礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年9月1日  「主イエス・キリストの福音」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙1章1〜7節(新P.273)
1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、
2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。
7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

1.福音を説明し始めるパウロ

 皆さんは人に手紙を書くことが好きでしょうか。私は苦手です。差し迫った事情で手紙を書く必要が生まれても、ペンを握って実際に手紙を書き出すまでには相当の時間がかかってしまいます。実際、手紙を書き出しても、まず迷うのはどんな書き出しの文章を記すかと言うことです。「拝啓」、「前略」、「お元気でしょうか」とか「残暑お見舞い申し上げます」など、いろいろな書き出しの文章が思い浮かぶのですが、何を書くかに迷ってしまいます。
 私たちはこの礼拝で前回から使徒パウロが記したローマの信徒への手紙を学び始めています。この文章は「手紙」と呼ばれているように、パウロ自身も最初の部分で当時の人々の手紙の書き方にならっているところがあります。当時、手紙の最初にはこの手紙を書いた本人の名前と、その手紙の宛先となっている受取人の名前、その上でその手紙を受取る人々の安否を尋ねたり、その人たちのために祈る言葉が書き記されます。この1章1節から7節までの文章はおおよそそのような当時の手紙の形式に習っていると言われています。ただ、私たちの使っている新共同訳聖書では2節から6節が「―」で囲まれています。この部分は手紙の定型句から離れて、特別な文章が挿入されていると考えている、そのことを示すためにこの印が書かれているのです。ですから実際には1節の言葉から7節の言葉につなげるなら、手紙の出だしの言葉としては十分なのです。
 だからパウロはこの手紙の最初の部分で当時の手紙の形式を破って、特別な文章を記しているのです。この部分、パウロが手紙の本論から横道にそれたというよりは、むしろこの手紙の本論自身にふれていると言っていいでしょう。なぜなら、ここに記されている内容はパウロがこのローマの信徒への手紙を通して説明しようとしているイエス・キリストの福音についてだからです。パウロは前に学んだ自己紹介の部分で自分はキリスト・イエスの僕であって、異邦人のために神に特別に選ばれた使徒だと説明しています。それではパウロは何のために特別に使徒として選ばれたのか。それは福音を異邦人に伝えるためでした。そこでパウロはこの最初の部分で、自分がこれから伝えようとしている福音とは何かと言うことについて記すのです。
 もちろんパウロはこの部分で福音をすべて説明するつもりはありません。これは映画館でちょうど次に上映される映画のダイジェストを写すように、これからパウロが説明する福音の内容を短い言葉で示そうとしているのです。

2.預言者を通して約束されてきた「福音」
(1)神の約束

「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」(2節)。

 「福音」とは「良き知らせ」と言う意味の言葉です。私たちの心を喜びで満たすようなニュースを表します。病気の人は自分の病を癒す、新薬が開発されたことを福音と感じるかもしれません。深刻な問題を抱えている人はその問題の解決策が示されることが福音なのかもしれません。しかし、ここで語られる福音の内容は人間にとって最も深刻で、悲惨な問題を解決する出来事です。しかも、その福音は昨日、今日誰かによって見つけられたものではなく、むしろ聖書の中で預言者たちを通して約束され続けてきたものだとパウロは語るのです。
 私たち人間の抱える深刻な問題を解決する福音、それは単なる気休めを与える言葉ではありません。私たちに確かで揺るぐことのない喜びを提供するものが聖書の語る福音です。だからこそ、その福音の内容は確かな神から、預言者たちを通して私たち人間に約束されたものだとパウロは語るのです。
 私は21歳のときに近所の教会に導かれ、そこで洗礼を受けてキリスト者になりました。そのとき私を教会に誘ってくれたのは同じ高校に通っていた後輩の一人でした。この後輩は教会の青年会長として伝道にもとても熱心で、私が洗礼を受けた後にも、同じように高校の別の後輩を導き、その彼も洗礼を受けました。この後輩は私よりも二つ年齢が下でとても元気で、信仰に熱心な青年でした。彼は洗礼を受ける前の日、わざわざ一日間断食をして備えました。彼が洗礼式の後、ご褒美に教会の牧師から、おいしそうに鍋焼きうどんをごちそうになっていたことを今でも思い出します。その彼が洗礼を受けたばかりの頃、教会で毎週語る信仰生活についての彼の語る証しの内容に私はとても気になってならないことがありました。あるとき、彼は「今週は聖書を読み、熱心に神に祈ることができてとてもよかった」と喜んで証ししました。ところがその次の週に彼は「今週は誘惑にまけて、テレビを見てしまった」と暗い顔をして語るのです。彼は元々正直で、素直なタイプの人でしたから、とりつくろうことなく自分の信仰生活を私たちに語ったのです。でも、それは毎週極端に違った印象を与えるものでしから、私はどうも気になったのです。きっと、彼自身そのことで一番苦しんでいたのではないでしょうか。彼の毎週の証しの内容は、自分の信仰生活がその週、どのようになったかと言うことでした。つまり、彼の関心の中心は自分が何をしたかと言うことに向けられているのです。そして彼はそのことで一喜一憂を繰り返していたのです。
 このローマの信徒への手紙を記したパウロは、人は自分が律法を守ることによって救われるのではなく、キリストを信じる信仰によって救われると教えました。これは言葉を換えて言えば自分の信仰生活の喜びの根拠は自分自身にあるのではなく、キリストの福音にあると言っていることになります。
 ですから、信仰生活を送る私たちにとって大切なのは自分自身を見つめることではなく、神が預言者たちを通して約束されたこと、聖書の語る言葉に耳を傾けなければならないのです。なぜならば、そこにこそ私たちの確かで揺るぐことない喜びの根拠が語られているからです。

