礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年6月30日  「暴風の中でのパウロ」

聖書箇所:使徒言行録27章1〜26節(新P.268)一部抜粋
21 人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。
22 しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。
23 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、
24 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』
25 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。
26 わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」

1.使徒言行録が紹介するパウロ
(1)パウロと行動を共にした使徒言行録の著者ルカ

 千円札の肖像にも描かれている科学者の野口英世は晩年になって、第三者の手によって記された自分の伝記を読んで、「これは嘘だ」と言ったと伝えられています。ふつう伝記記者はその本で紹介する人物の優れた功績を並び立てて、読者たちの尊敬を得て、人々の模範となるようにその人物を紹介しようとします。そのために本人の生涯から都合の悪い部分を削り取り、よい部分だけを書き残すという傾向があるようです。そうなるとできあがった伝記は実際の本人の人物像とかなり違ったものになってしまう恐れがあります。自分の伝記を読んで漏らした野口英世の言葉にはそのような事情が隠されていたのかもしれません。
 さて、私たちが学んでいる使徒言行録の記録も残すところあとわずかになっています。この礼拝で何度も学んだように、この使徒言行録と言う書物は題名に「使徒」と言う名前がつけられているのに、そこに登場する使徒はわずかでしかありません。前半には使徒ペトロが登場する部分がありますが、後半にかけての半分以上の記録は使徒パウロの記録で占められています。どうしてそうなってしまうかと言えば、この使徒言行録を記した著者であるルカは、パウロの協力者として伝道旅行を共にしていた人物であったからです。ですから、この使徒言行録の物語の中でときどき「わたしたち」と言う表記が使われています。つまり、この言葉はこの使徒言行録の著者であるルカがそこに含まれていると言うことを意味しています。ルカはかつて自分がパウロと共に行動した出来事を思い出してこの使徒言行録を記しています。おそらくペトロや他の人々の記録を記す際にはたぶんルカは他の人々の証言を採用して、この使徒言行録を記録したと考えることができます。しかし、特にパウロの記述の部分に関して言えば、ルカは実際に自分も体験したことを記しているのです。そのような意味で、当然この使徒言行録にはパウロについての記録が大多数を占めてしまうことになった訳です。

(2)ルカの描くパウロの人物像

 ところでこの使徒言行録に登場するパウロ自身が記した手紙は、ご存じのように新約聖書の中にいくつか収録されています。その手紙の中でパウロはキリストの福音を説明するにあたって、信仰者としての自らの体験や思いを様々なところで記録しているのです。それらの手紙を読むと、パウロは使徒として大胆に活動する反面、人間としての弱さを持ち、嘆き、苦しみ、絶望を体験する中で、キリストに対する信仰と希望を告白していることが分かります。これらの手紙の中でそのようなパウロの姿を読んでいる私たちは、この使徒言行録に記されたパウロの姿を読むとき若干の違和感を持つ感じることがあります。使徒言行録に記されたパウロは手紙で告白されている彼の人物像よりも立派過ぎはしないかと言う疑問を抱くことがあるのです。
 ただこの点に関して言えば、先ほどの野口英世の伝記に現れた危惧を私たちは抱く必要はないと思うのです。なぜなら、私たちも体験しますが、一人の人物を語るとき、その本人が語ることと、その本人を身近に見ている人が語る人物像はやはりかなり違って来るからです。皆さんも、自分に対する友人の評価を聞いて「そんなふうに思われているのか」と自分の思いとかなり違うことに驚かれることがあると思います。自分についての自分の評価と他人が自分について抱いている評価、そこにはかなりの違いが必ず生じます。しかし、その両者とも決して嘘を言っているわけではありません。ある意味でどちらも正しいと言ってもいいのかもしれません。この点で、使徒言行録に登場するパウロの姿は、ルカと言う人物の目を通して描かれた人物像であることを私たちは念頭に置く必要があります。ルカは使徒パウロを尊敬していました。おそらく、彼はパウロと共に行動するとき、生きておられる主イエスが彼を通して自分たちと共にいてくださると言うことを確信できたのではないでしょうか。その点ではルカにとってパウロと言う人物は語っても語り尽くすことのできない魅力を持った人であったはずです。

