礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年10月13日  「神が喜ばれるいけにえ」

聖書箇所:ヘブライ人への手紙13章16節
7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
10 わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。
11 なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。
12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。
13 だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。
14 わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。
15 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
16 善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。

1.教会ではお供えはいらない

 私の母は昨年の7月、亡くなりました。5年ほど前に父が死んだ後、一人暮らしをしていた母はパーキンソン病を患っていた関係で体が不自由になっていました。そんな母を面倒見てもらうために、近くの川口キングスガーデンが母の入居を許可してくださっって、そこで母は暮らすことになりました。母はキリスト教徒ではありませんでしたので、キングスガーデンで行われている礼拝に私や職員の方々が何度も誘ったのですが、最後まで出席することがありませんでした。ただ、それは母が信仰を強く拒否していたと言うことではなく、たぶん生来の人見知りであったために見知らぬたくさんの人が集まる場所に出たくなかったのではないかと思っています。
 そんな母がある日、私にこんな話をするのです。「キングスガーデンでは入居者の食事をまず神様に供えてから、それを下げて自分たちのところに持ってくるらしい。だからいつもここの食事は冷たくなっている」。これは明らかに母の誤解なのですが、母は自分のところに運ばれて来る食事がいつも温かくないと言う理由を、出来てすぐに持ってくるのではなくて、途中で神様に献げるからだと考えていたのです。そういえば、子どもの時分にお菓子などをまず仏壇に供えて、その後でそれを食べると言う習慣が私の家にもありました。母はキリスト教でも同じことをしているのだと思い込んでいたのです。
 日本でも一部の人は神様に献げられた供え物には特別の力が宿り、その食物をいただくと特別な御利益にあずかることができると思っている人たちがいるようです。実は新約聖書のコリントの信徒への手紙などではこれと同じ問題が当時の教会の中で問題を起こしていたことが記されています(コリント一10章19節)。母ももしかしたら、そんなふうに勘違いしていたのかもしれません。
 しかし、キリスト教会では礼拝の中で神様に献金と言う献げ物をしますが、それ以外でたとえば祭壇に何か食べ物を供えることはありません。第一、この教会には供え物を献げるべき「祭壇」と言うものがありません。ですから誰から食べ物を神様のためにいただいてもどうにもならないのです。
 ある有名な牧師は教会学校に来ている子どものお祖母さんから「ご本尊さまに献げてください」と言われて畑でとれたたくさんの野菜を持って来られて困ってしまったと文章に記していました。結局、その牧師は神様ではなく牧師の家族でその野菜をおいしくいただいたと言うことですが…。
 それではどうして私たちの教会には祭壇がなく、神に何か供える必要がないのでしょうか。実はそれは私たちの信じるイエス・キリストによる救いの出来事と深い関係があるのです。

2.唯一の神への供え物イエス・キリスト
(1)神殿での動物犠牲

 皆さんも読んだことがあると思いますが、旧約聖書には神に供えられるべき献げ物についての細かな規定が記されています。特にモーセ五書の中の出エジプト記から申命記に至る部分の書物には民が守るべき様々な律法が記されていて、その中に詳しく動物犠牲を献げる方法が記されています。この律法が民に示されたモーセの時代には荒野の幕屋に神への祭壇がありました。しかし、ソロモン王の時代から始まって新約聖書の時代まではエルサレムに神殿が建てられそこに神への祭壇ありいた。そしてそこで働く祭司たちの重要な任務はこの動物犠牲を神に献げることだったのです。
 ところがこの動物犠牲を献げる儀式は紀元70年にエルサレムで起った反乱を鎮めるためにローマ兵がエルサレムに侵入し、神殿を徹底的に破壊してしまった後、行われることができなくなりました。旧約聖書の掟に忠実なユダヤ人たちがこれ以後、どのような対応をしたのかはここで詳しく論じることはできません。

