手に並べ立てて、パウロを有罪にしようと画策しています。そしてそれを判断する総督フェリクスも決して頼りになる裁判官ではありません。歴史家ヨセフスはこのフェリクスを「ローマからユダヤに遣わされた総督の中で、最も腐敗した圧政者の一人」と紹介しています。またタキトゥスと言う人は彼を「奴隷の根性で暴君の権力を握った者」と酷評しているのです。ですから到底この総督からよい裁きの結果を期待することはできないのです。だかこそ、パウロはすべてのことを知り、正しく判断してくださる神の裁きに希望を持つと表明したのです。
 パウロは小手先でこの場を逃れる方法を考えたのではなく、この神の正しい裁きの前に、自分はどのように行動すべきかを考え、それを実行したと考えることができるのです。

3.総督フェリクスの反応
(1)パウロと会うフェリクスとドルシラ夫妻

 さて、この裁判はパウロをカイサリアに護送して、そこで裁きを受けさせようとしたエルサレム駐屯のローマ軍のリーダー、千人隊長のリシアが到着するまで延期すると言うフェリクスルの決定が付けられて休廷します(22節)。パウロはこの後、カイサリアの町で比較的に自由に友人達と面会ができたと言われています。27節にはこのカイサリアでのパウロの監禁生活は二年間も続いたと言われています。伝説によればこの間、パウロはカイサリアのキリスト者たちと自由に交わり、そこに後から駆けつけたルカは、この二年の間にイエス・キリストに言行に関する有力な資料を集めルカによる福音書執筆を行ったとも言われています。ですから、この二年間は教会にとっても、パウロにとっても決して無意味な二年間ではなく、むしろ大切な時間だったと考えることができます。

 一方、使徒言行録を記したルカはこのパウロのカイサリアでの裁判を記した後、総督フェリクスとその妻ドルシラとのやりとりを短く紹介しています(24〜25節)。総督フェリクスは元々、奴隷出身の人物で知恵と力の限りを使って総督にまでのしあがった人でした。またその妻ドルシラは十二使徒の一人である「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し」、「ペトロを捕らえて牢に入れ(た)」ヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ1世)の娘でした。ですから、この夫婦はキリスト教についてかなり詳しく知っており、かねてから関心を抱いていたようなのです(22節)。そこで、この二人はパウロを呼び出してイエス・キリストへの信仰についての話を聞きました(23節)。

 パウロはこの二人に「正義や節制や来るべき裁きについて話」した(25節)と記されています。フェリクスは自分の地位を手に入れ、それを維持するためにいろいろな悪事を行ってきました。また、言い伝えてによれば既に他人の妻であったドルシラを自分のものにするために魔術師たちの手を借りて陰謀を企み、前夫から彼女を奪い取ったと言われています。そのようなフェリクスでしたから、パウロの語る「神の裁き」の言葉に恐怖を覚えるしかなかったのです。彼はパウロの語る肝心のキリストの福音を耳にする前に「これでよい」と彼を帰してしまって、結局、神の裁きから逃れることのできる方法を耳にする機会を失ってしまったのです。

(2)イエスの十字架によって義とされることと神の裁き

 パウロは人々の自分に対する不当な裁きに対して、神の公平で正しい裁きがあることを訴え、そこに希望を見いだしているように見えると先ほど語りました。ですから、フェリクスとドルシラ夫婦に対してもパウロはこの神の公平で正しい裁きがあり、それを恐れるようにとまず訴えたと言えるのです。
 私は以前、自分の子供を幼稚園に行かせようとしたときに、どの幼稚園に行かせるべきか迷い、いろいろと近所の幼稚園を調べたことがありました。できれば子供達をキリスト者が経営する幼稚園に行かせようと考えたのです。ある有名なキリスト教の幼稚園を訪ねて、そこでもらった入園案内に書かれていた言葉が今でも忘れられません。「誰も見ていなくても、神様は見ています」と言う言葉です。おそらくこういう精神を持ってこの幼稚園は子供達を育てていると言っているのでしょう。私はこの言葉を読んで、自分の子供をこの幼稚園には通わせたくないと思いました。
 パウロは神の正しい裁きを期待していました。しかし、彼がここまで神の裁きを待ち望んだのは、彼が自分自身の生活は神から見ても何の落ち度もないと思っていたからではないのです。むしろ彼は聖書のあるとこでは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7章24節)と自分を嘆きいているところがあるくらいです。そんなパウロがあえて、神の正しい裁きの前に自分が立つことができると確信することができたのはどうしてなのでしょうか。それはその自分の罪の一切を背負って十字架にかかったイエス・キリストを知っていたからです。そのイエス・キリストによって自分は神の前に義しい人として認められることを信じることができたからです。
 「誰も見ていなくても、神様は見ています」。その言葉だけでは人は救われることができません。だからパウロの言葉を聞いて恐れを抱いたフェリクスは、パウロに「その厳しい裁きから逃れる方法は何か」と続けて問うべきだったのです。しかし、彼は自らその機会を放棄してしまいました。
 キリストを信じない人々にとって神の厳しい裁きは恐怖以外の何者でもありません。しかし、イエスの十字架を知り、それを信じる私たちにとっては、神の裁きがむしろ希望となることを私たちはこの箇所のパウロの発言から学ぶことができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 あなたの厳しい裁きの前に耐えることのできる人間はこの世には誰も存在しません。だからこそあなたはその私たちに御子イエス・キリストを遣わして、逃れの道を準備してくださいました。イエス・キリストが十字架の上で、私たちの罪のすべてを贖ってくださったので、私たちはあなたの裁きの前に義人として取り扱われることができます。この福音が示してくださった希望の故に、私たちは最後の審判をも私たちのためのあなたのみ業であることを信じます。私たちがキリストを私たちのために遣わしてくださったあなたのためにこの人生を忠実に生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。