2.航海におけるパウロの言動
(1)パウロの航海を記録する27章

 今日の部分はパウロがいよいよローマの皇帝の裁判を受けるために、そのローマに出発する場面から始まります。当時、パウロがいたパレスチナから皇帝のいるローマに行くためには船で地中海を旅することが最適の方法でした。そこで、この27章の記事はローマへの船旅の出来事、特にその途中で嵐に出会い、難船してマルタ島に行き着くまでの経過がかなり詳しく語られています。27章は当時の地中海の航海の姿を知らせる記事となっており、新約聖書には他には登場しない、当時の航海術に関する用語がかなり登場します。そこでこの部分を説明する使徒言行録の解説書の内容は、この航海の内容を説明する記事が詳細に記されているものが多いのです。しかし、私たちはこの航海の方法についてはここでは詳しく取り扱いません。できれば皆さんも聖書の巻末に記されている「パウロのローマへの旅」という地図をご覧になられるとこの使徒言行録に記されているパウロたちの航海の航路を知ることができるでしょう。そこで私たちがここで注目したいのはこの航海の途中でパウロがどのような行動を取り、またどのような発言をしているかと言うことです。

(2)無謀な航海へのパウロの忠告

 パウロは未決の囚人、つまりまだ裁判で有罪か無罪かがまだ決まっていない身の上でした。ですからローマの市民権を持つパウロに対してローマの兵隊はかなり丁寧な取り扱いをしていたようです。皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスはたとえば、シドンの町ではパウロを自由に行動させ、彼が友人たちのところに行って、もてなしを受けることを許しています(3節)。パウロたち一行はその後、ミラと言う港で、アレキサンドリアからやって来た大きな船に乗り換え、ローマを目指します。しかし、航海は思ったようには進まず、彼らはクレタ島にあった「良い港」と言うところに行き着きます。季節はもう長旅の航海にはふさわしくない冬が近づいているのに、一行はこの「良い港」は冬を越すには適していない場所と考え、同じクレタ島のもっと西にあった「フェニック港」を目指して進みます。この際、航海を急ぐ人々に対してパウロは「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります」(10節)と忠告しています。パウロの記したコリントの信徒への手紙第二の記事によればパウロはこれまで「難船したことが三度。一昼夜海上を漂ったことも」あった(11章25節)と語っています。パウロは船乗りではありませんでしたが、難船の恐ろしさを身をもって体験していましたから、このような助言を語ったのでしょう。ところが百人隊長はパウロの発言より、航海の専門家である船長や船主の意見を優先して無謀な航海に旅立ちます。

(3)人々を励ますパウロ

 案の定、パウロを乗せた船はクレタ島の山から吹きおろす暴風「エウラキロン」に出会い、行き先を見失い、難破して海上を幾日も漂うことになります。20節に「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」と言うこのときの一行の絶望的状況が記されています。このときパウロは長い間、食事も取っていなかった人々に次のように語って励ましています。

 「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」(21〜26節)。

 パウロはここで自分に告げられた神の言葉を人々にとりつぎ、その言葉に基づいて自分たちは「一人として命を失う者はない」と励ましています。
 また、パウロは陸地が近づき、船が暗礁に乗り上げてしまうのを恐れ、逃げだそうとする船の乗組員たちを行動を知ると百人隊長にすぐに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」(31節)と忠告し、百人隊長はこれによって船員たちを船に押しとどめます。またこのあとパウロは、船に同乗する人々に食事を勧め次のように語ります。

 「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33〜34節)。

 そしてこの言葉に励まされた人々はパウロの指図のもと食事を取り、元気を取り戻しています。パウロはこのように、この船の中で重要な役目を果たしています。このため嵐の中でも船に乗り合わせた人々が希望を失うことなく、命を取り留めたのはこのパウロの働きがあったからだと言っても過言ではありません。ルカがもしこのときこの船に同乗していたとすれば、このパウロの姿は忘れることのできないものとして彼の記憶に残されたことは確実です。「あのときのパウロはすばらしさかった。もし、あのときパウロがいなかったら自分たちはどうなっていただろう」。そんな思いがルカの心に残り、彼はそのために詳細な航海の記録を使徒言行録に記したのだと考えることができます