(2)福音は神の御子について語っている

 それではこの福音は何を私たちに示しているのでしょうか。パウロは語ります。「それは御子に関するもの」(3節)ですと…。
 先にパウロが語った「聖書の中で預言者を通して約束されたもの」と言う表現は、言葉を換えれば私たちが知っている「旧約聖書」に示されていることだと言うことです。旧約聖書は新約聖書よりもページ数が多い上に、さまざまな律法や決まりが書かれていたり、ユダヤ人の歴史的な出来事が記されていますので理解しずらいと言う人が多いようです。もちろん、この旧約聖書を理解するためには様々な資料を用いて、その内容を読み解く必要があります。しかしそれでは私たちはこの旧約聖書からいったい何を学ぶ必要があるのでしょうか。それは「御子イエス・キリスト」のことだとパウロは語ります。
 旧約聖書から私たちは私たち自身の毎日の生活に役立つ知恵や、旧約聖書の登場人物が示した信仰生活の模範を学びとることができます。しかし、それだけならユダヤ教徒もイスラム教徒も同じことをすることができます。ですからキリストを信じる私たちが旧約聖書を通して知るべきことは「御子イエス・キリスト」に関する神の約束です。私たちがこの旧約聖書の根本的主題である御子イエス・キリストのことを覚えながら読むとき、旧約聖書は私たちにとって「福音」を伝える書物となるのです。

3.御子とは何者か
(1)ダビデの子孫

 パウロは次にこの御子に関して聖書が教える神の約束を簡単に二つの側面から説明しています。

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」(3〜4節)。

 実はここに語られている短い文章はパウロ自身の言葉と言うよりは、パウロの生きた時代の教会が日頃、唱えていたイエス・キリストに対する最も古い信仰告白の言葉、またはその信仰告白を歌う讃美歌の文句であったと考えられています。
「肉によれば」、「聖なる霊によれば」という二つの言葉に分けてイエス・キリストのことが説明されています。まず、「肉によれば」と言う言葉で表現されるのはイエス・キリストの人間的な側面です。イエスはこの地上に私たち人間と同じ存在としてお生まれになられました。そしてイエスの養父であったヨセフはかつてのイスラエルの王であったダビデの家系に属するものでした。聖書はこのダビデの家系から救い主、つまり「キリスト」が誕生すると言う神の約束を記しているのです。イエスはこの神の約束の通り、ダビデの子孫としてお生まれにならえました。それではどうして、イエスは私たちと同じ人間としてこの地上にお生まれにならなければならなかったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答は「仲保者」と言う言葉を使ってこのことを説明しています。神は私たち人間が犯した罪を、人間自らが償うことを求めておられるのです(問16)。ですから、イエスは救い主として私たち人間と同じ存在となられた上で、私たち人間の罪を償うために十字架で命を捧げられたのです。

(2)力ある神の子

 パウロは続けて「聖なる霊」によればと次に語っています。イエスがダビデの子孫として生まれたことはその系図を見れば誰もが確かめることができる事実なのかもしれません。しかし、次に説明するイエス・キリストについての内容は、聖霊自らが私たちに教えてくださることによって私たちにはじめて理解できる事柄なのです。

