礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年9月22日  「主を喜ぶことは力の源」

聖書箇所:ネヘミヤ書8章9〜12節(旧P.750)
9 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
11 レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
12 民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。

1.喜びを求める私たち
(1)喜びや悲しみはコントロールできない

 誰でも毎日の生活の中で悲しむよりは喜んでいたいと思っています。しかし、そういっても私たちを取り巻く厳しい現実は私たちに簡単には喜びの素材を提供してくれることはありません。むしろ、私たちを悲しませるような現実が数多くあり、私たちから喜びを奪ってしまうことの方が多いのです。
 私たちは普段、悲しみや喜びとは自分の目の前に起こる出来事に対する反応の一つだと考えているようです。自分の目の前や周りで悲しい出来事が起これば悲しくなるし、うれしい出来事が起こればうれしくなるのです。もちろん、私たちは自分から悲しい出来事が起こらないように、またむしろうれしい出来事が起こるようにと物事に働きかけることができます。しかし、どんなに私たちが努力しても、自分の人生から悲しみの一切を葬りさることはできません。そのような意味では悲しみも喜びを人間の力では完全にはコントロールの出来ないものであると言えるのかもしれません。江戸時代の有名な詩人で仏教の僧侶でもあった良寬と言う人は「悲しいときには悲しめばよい。うれしいときには喜べばよい」と語ったと言います。これもまた不合理と思われる人生を生きるための一つの知恵を語る言葉だったのかも知れません。

(2)悲しんではならない、喜びなさいと言う命令

 さて、そんなことを考えながら、私たちは今月の聖書の言葉であるネヘミヤ書8章10節の「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と言う言葉を学びたいと思います。この言葉を読んで気づくことは、ここで「悲しんではならない」と命令されているように、私たちが喜ぶことは、私たちの周りの出来事がたとえどんなものであったとしても、私たちに神が与えられた命令のように考えることができるのです。しかし、いくら神の命令であったとしても悲しむ人がそれを止めて、喜ぶことが本当にできるのでしょうか。めそめそ泣いている子どもに「ないちゃだめだ」と怒っても、ますます泣きじゃくるだけでどうにもならなくなってしまったと言う体験を子どもの親はしているはずです。
 聖書の言葉を本当に理解するためにはその言葉が語られた背景を理解し、その言葉が語ろうとしている本当の意味を知る必要があります。ですから、私たちはこの言葉の本当の意味を探るために、この言葉を語ったネヘミヤと言う人物と、この言葉をネヘミヤが語ったときのイスラエルの民の状況を少し調べてみる必要があるのです。

2.ネヘミヤの悲しみと回復された神殿

 時代は今から2500年ほど前に遡ります。この当時、イスラエルの国はアッシリアとそれに続いて興ったバビロニアという大国によって滅ぼされてしまいます。そのためにイスラエルの民は「亡国の民」として異国の地に移住させられていたのです。そしてやがてこのバビロニアを滅ぼして、ペルシャと言う大国が誕生します。このペルシャの国王は異国の地で囚われの身であったイスラエルの民を祖国に帰らせるという政策をとりました。旧約聖書に収録されるネヘミヤ書とエズラ書と言う二つの書物はこの時代の中で記された記録と考えられています。
 ネヘミヤはペルシャ王の献酌官として王にぶどう酒を献げる役人をしていました。ところがこのネヘミヤの元に彼を悲しませるニュースが届きます。ネヘミヤの元にエルサレムから親戚がやって来て、エルサレムの神殿も町も焼け落ちたままで、修復されないまま荒れ放題になっていることと、その地に住む住民も不幸の中で恥辱を受け続けているという知らせを聞いたのです(ネヘミヤ1章1〜3節)。
 このニュースを聞いたネヘミヤはたいへん深い悲しみに襲われます。ところが、このときネヘミヤが感じた悲しみの内容が興味深いものでした。ネヘミヤはこのニュースを聞いて、悲しみながら次のように神に祈っています。「耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした」(6〜7節)。
 私たちは悲しい出来事を聞くと「どうしてこうなってしまったのか」と嘆きます。その上で、誰かにその責任を負わせようと言う傾向があるのです。「誰もエルサレムを修復しようとする人がいないのか」。「神はどうしてエルサレムをそのような姿のままにしておかれるのか」…と言ったようにです。ところが、ネヘミヤはこのときその責任は自分にあると考えたのです。彼は自分と自分の先祖が神様を信じず、罪を犯して来たことを悲しみ、ここで悔い改めの祈りを献げるのです。そこでネヘミヤが始めたのがエルサレムの崩壊してしまった神殿を再建し、そこで神に礼拝を捧げるということでした。そしてこのネヘミヤ記はその彼の計画がどのように実現していったかを記録しているのです。