3.神の約束を頼りとするパウロ
(1)神の約束に基づいて人々を励ます

 私たちはこのパウロはどういてこのように嵐の中でも冷静であり、また大胆に行動することができたのかに興味を持ちます。その第一の秘訣は嵐の中で絶望する人々を励ますパウロの言葉に表わされています。

 「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ』」(23〜24節)。

 彼の語った励ましは根拠のない希望的観測でも空虚な言葉でもありませんでした。その根拠は彼に語られた神の言葉、約束にあったのです。「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」と神がパウロに約束されていました。だからどんなことがあってもこの言葉は実現するとパウロは信じていたのです。実はこの言葉はパウロにこの時初めて神が語られた言葉ではありません。パウロがエルサレムでユダヤ人たちの攻撃を受け、ローマの兵舎に連れて行かれた夜に、イエスが彼のそばに立ってこう言われたのです。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23章11節)。ですから、この後、様々な困難の中でパウロを導いたのはこのとき語られた主イエスの言葉だったのです。彼はこのときからこの主イエスの言葉が必ず成就することに希望を持ち、また自らもその言葉が実現するようにとを祈り求め、進んで行動したのです。このように、パウロの行動の背後には確かな神の約束があったことが分かります。

(2)復活されたキリストに希望を持つために

 私たちに対して語られている神の約束に信頼し、それに希望を持って生きることが私たち信仰者に求められている大切なことです。そのようなことは私たちにも十分に分かっています。そして、それが私たちにとって決して簡単ではないと言うことも私たちは自分の信仰生活を通して味わっています。それではパウロはどうして、このように神の約束を信頼して生きることができたのでしょうか。それが、私たちにはないパウロの強さだったと言うのでしょうか。パウロはそのような意味で私たちとは比べものにならない立派な信仰者だったと考えるべきなのでしょうか。このことを考えるとき私たちはパウロが自らの信仰を語る、彼の書いた手紙から学ぶことができると思います。パウロは先ほども引用したコリントの信徒への手紙第二の中で次のように語っているところがあります。
 「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」(8〜10節)。
 このパウロの言葉を読むとき、パウロでさえその信仰生活の歩みは簡単ではなかったことが記されています。そしてそれと同時に彼の信仰的な確信がどのように形成されたのか、その秘訣もこの言葉から理解することができるのです。
 パウロもまた最初は自分を頼りとし、またその他の様々なものを頼りとするような普通の人間であったのです。しかし、彼の会った様々な試練は、彼をして自らの力に、また地上の提供する様々な助けの頼りなさを悟らせるものとなりました。そしてその反面、彼はキリストを死者の中から甦らせるような神の力に頼るようにさせられたと言うのです。この点ではパウロと私たちは同じ弱さを持つ信仰者であると言えます。私たちも日々の信仰生活の中で悩み、苦しみ、自分の力のなさと、私たちが今まで依って立とうとしたものの頼りなさを痛感させられます。しかし、その私たちが絶望することで終わることがないのは、同時に神がキリストを私たちに示し、そのキリストに希望を持つようにと導いてくださるからです。
 かつてイエスの弟子たちはガリラヤ湖で突然の嵐に出会い、漁師としてガリラヤ湖について精通しているはずの自分たちの知識と経験がどんなに無力であるかを体験することになりました。しかし、それと同時に彼らはその舟に共に乗っていてくださる主イエスが一瞬にして風も波も静まらせるような力を持っておられる方であることを知ったのです(ルカ8章22〜25節)。
 私たちもこのときの弟子たちと同じように、また嵐の中で主の約束に信頼したパウロと同じように、私たちと共に信仰の船に乗ってくださっている主イエスに目を向けて、彼に信頼して信仰生活を歩みたいと思うのです。

【祈祷】
天の父なる神様
光も差し込まない、暴風の中の暗闇の海を漂いながら希望を失いかけた人々に、パウロは自分に告げられた神の言葉を取り次ぐことで人々を励ましました。私たちの上には確かな神の約束があり、その約束が必ず成就することをパウロは明らかにすることで、人々に希望を与えました。私たちも神の言葉にとどまることで、希望を見出し、また希望を語ることができるようにしてください。荒海のような試練の嵐の中で自らの力のなさと、この世の提供する希望のはかなさを知らされたとき、主の約束とその力が確かに私たちを導いてくださることを信じることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン