礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年10月27日  福音の力

聖書箇所:ローマの信徒への手紙1章16〜17節
16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

1.ルターの宗教改革
(1)ルターの宗教改革と私たちの教会

 今日も引き続いてパウロの記したローマの信徒への手紙から学びます。今日の箇所は1章の16から17節の部分です。偶然ではありますが、この10月の最後の日曜日は宗教改革を記念する礼拝となっています。正確には10月31日が宗教改革記念日で、その直前の日曜日を多くのプロテスタント教会では宗教改革記念日礼拝としてお祝いしているのです。
 1517年に当時、カトリック教会の熱心な修道士であったマルティン・ルターはヴィッテンベルク城教会の扉に『95ヶ条の提題』、つまりローマ・カトリック教会への公開質問状を張り出しました。以来、宗教改革の嵐はローマ・カトリックが支配していた西ヨーロッパの各地に広がり、大きな運動となっていきます。私たちの所属する改革派教会もその名前が表す通り、この宗教改革の遺産を引き継ぐ教会の一つです。ですから、ルターがもしこのときに何もしていなかったら、私たちの教会も生まれて来ていなかったとも考えることができるのです。そのような意味でこの宗教改革は私たちの教会にとっても大切な出来事であると言えます。

(2)ルターの確信を表す言葉

 この宗教改革記念日に特に好んで読まれる聖書の箇所が、私たちが今日取り上げているローマの信徒への手紙の言葉です。私たちの使っている新共同訳聖書では「正しい者は信仰によって生きる」と訳されていますが、私たちの多くはこの言葉を「義人は信仰によって生きる」と言う言葉で覚えていると思います。この聖書の言葉こそがルターの宗教改革を支えた言葉と言えるのです。
 当時、ローマ・カトリック教会の修道会に属する修道士として生きていたルターは、熱心な信仰者でしたが「自分が神によって救われている」という確信を持つことができませんでした。そこで彼は当時の修道士が行なっていた様々な修行にも励みますが、彼の不安は一向に拭われることはありませんでした。自分は本当に神にとってふさわしい者、つまり「義人」として神の御前で取り扱われるのだろうかと言う疑問に対して、当時のカトリック教会が提供する解決策は彼に何の役にも立たなかったのです。
 そのルターが自分自身を見つめることをではなく、福音に示されたイエス・キリストを見つめることによって得た結論は「義人は信仰によって生きる」と言う言葉が示すものでした。自分を神の御前で神にふさわしい者、つまり義人としてくださるのはイエス・キリストである。そのためキリストは十字架にかけられた。そして、すでに自分はこのイエス・キリストによって義人としれている。この福音を自分は信仰を持って受け容れることで救われる。このルターの信仰の確信を支える言葉がこの「義人は信仰によって生きる」と言うパウロの記した言葉だったのです。
 私たちはこのルターも大切にした聖書の言葉を今日もう一度、この宗教改革を記念する礼拝で学び直してみたいと思います。

2.福音を恥じない
(1)私は断固として福音を選ぶ

 私たちはこれまでパウロが今まで一度も会ったことがないローマの信徒の人々に心を尽くして自分の思いを彼らに伝えている手紙の冒頭の部分を学んできました。そして今日の部分からはいよいよパウロはこの手紙でローマの信徒に伝えたかたった本論の部分を書き始めているのです。人に物事を伝える技術の一つとして大切なのは、いろいろなことを語る前に、まず自分がいったいこれから何を伝えたいのか、その話の主題を明らかにすることだと言われています。それが明らかになれば、聞いている人もその主題に従って、これから語られるお話を整理していけばいいわけです。そのような意味で、パウロはこの短い文章でローマの信徒への手紙の主題と言った部分を書き記しているのです。
 「わたしは福音を恥としない」(16節)とまずパウロは語り出します。私たちとってキリスト教や、キリスト教会の存在は常に当たり前のようなものと考えられています。キリスト教やキリスト教会の存在を無視することが決してできないほどに、この世界にとってキリスト教の存在は大きなものとなっているからです。しかし、これはパウロの生きている時代はそうではありませんでした。当時の人々にとってキリスト教はまだ、ユダヤ人が信じる民族宗教から分離した小さな群れの人々が信じる信仰と考えられていました。伝道者パウロはユダヤ人から憎悪の対象として激しい迫害を受けていました。また、彼の信じるキリスト教の福音はギリシャの文化人たちからは「信じるに価しない、迷信」として馬鹿にされ、まともに取り扱われてはなかったのです。そしてこの手紙の受け取り手であったローマの信徒たちが住んでいるローマの都は当時の全ヨーロッパを支配する巨大な権力者が君臨する都として栄華を極めていました。しかし、このような世の最高の知恵と力を前にしてパウロは「福音を恥とはしない」とここで断言しています。
 この「恥とはしない」と言う言葉は私たちが日常で使う「恥ずかしい」と言う感情表現とは違って、むしろ自分の決意の強さを表すような言葉と考えられています。世の知恵と力が自分に対して、どんなにその優位性を示そうとしても、自分は断固として福音を選ぶと彼は言っているのです。つまりそのようなパウロの強い決意を表す言葉が「福音を恥とはしない」と言う表現となっているのです。