3.律法の朗読を聞いて悲しむ民
(1)ネヘミヤの神殿再建事業

 ネヘミヤはペルシャ王の許しをもらい、エルサレムに帰還します。そこで彼は困難な神殿の再建事業に取りかかっているのです。ネヘミヤ記の8章の前までは、この再建事業の様子が記されています。詳しくはここでは語れませんが、このネヘミヤの神殿再建の事業は簡単なものではありませんでした。イスラエルの民が他国に移住させられた後にエルサレムに移り住んで来ていた異邦人たちは、このネヘミヤの事業を快く思わず、何度も妨害工作を謀ります。また、イスラエルの民の一致も十分ではありませんでした。自分の利益だけを求める一部の貴族たちはこの事業に積極的に加わらないばかりか、工事に携わろうとした貧しい人々を苦しめ続けたのです。ネヘミヤたち神殿再建に従事した人々は、昼は神殿再建の工事に従事し、夜になると武器を持って建設中の神殿を警護しなければなりませんでした。その上、昼の作業中でも彼らは敵の攻撃に備えるために武器を身につけながら工事に従事したのです。やがてネヘミヤと神殿再建に取りかかった人々の作業の結果、エルサレムの神殿は建て直されます。この8章ではその神殿に集って、神に礼拝を献げる人々の姿が語られているのです。

(2)示された自分の罪に悲しむ

 どんなに神殿が再建されたとしても、ネヘミヤの使命はそれで終わるものではありませんでした。彼は次に神殿の再建事業と共に、人々の信仰を立て直す、信仰復興の業に着手したのです。ここで神を礼拝するために集められたイスラエルの民に向かって律法の書、つまり聖書の朗読が行われています。この朗読は「夜明けか正午まで」続けられたと語られています。民はその間、ずっと立ち続けてこの聖書の朗読を聞いたというのです(8章1〜3節)。そしてこの聖書の朗読を聞いた人々の反応を聖書は次のように記したのです。「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」(9節)。
 このときの民の反応はこのネヘミヤ記の最初で、エルサレムから届けられたニュースを聞いたネヘミヤと同じ反応でした。民は礼拝で説き明かされる神の言葉、聖書の言葉を聞いて、自分がどんなに神に背き、また罪を犯し続けてきたのかを悟ったのです。そしてそのために彼らは悲しみ、涙を流したのです。
 礼拝で語られる神の言葉を聞いて、そこに語られていることは他の人ではなく、自分の事であると感じることはとても大切なことです。かつて主イエスは「ファリサイ派の人と徴税人の祈り」と言うたとえ話を語られました(ルカ18章9〜14節)。そこでファリサイ派の人は自分と他人を比べることに懸命で、「あの人より自分のほうがまだましだ」と考えて安心しています。ところが徴税人は他の人など眼中にはなく、ただ神を見上げながら「罪人のわたしを憐れんでください」と胸を打って悲しみながら神に祈ったのです。その上でイエスは神に受け容れられたのはこの徴税人の方だと教えているのです。

4.礼拝において私たちに仕える神
(1)断食をするときではない

「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」(9節)。このネヘミヤの言葉は自分の罪を心から悲しむ人に向けられた言葉です。なぜなら神に献げられる礼拝の中で私たちに提供される喜び、福音のニュースは、この自分の罪を悲しむ人に与えられるものだからです。「悲しむ人は幸である、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)と言うイエスの約束の言葉は神に礼拝を捧げようとする私たちに約束されている言葉だといえるのです。
 続けて語られる「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ」(10節)と言う言葉は断食をする必要はないという助言を語る言葉になっています。聖書の中で自分の罪を悔い、神に赦しを求める者が行うものとして教えられているのが断食です。しかし、このときネヘミヤは自分の罪を悲しむ人々に今は断食をするときではないと教えているのです。
 それはどうしてなのでしょうか。新約聖書の中でイエスが人々からの質問に答えて、断食について語っているところがあります。イエスは当時の宗教家たちが断食を熱心にしていたのに反して、その弟子達に勧めることがありませんでした。その理由を問われたときにイエスは「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」(2章19節)。この言葉に出る「花婿」とは救い主イエスを表しています。私たちを罪から救い出すためにイエスが来てくださっているのです。ですから今は、それを喜ぶことが大切で、断食をするときではないと教えているのです。

