礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2012年6月2日  王と総督の前での証し

聖書箇所:使徒言行録26章1〜32節 一部省略(新P.265)
19 「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、
20 ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。
21 そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。
22 ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。
23 つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」
24 パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
25 パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。
26 王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。
27 アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
28 アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」
29 パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」
30 そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。
31 彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。
32 アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。

1.開催された聴聞会
(1)自分だけでは罪状書きを作れない

 前回、新任のローマ総督フェストゥスの元を訪れたアグリッパ王とその妹ベルニケの前でパウロが自らの弁明を語ることになったところまでお話ししました(25章23〜27節)。フェストゥスは囚人であったパウロがどのような罪を犯したのか、彼についてのユダヤ人達の訴えに耳を傾けて知ろうとしました。ところが彼がその聞き取りから得た結論はパウロはローマの法律に違反する罪を何も犯してはいないと言うことだったのです。具体的に言って、「ローマの法律に違反する」とは国家に対する反逆罪であるとか、社会秩序を乱すような行動を行ったかと言うことになります。もちろんパウロはそのような罪を一切犯してはいなかったのです。その上でフェストゥスはパウロがユダヤ人の宗教の問題で、特に死んだはずのイエスと言う人物が甦ったという事柄に関してユダヤ人たちと激しく対立し、それ故に彼らから憎まれて、捕らえられたのだと言うことが分かりました(18〜19節)。
 一方、パウロはローマ市民として「皇帝に上訴する」と言う権利をフェストゥスに主張しました(11節)。そこでまじめな役人であったフェストゥスはその申し入れを受け入れて彼をローマに送ることを決めたのです。ところが、パウロをローマに送るためにはその囚人の罪状を示す書類を一緒に送らなければなりません。パウロが訴えられているのはユダヤ人の信じている宗教に関してですから、フェストゥスはそれらの事情を説明する知識を持っていません。そこで、その事情を詳しく知っているはずのアグリッパ王の力を借りて、パウロについての罪状書きを彼は考えようとしたのです。今日の部分はそのために開かれた聴聞会の一部始終が記されています。

(2)アグリッパ王の持っていた権威

 前回もアグリッパ王について少し触れました。彼は初代教会を弾圧したアグリッパ1世の息子で、彼の後を継いで王となりました。しかし、王とは言っても彼が持っていた王としての地位はローマ皇帝の権威に基づくもので、簡単に言えば「王」と言うよりは一地方の「領主」と言ったらよいようなものだったのです。ただ、アグリッパ王は政治的にはローマ皇帝に任命された一地方の領主に過ぎませんでしたが、彼は宗教的にはユダヤ人の大祭司を任命する権利を持っていました。そのため彼はエルサレム神殿を統括するような権限を彼が持っていたと言うことが分かります。アグリッパ王はこのような関係から宗教的にはサドカイ派の信仰を持つ人物ではなかったからと推測されています。今日のパウロの発言の中で彼はアグリッパ王に対して「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか」(8節)と語りかけています。これはアグリッパ王が死者の復活を信じないサドカイ派の信仰を持っていることを示している発言です。そして今日の部分でパウロはこのようなサドカイ派の信仰を持つアグリッパ王に対して大胆に自分の持っているイエス・キリストへの信仰を証しているのです。

2.パウロの望み
(1)ファリサイ派の一員であったパウロの行動と抱いていた希望

 アグリッパ王の前でのパウロの発言を要点に沿って理解していきたいと思います。まず、パウロは自分がキリスト者になる前にかつてどのような人物であり、どんな行動をしてきたのかを説明しています。彼は若い頃からユダヤ人の宗教のグループでは最も厳格なファリサイ派の一員として生活を送ってきました。ファリサイ派は聖書に記されている律法を自分たちの生活の中に適応させて、それを守ることに熱心なグループでした。旧約聖書の律法がイスラエルの民に与えられた時代にはユダヤの人々は遊牧民のような生活をしていました。ところが、パウロやイエスの時代のユダヤ人の生活は都市に定住するようなものに変わっていたのです。ですから聖書の教える律法をそのままではどのように適応していいのか難しくなっていたのです。そこでファリサイ派や律法学者と呼ばれる人々は聖書に記された「古い」律法の条文を解釈して、現代の自分たちの生活にどのように適応させることができるかを考え、人々に教えたのです。ただ、パウロがそこまでして律法に従おうとしたのか、その理由を彼は次のように語っています。

「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです」(6〜7節)。

 パウロは自分や自分の先祖達が律法を厳格に守り、神に熱心に仕えてきたのは、神が自分たちの祖先に与えてくださった約束が実現されるためであり、その希望があったからだと語っているのです。パウロはこの点で自分が信じているキリスト教信仰はこの先祖達が持っていた希望を受け継ぐものであると考えていたようです。

(2)キリスト教徒を迫害するパウロ

 しかし、この時のパウロはその希望とキリスト教信仰の関係を正しく理解してはいませんでした。その反対に彼は「あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていた」(9節)と語っています。そのためにパウロはキリスト教徒を激しく弾圧するという行動を選んだのです。

「そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです」(10〜11節)。

 この発言から分かることはパウロがファリサイ派の人間として活動していたとき、彼は自分の持っていた信念に一切、疑問を感じず、確信を持ってキリスト教徒を迫害していたことです。つまり、彼がファリサイ派の人間からキリスト者に変わったのは、彼の考えや心境の変化の結果ではなく、神の側からの突然の働きかけによって起こった奇跡のみ業であったことが分かるのです。

