礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年8月18日  パウロとは誰か

聖書箇所:ローマの信徒への手紙1章1〜7節
1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、
2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。
7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

1.パウロの記したローマの信徒への手紙
(1)沢山の人々に影響を与えた書物

 今日から使徒パウロが記したローマの信徒への手紙を学びます。パウロと言う人物について私たちはこれまで使徒言行録の記事からその生涯の一端を学んできました。使徒言行録はパウロの伝道旅行の協力者であったルカによって記されたとされています。ですから、私たちが使徒言行録を通して学んだパウロの姿はこの著者ルカの視点から描かれたものであると言ってよいと思います。
 一方、私たちが今日から学びますこのローマの信徒への手紙はパウロ自身が記したものです。ですから、私たちはこの手紙を読むことによって直接にパウロと言う人物について知ることができると言うことになります。
 新約聖書にはパウロが記したとされている手紙が他にもいくつか収録されています。そして一口に手紙と言っても、それらの文書はそれぞれ様々な点で異なった特色を持っていると言ってよいでしょう。その点で、このローマの信徒への手紙はキリスト教信仰の要点を体系的に記したものだと考えられています。ヨーロッパにおいて起こった宗教改革運動の指導者であったマルチン・ルターはこのローマの信徒への手紙の研究から福音の真理を再認識することになりました。その結果、彼は様々な誤りに満ちていた当時のカトリック教会に対して改革の火の手を挙げたのです。彼はこのローマの信徒への手紙を愛し、他の人にもこの書物を毎日丹念に読んで福音の真理について瞑想して生活することが大切だと教えたと言われています。
 ルターだけではなく、たくさんの人々がこのパウロの記したローマの信徒への手紙を読み、そこから沢山の示唆を受けて来ました。私の書斎にもこのローマの信徒への手紙について書かれた書物が数多くあり、とても一週間の説教の準備の時間には読み切れないほどです。この短い礼拝の時間でこのローマの信徒への手紙を詳細に説明することは困難なのかもしれません。ですから私たちのこの限られた時間で、この手紙から私たちが学び得ることがらを分かち合って行きたいと思っています。

(2)面識のない者たち送られた手紙

 この書物は「手紙」と呼ばれている通り、パウロがローマに住む信徒たちに送ったものです。ただ、写本によってはこの「ローマ」と言う地名が抜けているものもあるそうです。つまり、この手紙は当初、パウロによってローマで信仰生活を送る信徒たちに送られたものでしたが、その内容の重要性のため、他の教会にも回覧され多くの人々に読み継がれていったとも考えることができます。私たちは先日、裁判を受けるためにローマに護送されたパウロがその地で二年間生活したという記録を使徒言行録から学んだばかりです。しかし、この手紙はパウロがこのローマに到着するずっと前、おそらく彼の行った第三次伝道旅行の最中に書かれたものと考えられています。なぜならこの手紙の中にはパウロがこれからエルサレムに向かう予定が記されており、またそのエルサレムで敵対者から自分が守られるように祈ってほしいというパウロの願いが記されているからです(15章30〜31節)。つまり、この手紙を記したパウロとこの手紙の受取人であったローマの信徒たちはまだ直接な面識がなかったわけです。ですからパウロはこの手紙の冒頭でまず、自分の自己紹介をする必要がありました。

2.キリスト・イエスの僕
(1)奴隷であるパウロ

「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」(1節)。

 皆さんはまだ面識のない人に手紙を送った経験がおありでしょうか。もし、皆さんならその手紙をどのように書き始めますか。「突然、お手紙をいたします。私は「誰々」と申します」。おそらくその手紙を書く目的によってかなりその内容は変わってくると思いますが、とにかく相手に自分が誰であるかを理解してもらおうと最初に心がけるはずです。しかし、自分を他人に紹介すると言う仕事は簡単そうに思えますが、実はなかなか難しい作業なのかもしれません。パウロの自己紹介は少し変わっています。なぜなら、彼は自分自身のことを説明するというよりは、自分とイエス・キリストとの関係を説明することで自分を紹介をしようとしているからです。なぜならば、この手紙を受け取るローマの信徒たちとパウロとの間の共通点は、同じ主イエス・キリストを信じていると言うところにあったからです。それならば、自分とこのイエス・キリストとの関係を説明することが、相手に自分を理解してもらうために一番良いと彼は考えたのでしょうか。
 「キリスト・イエスの僕」と彼は自分を紹介しています。この「僕」と言う言葉は別の言い方をすれば「奴隷」と言う意味を持っています。基本的人権を重んじる現代社会では「奴隷」と言う存在は身近なものではありませんが、この手紙が書かれた古代ローマの社会では「奴隷」と言う存在は私たちに身近なものではありません。しかし古代ローマの社会は少数の市民とそれを支えるたくさん奴隷で成り立っていたと言われています。もしかしたら、この手紙を受け取ったローマの教会のメンバーの中にも奴隷の身分であった者もいたかもしれません。それでは「自分はキリスト・イエスの奴隷」とパウロの自己紹介の意味は何だったのでしょうか。