(2)福音と他のものを混同する誤り

それではなぜパウロは「福音を恥とはしない」、つまり「断固として福音を選ぶ」と宣言するのでしょうか。

「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(16節)。

 福音は「信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからだ」とパウロは説明します。つまり、私たちが救いを得る道はこの福音にしかないとパウロはここで言っているのです。どんなにすばらしい力を持った指導者も、私たちに真の救いを与えることはできません。どんなにすばらしい知恵の言葉でも、私たちを救いに導くことはできないのです。私たちを救いに導くものは聖書に明らかにされた福音、キリストの福音だけであることをパウロはここで強調しています。
 私たちの犯しやすい過ちは、いつの間にかこの福音の力と他のものを混同し、勘違いしてしまうところにあります。私たちは聖書が言っていることも大切だけれども、世の中の常識も大切であると考えます。もちろん世の常識は私たちがこの生活を送る上で大切な役目を果たします。しかし、世の常識には私たちを救う力はありません。そのような意味で福音と世の常識を同じレベルで取り扱ってはいけないのです。
 宗教改革当時のカトリック教会の誤りは、世の常識や習慣を最初は伝道に役立つ手段として取り入れたのですが、それがいつの間にか福音と同じレベルで取り扱われることになったと言うことです。たとえば女神信仰を信じて来た北ヨーロッパの人々にはキリスト教を受け容れさせるためにこの女神信仰を利用する方法が考えられました。しかし、それがいつの間にか聖書には何も記されていない聖母マリア信仰と言う迷信を生み出して行ったのです。
 ルターの抗議の元となった「免罪符」の問題は、当時の教会の建物の建設費を工面するために考えられたものだと言われています。当時の教会は救いについての確信を信徒に持たせるために福音を伝える代わりに、免罪符という商品を売って金銭を得ようとしたのです。これは現代日本でも問題となる「霊感商法」に通じるところがあります。人の不安を、福音を伝えることで解消するのではなく、返って利用しようとする方法です。これらのすべての問題は、福音だけが人を救うことができる神の力であるということが忘れられるとこから始まります。そのような意味で福音だけが私たちを救うことができる神の力であると言う真理は私たちの信仰生活を確かなものとするために大切なものだと言えるのです。

3.信仰を通して実現する
(1)キリスト上に下された裁きを通して

 次にパウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(17節)と語ります。
 福音は私たちを救うことのできる神の力です。そしてその福音には神の義が啓示されていると彼は説明するのです。旧約聖書において神の義が示されると言うことは、その神に反抗する者すべてが滅ぼされる、厳しい裁きを通して実現すると考えられて来ました。ルターはこの厳しい神の裁きが自分の上にも実現することが神の義と考えていたために、この神の裁きに対する恐怖を拭うことはできなかったのです。ところが、新約聖書がこの神の義を取り扱うときに示すものは何かと言えば、それはイエス・キリストです。イエス・キリストはこの神の義を実現するためにこの地上に来てくださった救い主なのです。しかし、イエス・キリストはこの義を神に反抗する罪人を滅ぼすことで実現したのではありませんでした。イエス・キリストは罪人に対する裁きを十字架に上で御自身が代わって担うことによって、この神の義を実現してくださったのです。ルターはこのイエス・キリストに下された神の裁きを福音によって知ったとき、自分がこのイエス・キリストをとして救われていると言う確信を得ることができたのです。
 先日のハイデルベルク信仰問答でキリストの十字架の死について部分を学ぶ部分が取り上げられていました(問40〜44)。問答書はキリストが十字架の上で私たちに代わって死の苦しみを負うことで、私たちの死の恐怖を取り去ってくださったと教えています。この場合の死の恐怖とは、神に逆らって生きる罪人が神から見捨てられると言う恐怖です。キリストは私たちに代わって十字架で神に見捨てられると言う死の苦しみを負ってくださいました。だから私たちはその死においても決して神に見捨てられると言うことはないと信仰問答は教えています。ですから、私たちの地上での死は、私たちの命が神の命の中に受け容れると言うことであり、永遠の命の入り口なのだと問答書は教えているのです。
 私たちが私たちの関心を福音に示された神の義、つまりイエス・キリストに向けることによっ
私たちはこのように様々な祝福をこの地上で受けることができるのです。

