礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年6月23日  「あなたの心を喜びで満たす方」

聖書箇所:使徒言行録14章17節(新P.241)
「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

1.聖書を通して自己紹介される神
(1)神を正しく知り、正しく礼拝するために

 キリスト教信徒の信仰生活にとって最も重要なことは神の言葉である聖書を熱心に読むと言うことです。聖書を読まないキリスト者は存在しないと言ってもよいほど、聖書と私たちの信仰とは切っても切り離せない関係にあります。それはどうしてでしょうか。私たちが神様を正しく礼拝するためには、まずその神様を正しく知る必要があります。間違ったものを神様のつもりで拝んでいても、私たちはその信仰生活からに何の利益も受けないばかりか、むしろ大きな害を受けざるを得ません。
 それでは神を正しく知るためにはどうしたらよいのでしょうか。私たち人間がいくら自分の想像を働かせても、私たちの想像は私たち自身の能力を超えることは決してありません。ですから人間の想像から生まれて来た偽物の神、偶像が人間によく似ているのは、人間の持っている想像力の限界を表していると言ってもよいのです。
 人間が自分の持っている能力を最大限に使っても知り得ることのできない神の姿を聖書は私たちに正しく教える書物です。だから私たちは信仰生活で聖書を読み、そこから神を正しく理解する必要があるのです。それではなぜ、聖書だけ他の人間の記した様々な書物とは違って私たちに神を正しく理解させることができる書物だと言えるのでしょうか。それは聖書だけが神が人間に与えてくださった唯一の書物、神の自己紹介を記した書物であると言えるからです。

(2)聖霊に導かれて記された書物

 「そんなことを言っても聖書は人間の手で書かれているのではないか…」と疑問に思われる方がおられるかもしれません。確かに聖書を直接に記している人々は私たちと同じ人間であると言えます。たとえば私たちが今、毎週の礼拝で学んでいる使徒言行録はルカによる福音書を記したルカと言う人物であると考えられています。そしてこの使徒言行録の中に登場する伝道者パウロが記した手紙は新約聖書に重要な書物として数多く収録されています。そのような書物をなぜ私たちは「神が私たち人間に与えてくださった書物だ」と考えるのでしょうか。なぜならば、聖書を記した直接の著者たちは皆、神が彼らに遣わした聖霊の働きに導かれてそれらの書物を記したからです(テモテ第二3章16節)。神が人間を用いて私たちに与えて下さった書物がこの聖書です。ですから、私たちはこの聖書を神の書かれた書物、神の作品として信じ、その言葉を受け入れるのです。
 今から500年以上も前にヨーロッパ大陸で起こった宗教改革はこの大切な聖書を当時のカトリック教会が蔑ろにしてしまったために、人間が作り出した様々な迷信が教会に入り込んできたことを憂いて、もう一度聖書を読み、そこから神を正しく理解しようとする運動であったと言えます。ですから、その宗教改革から生まれたプロテスタント教会、改革派教会は何よりも聖書を正しく読むことを大切にする教派であると言えるのです。
 改革派教会の「改革」と言う言葉の意味は、通常私たちがこの社会で考える「改革」と言う言葉の意味と違うところがあります。世の中では古いものを捨て、新しいものを求めることを「改革」と言う傾向があります。しかし、改革派教会の改革は「聖書に基づいて、人間の誤りを改革する」と言う意味で、むしろ聖書の言葉に戻っていくと言う意味がそこにはあるのです。人間が聖書の言葉から離れてしまうとき、そこには必ず人間の作り出した迷信が入り込みます。そして人間の作った迷信は人間自身を支配し、その自由を奪います。しかし、聖書が私たちに教える真理は、私たち人間を様々な迷信の支配から解放し、究極的には私たちを罪と死の支配からも解放するのです。そのような意味で聖書は私たちに真の自由を与える書物であるとも言えるのです

2.神に対する誤解
(1)リストラの町でのパウロの証言

 今日の聖書箇所に選ばれている言葉は私たちが既に学んだ使徒言行録に記されている言葉です。ここでアンティオキア教会から伝道旅行に派遣されたパウロとバルナバの二人は、現在のトルコにあったリストラと言う町で生まれつき足が不自由で歩くことが出来ない男性に出会います(14章8〜18節)。そこでパウロはこの男性に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と語りかけます。するとその男性が躍り上がって歩き出すと言う不思議な奇跡が起こりました。そしてこの光景を見たリストラの人々は「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と騒ぎだし、バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」と呼んで礼拝を献げようとし始めたのです。そこでパウロとバルナバは彼らの行動を慌てて制止し、人間を神と崇めるような愚かな行為を止め、真の神を礼拝することが大切であることを語ったのです。
 パウロはその際にリストラの町の人々に「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」と証言したのです。

(2)神を支配しようとする人間の企て

 ところでリストラの町の人々は当初、バルナバとパウロをギリシャ神話に登場する有名な神々ゼウスとヘルメスに見立てて彼らを礼拝することで何を得ようとしたのでしょうか。リストラの町の人々がこのような行為を表すことになった直接のきっかけはパウロが生まれつき足の不自由な人の足を癒したからです。彼らはその不思議な業を行うパウロに強い関心を示したのです。つまり彼らはパウロ自身ではなく、彼が示した不思議な力に関心があったと考えることができます。そしてその力を自分たちのために用いたい、あるいは逆にその力が自分たちに害を被ることがないようにと考えたのです。そのためリストラの町の人々パウロを礼拝することでその力の持ち主のご機嫌を伺おうとし訳です。
 リストラの町の人々に限らず、私たち人間は様々なものを神々として崇める傾向があります。しかし、その信仰はその神々自身に対する関心と言うよりは、その神々が持っている力を自分の生活のために用いようとする思いから生まれるものと言ってよいのではないでしょうか。そこに生じる信仰とは、神々を崇めているように見えて、実は神々の力を自分に都合のいいように支配しようとする人間の願望の表れと言ってよいのです。そこでこのような信仰の場合に最も優先されるのは神々の思いではなく、自分たち人間の思いです。つまりそこで崇められる神々は人間に都合のいいように使われる僕にされてしまうのです。
 人間にとって都合のいい神々は自分の思おうように世界を変え、他人を変えてくれる神々です。しかし、このような信仰の最大の欠点は自分自身は全く変わることがないと言う点です。なぜならこのような信仰を持つ人々は本当のところは自分自身を神としてしまっているからです。世界や他人を自分の言いように変えたい、そのために神々の力を借りたいと考えているからです。しかし、このような信仰は本当に私たちを幸せにすることも、私たちに本当の喜びをもたらすこともできません。なぜなら、どんなに期待したとしても、人間の作り出した神々には何もする力がないからです。結局はこのような信仰の持ち主は世界にも他人にも、そして自分自身にも絶望するしかないのです。

3.まことの神の姿
(1)天地万物を創造し、統べ治められる神

 パウロはそのような誤りを犯す人々に対して、聖書が私たちに教える真の神を知らせようとしています。しかも、パウロはその真の神は聖書を読んだことのない人にも毎日ご自身を示し続けてくださっているとここで語っているのです。

 「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」(14章17節)。

 梅雨の季節となり、梅雨前線の影響で各地にたくさんの雨が降っていることは私たちもニュースを聞いてよく知っています。しかし、その雨は私たちに何を知らせているのでしょうか。毎年、季節が巡り、大自然は私たちに豊かな実りをもたらします。パウロは、それはすべてが私たちの心を喜びで満たそうとされる神のみ業なのだと教えるのです。そして神がこれらのみ業を通してご自身を豊かに表し続けているとパウロは教えているのです。
 私たちの真の神は、人間が自分の都合のいいように作り出した神々とは違います。天地万物を創造され、いまもそのすべてを統べ治めておられる方なのです。そしてパウロはその神こそが私たちの神であると教えるのです。しかも、聖書はその神が私たちの父なる神であり、私たちを愛し、私たちのために万物を治めてくださっていると教えるのです。