(2)誤ったキリストとの関係

 第一にこの言葉は自分はイエス・キリストの奴隷であって、イエス・キリストが自分の奴隷ではないと言うことを示しています。信仰生活についての誤解の多くは、神様を自分にとって都合のいい存在とだけ考えるところにあります。神様がいればすべてうまくいく、自分の都合のいいように神様は自分の人生を助けてくださると考え、信仰とはその神様を自分の都合いいようにコントロールことだと考えるのです。これでは神様は私たち仕える奴隷のような存在になってしまいます。案外多くの人がこのような誤解を信仰生活や神様について持っています。だから、逆に自分にとって都合の悪いことが起こる、「こんな神様はおかしい」とか、「神様などいない」と言い出すのです。
 第二に自分にとってイエス・キリストは自分の主人であって、自分の人生の模範を示す先生のような存在ではないと言うことを意味します。これも結構多くの人が誤解することですが、信仰生活はキリストが示された模範に従うことであり、そうすれば自分は幸せになれると考える人がいるのです。
 以前、アメリカ独立運動の指導者の人でもあったベンジャミン・フランクリンの日記を読んだことがあります。あるとき彼は教会の礼拝で牧師の説教を聞いて、「今日の牧師の話は何の役にも立たない、くだらない話だった」と酷評しているところがありました。そのとき、牧師は説教で何を話したのでしょうか。イエス・キリストの十字架の犠牲によって自分たちは救いを受けるという福音の根本的な真理を語ったのです。しかし、フランクリンは「こんな話は何の役にも立たない、牧師はもっと自分たちの日常に役に立つような話をすべきだ」と言っています。フランクリンにとって宗教とは人間の生活をよりよくするための知恵を提供するものであったようです。そしてキリストは自分たちにそのような知恵ある模範を示したと考えるのです。興味深いことにこのような考えを持つ人の多くは、イエス・キリストの生涯と言動を記録する福音書、特に山上の説教のような部分のお話を好みます。しかし、私たちが今、学ぼうとしているパウロの書いた書簡類を読むことを嫌います。なぜなら、パウロは私たちの救いはイエス・キリストから受け取るべきものであって、彼の模範に従うことによって得るものではないと教えるからです。

(3)僕と主人の関係

 そこで第三にパウロが語る「キリスト・イエスの僕」と言う言葉の示す本当の意味を理解しましょう。それは私たちがイエス・キリストの奴隷であって、私たちはこのイエス・キリストのものであると言うことです。つまりイエス・キリストは私たちの人生の主人であると言うことです。私たちが教会の教理入門教室で学んでいるハイデルベルク信仰問答はこのローマの信徒の手紙を土台にして作られた書物だと言われています。そしてその信仰問答の第一問では「あなたの慰めは何か」と言う問いに答えて、「私たちの慰めは、私たちが私たち自身のものではなく、イエス・キリストのものだと言うところにある」と教えています。つまり、信仰問答は私たちがイエス・キリストの奴隷であることが私たちにとってただ一つの慰めだと言うのです。なぜなら私たちの人生は私たちの主人であるイエス・キリストが責任を持って救いへと導いてくださるからです。
 また、このローマの信徒への手紙の学びの中でこれから取り上げますか、私たちがキリストの奴隷になる前は、私たちは罪と死の力に支配される奴隷だったのです。そしてキリストはご自身の命の価に換えて私たちの命を買い取ってくださったので、私たちは今やキリストの奴隷として生きることできるようにされたのです。