(2)信仰とは福音に対して「アーメン」と答えること

 パウロはこの神が提供する祝福は「初めから終わりまで信仰を通して実現する」と語ります。ルターの時代のカトリック教会は「初めは信仰で始まるが、洗礼を受けた後の信仰生活は自分の積む信仰的功績によって完成される」と教えたと言います。これだと「信仰から始まって、自分の業で終わる」と言うことになってしまいます。パウロは私たちの信仰生活は信仰で始まり、信仰で終わるのだと力説しているのです。
 聖書学者の話によればこの「信仰」と言う意味を表すヘブライ語の言葉は私たちがよく知っている「アーメン」と言う言葉と同根の言葉だと説明しています。私たちの信仰生活は聖書が示すイエス・キリストの福音に対して、「アーメン」、「その通りです」と告白し続けることだと言えるのです。
 信仰とは私たちの積む功績のようなものではありません。私の尊敬する一人の説教者はこの信仰と信仰者について数字の「0」のようなものだと言っています。「0」がいくらあつまっても「0」でしかありません。しかし、イエス・キリストは数字の「1」のような存在だと言うのです。私たちの信仰は「0」ですが、このイエス・キリストと結びつけられると「10」になります。そしてさらに「0」である信仰者が共に集ってこのイエス・キリストに結びつけられれば「10」が「100」になり「1000」になり、たいへんな力になっていくのです。ですから、私たちがキリストの福音に「アーメン」と答えていく信仰生活はこのような神の力に満ちたものとなると言えるのです。

4.「正しい者」とは

 最後にパウロは「「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」と語り、旧約聖書のハバクク書2章4節の言葉を引用しています。ただ、私たちが持っている聖書を読むとそこには「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」とちょっと異なった言葉が記されています。パウロは当時、広く使われていた旧約聖書のギリシャ語訳の言葉を引用しているので、私たちが使っているヘブライ語から直接に訳された言葉とは違っているのです。このハバクク書では神の救いが実現するときを待つ人々の姿勢が語られています。神に従う人は神の救いが実現するときを信仰によって待つと言っているのです。
 実は最近の聖書の研究の中で、ここでパウロが言っている「正しい人」、「義人」とは何を意味しているのかと言うことが問題となっています。最近の聖書学者たちはこの「正しい人」と言う言葉は新約聖書が成立する当時のユダヤ人たちが関心を持っていた「黙示文学」の中で重要な意味を持つと言うのです。
 最近、日本の近海では普段は採れない深海魚が漁師の網にたくさんかかるようになったとか。どうも海底で地殻変動を表す様々な現象が現れていると言うことを聞きました。そんな話を聞くと私たちは大地震が近づいているのではないかと不安を感じます。大地震が起こったら自分はどうなるのだろうかと考え、どんな用心を自分はすべきかを考えます。東日本大震災を経験した私たちはこのような情報に敏感になり、強い関心を持っているのです。
 新約聖書が記された時代に生きた人々が最も関心を持ち、心配していたこととは何かと言えば、神の裁きの日が必ずやって来ると言う終末の出来事です。それは私たちが地震や自然災害を心配するように、彼らにとっては当たり前の心配だったのです。彼らは神の裁きの日は確実に迫っていると考えていたのです。そこで「正しい人」と言う言葉はどういう意味を持つのかと言えば、それは神の裁きの日に「あなたはだいじょうぶ」と言っていただける者、その裁きの日に神が救ってくださる人を意味する人を指す言葉だと言うのです。ですから自分が「正しい人」としてその日に取り扱われることを、福音を通して知らされ、保証されている者は、その裁きの日を恐れることは何も無くなるのです。今日と言う日を最後の裁きに対する不安を抱きながら生きるのではなく、安心して生きることができるのです。
 パウロはこの「正しい人」として私たちが最後の日に取り扱われるという保証を福音が私たちに提供していると教えているのです。なぜなら、イエス・キリストが私たちに代わって神の厳しい刑罰を十字架で受けて、死んでくださったからです。そして、私たちはこの神の提供してくださっている救いを「アーメン」と言って受け容れていくだけでよいのです。ですから「正しい人は信仰によって生きる」とはこの最後の裁きの保証を、信仰を通して受け取った人々の姿を語ります。私たちの人生には今までいろいろなことが起こってきましたし、これからも同様に、自分では思いもかけない出来事が起こるかもしれません。しかし、その最後には神によって「あなたは大丈夫」と言っていただける保証を、私たちはイエス・キリストを通して得ることができたことを神に感謝したいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
あなたによって創られたこの世界、そしてあなたが創ってくださった私たち人間をあなたは正しく裁くために最後の日を定められました。そしてその日に私たちがあなたの前に「正しい人」として立つことができるようにと、あなたは私たちに救い主イエスを遣わしてくださいました。このすばらしい福音の出来事を私たちが信仰を持って受けることができることを心から感謝します。この地上の生活の中で福音では無いものに目を向け、救いの確信を失いかけるような私たちです、どうか聖霊を持って私たちを十字架のイエスと導き、私たちがそのイエスを通して与えられた祝福にあずかることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。