「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」。

 十字架にかかって死なれたイエスは三日目に死より甦り、復活されました。このことについて私たちが自分たちの知識で知り得ることは、また地上の科学で証明できることはエルサレムに残されているイエスの墓にイエスの体はないという事実までです。ですからイエスが確かに死者の中から復活されたと言うことを私たちが確信できるには、聖霊が私たちの心に働きかけてくださらなければならないのです。それではどうしてイエスは死から復活さることができたのでしょうか。人間の力は私たちの余命をわずかに長らえさせることはできても、死んだ者を甦らせることはできません。イエスの上に確かに神の力が働かれたからこそ、彼は復活することができたのです。つまりイエスの復活の事実は彼が力ある神ご自身でることを示すものだと言えるのです。
 ハイデルベルク信仰問答の問17はイエスが神である必要を次のように語ります。確かに人間の犯した罪は人間自身が償わなければなりません。しかし、実際の人間の力ではその償いを自分のためはもちろんのこと、他の誰のためにも償う力は持ち合わせていないのです。ですからそこには神の力が必要です。そしてイエスはこの神の力を持って私たち人間の罪を完全に償い、私たちに完全な救いをもたらしてくださったのです。これが聖書の語る福音の内容です。そして私たちを心から喜ばせることの出来るニュースは、このイエス・キリストの上に起こった出来事だけだと言えるのです。

4.不確かな人間に語りかける確かな神の福音

「この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。

 パウロの語るキリストに関する信仰告白はこの言葉で閉じられます。どんなにすばらしいことが歴史上で起こったとしても、その出来事と私たちに関係が無ければ、それは私たちにとって福音ではありません。しかし、そのすばらしい出来事を実現してくださった方は「わたしたちの主イエス・キリスト」なのです。つまり私たちの主イエスはこれらの事柄をすべて私たちのためにしてくださったのです。ですから私たちにとって信仰とは心からそのキリストがなしてくださった出来事を自分のものとして受け容れることだけなのです。私たちの人生とっての真の福音は、この主イエス・キリストによって実現した救いの出来事です。そして私たちはその救いの出来事を知るために聖書の言葉に耳を傾ける必要があるのです。
 私の書斎にはこのローマの信徒への手紙を説教した竹森満佐一と言う有名な牧師の説教集があります。改革派信仰の伝統に立つこの説教者が今から50年以上も前に語り、出版された書物は、今読んでも決して古さを感じさせない優れた書物の一つです。この説教集の最初の部分になぜ竹森牧師が教会の講壇で語った説教が文字にされて刊行されることになったかという経緯が記されています。
 あるとき竹森牧師の説教を聞いている一人の信徒が死刑の判決を受けて、その執行を待つ死刑囚と知り合いになりました。彼は教会で聞いた竹森牧師の説教を丹念に記録して文字にし、その死刑囚に送り続けたと言うのです。すると獄中で既に信仰を得ていたその死刑囚はその説教を読むことを楽しみにするようになりました。それだけではなく彼は獄中で同じようにキリスト教信仰を得た、死刑囚の仲間たちにその説教の文章を回覧し、彼らの信仰の交わりにその説教が大きな役割を果たすことになったと言うのです。このことを知った教会の人々は、その後、竹森牧師の語る説教を文字に起こして、説教集という形で残こすようになったと言うのです。
 私はこの説教集の前書きに語られた言葉を読みながら、自分が今、読み返している説教集の言葉をかつて自分の処刑の日を待つ死刑囚たちが熱心に読んでいたと言うことに関心を覚えました。確かに彼らは自分の犯した罪の故に、それを償うために死刑囚となったのでしょう。しかし、その死刑囚たちがこの竹森牧師の語るローマの信徒への手紙の言葉を聞いて、励まされ慰められたと言うのです。彼らはもしかしたら明日、絞首刑にされるかもしれない身の上です。つまり彼らにとって確かなものはこの地上にはもはや何も残されていないと言ってよいのです。しかし、その彼らを励まし、慰める言葉が存在したのです。それは人間の言葉ではありません。「神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」。私たちもこの同じ約束を聖書から聞くことができることを喜びつつ、期待を持ってこのローマの信徒への手紙の学びを続けて行きたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちのために聖書の中で預言者たちを通して約束されてきた福音、イエス・キリストによって実現された確かな救いの事実を、私たちが信仰を持って受け容れることができることを感謝いたします。地上の出来事の中で心を奪われ、一喜一憂する私たちです。どうか私たちが聖書の語る福音に耳を傾け続け、そこから確かで揺るぐことない慰めと励ましを見いだして生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。