3.異邦人のための使徒
(1)特別な使命のために選ばれた

 「キリスト・イエスの僕」と言う言葉の意味を理解する際、もう一つ重要なことは旧約聖書で語られる「僕」には特別な意味が与えられていると言うことです。なぜならば旧約聖書では神に選ばれて特別な使命を与えられた人物を「主の僕」と言う習わしがあったからです。そのような意味でイスラエルの民を導いたモーセは「僕モーセ」と呼ばれ、またイスラエルの王として民を治めたダビデも「僕ダビデ」と呼ばれています。つまり、パウロが「キリスト・イエスの僕」と自分を紹介する意味には、もう一つ、自分は特別な使命を果たすためにイエス・キリストから選ばれた者だと言う意味があるのです。
 そしてその使命を説明するのが次の「召されて使徒となったパウロから」と言う言葉です。パウロはイエスによって使徒として選ばれたと言うのです。
 ご存知のように聖書が通常「使徒」と呼ぶ場合にはイエスによって選ばれた弟子の中の十二人を指すのが通例です。この十二人の内、イスカリオテのユダは後にイエスを裏切り、自ら命を絶ってしまいました。そこで教会はこのユダの欠員を埋めるために新たにマッテアと言う人物を選んでいます。どうしてこれほどまでに教会は十二人と言う数にこだわったのでしょうか。その有力な理由はイスラエルの民を構成する部族の数が十二であったからだと言われています。つまり、この使徒たちに委ねられた使命はイスラエルの十二の部族を神様に立ち戻らせることにあったと言えるのです。
 パウロはここで自らを「使徒」と呼んでいます。しかしこの後、十二弟子の誰かにもう一人欠員が生まれたのでパウロがその人に代わったと言う記述は聖書のどこにも記されていません。むしろ、パウロは聖書の中で人からではなく、神に直接、イエス・キリストによって「使徒」として選ばれたことを強調しているのです(ガラテヤ1章1節)。

(2)パウロに与えられた特別な使命

 それではパウロはどのような使命を果たすために神に選ばれて使徒とされたのでしょうか。パウロはそのことを次のように説明しています。

「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」(5節)。

 自分は「その御名を広めるために選ばれた」。その御名とはこの前の文章の流れから分かるようにイエス・キリストの御名のことを言っています。しかし、イエス・キリストの名前を広めるとは単にイエス・キリストの名前を宣伝すると言うことを意味しているのではありません。聖書において名前はそのままその名前の持ち主の実体を表すものと考えられています。これはですから、イエス・キリスト自身を伝える、彼が私たちの人生と主人となってくださったことを知らせると言う意味を持つ言葉になっています。だからこの御名を知らされたものは一人一人が「信仰による従順」で答える必要があったのです。「私は私の人生の主人がイエス・キリストであることを認めます」。そしてそう告白する人は進んで自分の人生をこのイエス・キリストに委ねていきようとするのです。それが「信仰による従順」と言う言葉の意味することです。
 さてここでパウロは自分の使命についてさらに特別なことを述べています。それは「すべての異邦人を信仰による従順に導く」と言っているところです。パウロはここで自分の働きの対象は「異邦人」であるとはっきり語るのです。聖書の中で異邦人とは神を信じて生きてきたイスラエルの民ではない他のすべての外国人を表す言葉です。つまり、イスラエルの十二部族以外の民のために自分は使徒として選ばれたとパウロはここで言っているのです。
 イエスがパウロを異邦人のための使徒として選ばれたと言うことは、神がイスラエルの民以外の異邦人をも救いに導こうとされていること示しています。ですから、パウロはこの手紙の中でイエス・キリストによる救いが最初からイスラエルの民だけのものではなく、全世界の民を救うためのものであったことを説明するのです。

 「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」(6節)。

 パウロはこれから説明することはローマに住む異邦人のあなたたちのためにも神様が実現してくださった事柄なのだと語ります。そしてこのことはこのローマの信徒への手紙をこれから読もうとする私たちにも語られている言葉であるのです。私たちもこの救いの中に召されている異邦人の一人なのです。私たちはこれからこの私たちのために神がイエス・キリストを遣わして実現してくださった救いの出来事をパウロの記した言葉から学ぼうとしています。その意味で私たちはこのローマの信徒への手紙を私たちに自身に宛てて書かれた手紙として読んでいきたいと考えるのです。

天の父なる神様
私たちを愛し、私たちをその救いの対象として取り扱い、私たちのために救い主イエス・キリストを遣わしてくださったあなたのみ業に心からの感謝を献げます。「キリスト・イエスの僕」と自らを呼び、その関係の中に慰めと励ましを見いだしたパウロのように、私たちもまた、イエスを自分の人生の主と仰ぎ、彼により頼んで生きることができるように聖霊を遣わし、私たちの信仰を導いてください。
救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。