3.パウロが信じているもの
(1)パウロの与えられた使命

 パウロの回心物語はこの使徒言行録ではこれで記録が三回も登場しています(9章1〜19節、22章6〜16節)。使徒言行録を記したルカがどれだけこの出来事を重要視していたかがこのことでも分かります。ただ、この三回目の記録はイエスとパウロの出会いを意外と簡単に記す代わりに、彼にイエスが与えられた使命を詳しく説明しています。

「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」(17〜18節)。

 パウロは復活されたイエスからユダヤ人や異邦人に福音を伝え、彼らを救いに導くためにその使命を与えられているのです。そして彼がこのように囚人としてアグリッパ王の前に立っているのはその使命を忠実に果たそうとしたためであると語っているのです(19〜21節)。ですから、パウロはそのイエスに与えられた使命をアグリッパ王やローマ総督フェストゥスの前でも忠実に果たそう。
 パウロが語ろうとする福音のメッセージの中心はパウロがかつて信じていた希望と関係する次のような事柄だと彼は語ります。

「ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです」(22〜23節)。

(2)旧約聖書と福音との関係

 「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと」と言う表現は言葉を換えれば旧約聖書の記述全体を示しています。つまり、先祖達が信じていたこと、旧約聖書が伝えようとしてきたことは「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」と言うことだったと言うのです。
 かつてイエス自身も聖書を熱心に研究しているユダヤ人達に次のように語りました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネによる福音書5章39節)。

 イエスがこの言葉を語ったとき、またパウロが活動していた時代にはまだ新約聖書は完成されていませんでしたから、そこで聖書と言われているのはすべて「旧約聖書」のことを言っていると言うことになります。旧約聖書にはいろいろなことが書かれています。しかし、旧約聖書がそのような記述を通して私たちに伝えようとしていることは意外と単純なものなのです。それはイエス・キリストのことです。しかもパウロの言葉を借りて言えば、このイエスが私たちの代わりに罪を負って死なれ、その後、復活されて救いの出来事を成就してくださったその福音を旧約聖書は私たちに証しているのです。
 聖書学者の中には新約聖書と旧約聖書の違いを述べて、二つの書物の主張は対立すると語る人がいます。しかし、パウロやイエスが語るようにそれは真実ではありません。新約聖書と旧約聖書は共にイエス・キリストの福音を説くことで一つの書物であると言えるのです。よい聖書の解説者はそれ故に、新約聖書の内容を旧約聖書の内容を通して説明することができますし、また旧約聖書の内容を新約聖書の内容と結びつけて説明することが出来るのです。

(3)福音を証しするパウロ

 パウロはこの旧約聖書の示す希望が、キリストの十字架と復活であると言うことを確信を持って語り続けています。ところが肝心の旧約聖書の内容も知らないローマ総督フェストゥスはパウロに対して、「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」(24節)と叫びます。「学問のしすぎで、おかしくなった」と言うことは、パウロが現実離れした突拍子もない考えをしていると言うことになるのでしょうか。確かに聖書に記されている神の約束が人間にとって大切な事柄なのかを理解できないフェストゥスにとっては、その約束がキリストの十字架と復活を通して実現したなどと言う発言はおかしな人が語る戯言にすぎなかったのかもしれません。
 しかし、ユダヤ人として旧約聖書を信じているアグリッパ王は別です。だからパウロはこの王に向かって語りかけています。

「王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」(26〜27節)。

 アグリッパ王が預言者たちを信じ、彼らが語ったメッセージを理解しているならば、自分が語ったことが頭のおかしな者が語る戯言ではないことが分かるはずだとパウロは言うのです。そこでアグリッパ王は「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」(28節)と応じます。するとパウロはさらに次のように語り続けるのです。

「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが」(29節)。

 「私のようになる」とは、キリストを救い主として受け入れてほしいと言うことです。このような言葉から分かるように、パウロはこの聴聞会で自らの弁明を語ると言うよりは、すべての人々がキリストを信じてほしいと訴えていることが分かります。パウロはイエスからユダヤ人にも異邦人にも福音を宣べ伝えるようにとの使命を受けていました。そこでパウロはその使命の故に自分が囚人として引き出されているこの場所でも、どのようにその使命を果たすことができるかを考え、実際に福音を大胆に語ったと言うことになります。そしてこの聴聞会の結果、アグリッパ王とローマ総督フェストゥスはパウロが死刑や投獄にあたる罪を一切犯しておらず、皇帝に上訴していないなら、そのまま釈放されてもよかったはずであると言う結論を導き出したのです。
 今日の箇所でパウロは自らの希望を神の約束においていたことを明らかにしています。私たちが考える「約束」は約束した双方の側にそれを守る意志がある限り有効であると考えます。ですから、人間の間での約束は必ずどちらか一方、あるいは同時に両方の当事者がその約束を放棄することで無効となってしまうのです。しかし、聖書の語る約束はこのような人間の間で行われる約束とは違います。神の約束はある意味で一方的な約束と言ってよいものです。ですから、神の約束はその相手である私たち人間が変わってしまっても無効にはならないのです。そして、神は自らに誓ってこの約束を私たち人間の上に成就することを明らかにしてくださったのです。預言者たちが伝え、イスラエルの先祖達が信じ続けた約束とはそのようなものです。ですから私たちのもつ希望はこの神の確かさの上にあることを今日も覚えたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
 あなたはイスラエルの民に預言者たちを通して私たちに対する救いの約束を明らかにしてくださいました。そして私たちの救い主イエス・キリストはこの約束が実現するために十字架にかかり、三日目に復活してくださいました。そして今、天から聖霊を私たちに一人一人に送り、私たちに信仰を与え、豊かな救いの祝福を私たちの人生に実現してくださいます。そして私たちの希望のすべてはこの神の約束の実現におかれています。私たちがこの希望を抱きながら、この地上の生活でもあなたに感謝を献げ、あなたに仕えていくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。