(2)父への信頼

 アメリカで一人の大変有名な曲芸師が大変危険な断崖絶壁の上に一本のロープを渡して、そのロープの上を渡りきるというパフォーマンスをすることになりました。曲芸当日にはこの人の業を一目見ようとする人が国中からたくさん集りました。テレビ局はこの曲芸を、電波を使って沢山の人に知らせようとしました。たくさんの人々が固唾を飲んで見守る中、その曲芸師は意図も簡単にロープを渡りきってしまいます。それだけではなく、こんどは手に重い荷物を持って同じようにロープの上を渡って行きます。何度も繰り返される彼の妙技を見て、最初は心配そうに見守っていた観客たちも、その曲芸師の見事な業に喝采し、「彼なら絶対に落ちないでロープを渡れる。人間だって運べるに違いない」と言い出す始末です。すると、その観客たちの声を聞いた当の曲芸師は一つの提案を観客たちに語ります。「それでは皆さんの内の誰かを私が手で抱えたままで、このロープを渡って見ましょう。この中で誰か私とロープを渡ってくれる勇気のある方はおられませんか。」ところが、曲芸師の見事な業にあれほど感動していた観客たちもさすがにこの提案には恐れを抱くばかりで、希望者は誰もあらわれません。するとこの話を後ろの方で聞いていた一人の少年が「ぼくがやります」と言い出しました。この少年の勇気ある発言に誰もがびっくりしたのですが、その次の瞬間、曲芸師は意図も簡単にその少年を抱いてロープを渡りきってしまいます。観客の興奮はさらに大きくなるばかり、しかもその興奮の中身は曲芸師の見事な業を褒めるだけではなく、勇気ある少年に対する賞賛の歓声も含まれています。そこで今まで放送を行っていたテレビ局のアナウンサーがすかさずその少年に歩み寄りマイクを向けました。「君すごいね。勇気があるね。本当に怖くなかったのかい」。すると少年は笑顔でこう答えたのです。「全然怖くなかったよ。だってあの曲芸師はぼくのお父さんだもの」。父親を信頼する少年には少しの恐れも無かったのです。
 聖書は私たちにこの少年と同じように、神を信頼して生きるようにと勧めています。天地万物を造られた真の神を信頼して生きることが私たちの信仰であると言えます。そしてその信仰を通して私たちは真の喜びを受けることができるのです。

4.キリストの救いのみ業と父なる神
(1)神を自分の父として信頼できる祝福

 しかし、まってください。本当にこの真の神は私たちのことを本当の自分の子供のように愛し、導いて下さる方なのでしょうか。むしろ、私たちに対して過酷で厳しい罰を与えるような恐ろしい方ではないのでしょうか。たしかに私たち人間は、今まで神に背を向け、自分勝手に生きてきたのですから、神の子と呼ばれる資格を持っていません。むしろ、その罪のために厳しい神の裁きを受けなければならないとも聖書は教えているのです。
 しかし、神の愛はそのような私たち人間を見捨てることはなかったとも聖書は教えるのです。神はそのままでは厳しい裁きを免れ得ない私たちを救うために救い主イエス・キリストを遣わして、そのイエス・キリストが厳しい罰を十字架の上で代わって受けてくださったのです。そして、そのイエスを信じる者を神は今、すべて子として受け入れてくださるのです。本当の子供として受け入れてくださるのです。ですから私たちはこの救い主イエス・キリストの故に、天の父なる神を自分の父として信頼することができるようにされるのです。キリスト教信仰が提供する祝福はイエス・キリストを信じることによって、この天地万物の創造者であり、今もその統べ治めてくださる神を自分の神として信頼することができるようにされることだと言えるのです。

(2)真の神の祝福とは?

 もちろん、この祝福は私たちの願望を父なる神が都合いいようにすべてをかなえてくださると言うものではありません。しかし、むしろ天の父はすべての事柄を私たちへの祝福のために用いてくださると言えるのです。なぜなら、神は私たちにとって何が最善の祝福であり、またその祝福に私たちを導くために何をすべきかをよく知っておられる方だからです。この神への信頼を告白した古い詩があります。南北戦争の頃にアメリカの誰かが作った詩ですが。その作者についてはそれ以上は何も分かっていません。

 大きなことを成し遂げるために
 力を与えてほしいと神に求めたのに 
 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
 より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
 より良きことが出来るようにと病弱を与えられた
 幸せになろうとして富を求めたのに 
 賢明であるようにと貧困を授かった
 世の中の人々の称賛を得ようと成功を求めたのに
 得意にならないようにと失敗を授かった
 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるようにと命を授かった
 求めたものは一つとして与えられなかったが
 願いは全て聞き届けられた
 神の意にそわぬものであるにも関わらず
 心の中で言い表せないものは全て叶えられた
 私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ
 (「無名の南軍兵士の祈り」より)

【祈祷】
天の父なる神様
天地万物を創造され、今もそのすべてのものを統べ治められているあなたを「父なる神」と呼び、信頼して生きることができるようにしてくださったあなたの救いのみ業に心から感謝します。あなたはこの祝福を私たちに与えるために御子イエス・キリストを私たちの元に遣わしてくださいました。私たちが私たちの周りに起こる出来事の背後に、このあなたの愛の御手があることを悟り、あなたに感謝を献げることができるようにしてください。私たちが自らの思いを優先して誤った迷信に陥ることがないように、聖書の言葉をもっていつも私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。