(2)「聖なる日」それは神と神のみ業に目を注ぐ日

 ネヘミヤはここで「今日はあなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ」(9節)、「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ」(10節)と「聖なる日」と言う言葉を繰り返して語っています。聖なる日、それは神に礼拝を捧げる日であり、私たちが神とそのみ業に目を向けるための日なのです。だからこそ、私たちは自分に向けられている目を、つまり自分自身の罪の姿を見つめて悲しんでいる目を、今度は神に向ける必要があるのです。神はこの私たちを今、どのように取り扱ってくださっているのでしょうか。神は私たちの礼拝を喜んで受け容れてくださっているのです。確かにイスラエルの民はこの礼拝を献げるために多大な苦労を払いました。しかし、ネヘミヤはその自分たちの払った苦労に目を向けるようにと、ここで勧めているのではありません。この礼拝を喜んで受けてくださる神に目を向けなさいと教えているのです。
 私はこの「礼拝」と言う言葉について以前、興味深い話を聞いたことがあります。この礼拝という言葉は英語では「サービス(Service)」と呼ばれています。ですから英語で「モーニングサービス」と言うとパンにトーストが付いてくる簡単な朝食のことを言っているのではなく、朝の礼拝を言うのです。このサービスと言う言葉には「奉仕」といいう意味がありますから、私たちが神に奉仕するのが「礼拝」であると言うことを語っていると言っても良いかも知れません。
 ところがこの礼拝という意味を表すドイツ語の言葉「Gottesdienst」では意味が英語と逆転するのだそうです。ドイツ語の「礼拝」という言葉の意味は「神の奉仕」、むしろ神が人間に奉仕してくれるのが礼拝だと言うことになるのだそうです。そしてこのドイツ語の言葉は私たちの献げている礼拝に深い示唆を与えてくれるとある説教者は語っています。
 私たちは日曜日にこの礼拝に集るときに、自分たちがこの礼拝を守るためにたくさんの犠牲を献げていることを思い出すかもしれません。あるいは説教者も「もっと犠牲を払って、熱心に礼拝を守るべきです」と教えるかも知れません。しかし、私たちはこの礼拝について大切なところを見落としがちなのではないでしょうか。それはこの礼拝を私たちが献げることができるために神がどれだけの犠牲を払って奉仕してくださっているかと言うことです。ネヘミヤはこのとき、イスラエルの民に神の犠牲に目を向けさせ、恵み深い神のみ業に目を向けさせようとしているのです。そして彼らがその神のみ業に目を向けるなら、自分たちは心から神を喜ぶことできるし、その喜びが自分たちを生かす力となると教えているのです。

(3)イエスの犠牲によって成り立つ真の礼拝

 この礼拝で最初に読まれたイエスの言葉を思い出してください。ヨハネによる福音書4章でイエスはサマリアに住んでいた一人の女性にこの言葉を語っています。当時ユダヤ人たちはエルサレムの神殿で自分たちが献げる礼拝こそが真の礼拝であり、神はそれ以外の礼拝を受け容れてはくださらないと主張していました。しかし、イエスはここでやがてどこであっても、そして誰もが自由に神に礼拝を献げるときがやって来ると約束されているのです。「霊と真理を持って父を礼拝する時が来る」(23節)。それはイエスが私たちの罪のために十字架にかかり死んで、三日目に人間を苦しめるすべての悪を滅ぼして復活され、その後に天に昇られたことを通して実現しました。この礼拝は天に昇られたイエスがそこから私たちに聖霊を遣わしてくださることによって可能になったのです。
 私たちもまた、この礼拝を私たちが献げることができるために救い主イエスが私たちのためにどのように仕えてくださっているのか、私たちにどんなに深い関心を持ってくださっているのかに目を向ける必要があります。なぜなら、そのときに自分の犯した罪に悲しむ私たちは、イエスから真の慰めを受け、喜びを受けることができるからです。
 私たちに示されているネヘミヤ記の「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と言う言葉は、この礼拝の中で私たちが神から受けることができる喜びが、私たちの人生を支える確かな力となることを教えているのです。

【祈祷】
私たちがあなたに礼拝を献げることができるために、救い主イエスを遣わしてくださった幸いを覚えます。あなたは私たちのような罪人の礼拝を受け容れるために、御子の命と言う大きな犠牲を払ってくださいました。それほどまでして私たちを求めてくださったあなたの熱意を覚えます。私たちがそのあなたのみ業に感動し、心からの喜びを覚えることができるようにしてください。あなたを喜ぶことを私たちの力として信仰生活を送ることができるように、天から聖霊を送ってください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。