(2)イエスの十字架と動物犠牲との関係

 ただ、キリスト教会がエルサレム神殿で動物犠牲を献げることをしない理由はこのローマ軍によるエルサレム神殿破壊の理由とは全く別の理由があったことは明らかにです。実はその理由を理解することができる聖書の言葉が今日のヘブライ人への手紙13章16節の少し前のところに記されています。

 「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」(12〜13節)。

 この言葉にはエルサレムの郊外のゴルゴダの丘の上で十字架にかけられ、死なれたイエスの出来事が説明されています。本来、動物犠牲が献げられる目的は罪に汚れた私たち罪人の罪をきよめるために動物犠牲の血が必要だったのです。ですから、この動物の血によって罪人と聖なる神との壊れかけた関係が修復されるとユダヤ人は考えていました。しかし、キリスト教会はこの神と私たち罪人の関係を修復するために献げられた犠牲がイエス・キリストご自身だと考えているのです。イエスが十字架で流された血によって私たちは神の前にきよめられ聖なる民、つまり神と共に生きる民とされるのだと信じているのです。
 かつて、神殿で献げられた動物犠牲は人間が罪を犯すために繰り返し献げられなければならないものでしたが、十字架のイエスはそうではありません。十字架のイエスは完全で完璧な献げ物ですから、それ以上に何も神に献げる必要がないものなのです。だからキリスト教会はイエスが私たちのために十字架にかかり血を流して、完全な犠牲となられたからには、それ以上、何も神に献げる必要はないと考えているのです。そしてこのヘブライ人への手紙の部分で「宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」と言う勧めの言葉は、エルサレム神殿での儀式からキリスト者は離れて、外に出て行くべきだということを勧めているのです。

(3)旧約の聖徒たちのイエスに対する信仰

 ついでに語るなら聖書が教える神への真の献げ物はイエス・キリストお一人であると言えます。ですから旧約聖書に登場する聖徒たちが神殿や荒野の幕屋で献げた動物犠牲はこのイエス・キリストを指し示す「ひな形」であったと言えるのです。そして、旧約聖書の人々は神殿で動物犠牲を献げることを通して、皆、このイエス・キリストの十字架による犠牲を信じたと言うことになりるのです。だからこそ、イエス・キリストの地上での誕生前に生きた信仰者たちはたとえ直接にはイエス・キリストにお目にかかることはできなかったとしても、その神殿で献げられた動物犠牲を通して、私たちと同じようにイエス・キリストによる救いを信じ、受け入れたと考えることできるのです。
 しかし、神殿で動物犠牲を続けて献げると言うことはイエス・キリストがこの地上に来られて十字架にかけらた後は大きく意味が変化しています。これ以後、キリストの献げられた犠牲の他に、何かの犠牲を献げようとする者は、皆キリストの完全な救いを否定したり、拒否するものとなってしまうからです。

3.私たちの献げるべきいけにえ
(1)救われるためではなく、救われた者の感謝を表わす

 さて私たちのために神に献げられた唯一で、完全な献げ物であり、いけにえであったイエス・キリストによって私たちはもはや自分の救いのために何かを神に献げる必要がないと者とされています。しかし、そういいながらも私たちに与えられた今日のヘブライ人13章16節の言葉には私たちが神にささげるべきものがあると教えているのです。

 「善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」。
 また同じように、私たちが献げるべきいけにえがあると教える大変有名な聖書の箇所が他にも存在します。たとえばそれは次のような聖書箇所です。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマの信徒への手紙12章1節)。

 さて、この聖書箇所に言われている「いけにえ」を理解するために大切なのは、このいずれの聖書の言葉も、まずイエス・キリストによる完全な救いを説明した後に語られていると言うことです。つまり、ここで語られる「いけにえ」には、私たちの救いのために献げられると言う意味は全くないのです。この点ではエルサレム神殿で献げられていた「いけにえ」の性格とは全く違う「いけにえ」のことが語られていることが分かります。それではこの「いけにえ」は何のために神に献げられるものなのでしょうか。それはイエス・キリストによって救われた私たちが神に感謝を献げるための「いけにえ」です。

(2)与えられたものをどのように使うのか

 何度も言っていますが、今は世間では健康産業は最大のかせぎ頭なっていると言えます。誰もが、「健康で長生きしたい」と考えていますから、お金を出してでも健康を手に入れたいと思っているのです。もちろん私たちが健康になること、また長生きしたいと思うことには何の信仰的な問題もありません。しかし、肝心なのはそれで得た健康な体で、そして幸いにして豊かに与えられた人生の時間を通して私たちが何をするのかと言うこと、それが大切になってくるのです。
 数日前、ある方と「お金儲けをすることは信仰的に正しいのかどうか」と言う話をしました。聖書ではお金に縛られたり、お金を神と置き換えて偶像にしてしまう愚かな人間の行為に対する警告は記されています。しかし、お金儲け自身が罪であるとは語られていないのです。もちろん不正な手段で、金儲けをすることはいけないのですが、正当な手段を通してお金を儲けることには何の問題もないのです。しかし、肝心なのはその儲けたお金を何のために、どのように使うのか、それが私たちに信仰者に問われてくる大切な問題であると言えます。
 同様に、私たちは今や、キリストの十字架による尊い犠牲を通して救いにあずかることができました。それでは私たちはその救われた人生を何のために使うことが大切なのでしょうか。そしてそもそも、キリストは何のために血を流し、私たちを救ってくださったのでしょうか。その答えを私たちに教えるのが今日の聖書箇所で語られている「いけにえ」と言う言葉なのです。

(3)私たちの日常の生活が神に献げられる「いけにえ」に

「善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」。
 ここで語られている「善い行いと施し」をしなさいと言う勧めは誰もが疑問に思わないような言葉です。私たちはこの言葉と同じ意味の言葉を他の宗教を信じている人々からも聞くことができます。また『小さな親切運動』のような慈善団体の活動を通しても耳をすることがでます。しかし、言葉は同じでも聖書の語るこの勧めの言葉の意味は大きくことなります。私たちは神に救われたものとして、その救われた人生を神のために使うべきであると聖書は教えているからです。私たちの教会の受け継いでいる大切な信仰告白の文章の一つであるウエストミンスター小教理問答書の第一問には「人のおもな目的は何ですか」と言う問いに答えて「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神をよろこぶことです」と言う答えが語られています。
 このヘブライ人への手紙を読むと興味深いことに、この神の栄光をあらわす生活、神を喜ぶ生活について当時誤解している人がいたことがわかります。つまり、その生活をこの世の生活とは全く違った生活で表わすことが大切だと考えた人々がいのたです。その人々は「限られた食べ物」だけを食べて信仰生活を送る、つまり「禁欲生活」を送ることが大切だと考え、そのように生きていました。しかし、ヘブライ人の手紙の著者はここで「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした」(9節)と語って、そのような禁欲生活をもって神の栄光をあらわそうとする生き方の過ちを指摘しているのです。
 神の栄光をあらわし、神を喜ぶ生活とは特別な形の生活ではありません。そしてヘブライ人への手紙の著者は「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」(15〜16節)と私たちに教えるのです。
 私たちが送る信仰生活、私たちがそこで兄弟姉妹たちと助け合って生きること、それがそのまま神を喜ばせるささげものとなるとこのヘブライ人への手紙の著者は教えています。このように私たちの人生がそのままで神の栄光をあらわし、神を喜ぶ生活となるのは、十字架の上で私たちのために献げられたイエス・キリストの唯一の犠牲のためであると教えるのです。
 聖書が教えるこの真理を覚え、私たちの信仰生活を通して、神への感謝の「いけにえ」を献げて行きたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちのために唯一最高の献げ物であるイエス・キリストを与えてくださり、そのイエスが十字架上で流された血によって私たちを聖なる民、あなたと共に生きる民としてくださったことを心から感謝します。どうか私たちがその救われた人生をあなたのために使うことができるようにしてください。あなたは私たちの日常の生活をあなたの喜ばれる「いけにえ」として受け入れてくださいます。そのためにも私たちがこの日々の生活の一つ一つをあなたの御心に従って大切なものとして送ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。