礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年11月3日  「神を知りながら、神としてあがめず」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙1章18〜23節
18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、
23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

1.どうして神の怒りを知る必要があるのか
(1)信仰の基礎工事部分

 先日はローマの信徒への手紙の1章16から17節を学び、この部分でパウロはこれから記そうとする手紙の内容の主題をまず提示していると言うことをお話しました。そのような意味で今日から学ぶ18節以下こそがこの手紙の本論の部分であると言えと思います。いよいよ本論を書き出したパウロはこの手紙の受け取り手であるローマの信徒たちにここで罪人に対する神の怒りと裁きについて語っています。「神の怒りと裁き」、そのようなことを好んで聞きたいと言う人は誰もいないと思います。むしろ、自分たちにとって好都合なことをまず聞きたいと言うのが私たち人間の本心であると言えます。道を歩いている人に突然に「あなたは罪人ですよ。そのままでは地獄に行きます。悔い改めなさい」と語ってとしても、どれだけの人がその話に真剣に耳を傾け、答えてくれるでしょうか。ほとんどの人はいやな顔をして、拒絶するだけではないでしょうか。しかし、パウロはここであえて人が好んで聞きたくはない神の怒りについて語り出しているのです。
 ローマの信徒への手紙についての説教や解説は多くの人が記しています。日本でもこのローマの信徒への手紙ほど、解説書が出版されている書物は聖書の中の他の書物にはないかもしれません。いろいろな人がこのローマの信徒への手紙をいままで解説してきました。その中で、内村鑑三と言う有名な聖書学者がおります。彼は『無教会主義』という日本独特の信仰スタイルを主張した人でも有名ですが、彼の聖書解説もとても有名で、しかも信頼におけるものだと多くの人から考えられています。実は内村は自分の本を書くために欧米の聖書の解説書や神学書をよく研究しており、特に長老派や改革派の文献をよく読んで自分の著書を記したと言われています。ですから、彼の聖書解説は今、私たちが読んでもかなり参考になると言えるのです。
 内村はローマの信徒への手紙が最初に神の怒りについて語ることを、建築技術にたとえて、「この部分は信仰の基礎工事を行なっている部分だ」と解説しています。どんな立派な建物を建てても、その建物が建てられている基礎の部分が軟弱であったり、欠陥であるなら、建物は容易に壊れてしまいます。内村は神の怒りに対して私たちが真摯に耳を傾け、心から悔いか改めて神に立ち返らなければ、私たちの信仰は確かなものとはなり得ないと教えているのです。それこそ、自分にとって都合のいいことだけを求める信仰であれば、その都合に合わない出来事が次々と起これば、そのような人は容易に信仰を失ってしまことになります。ですから、私たちがこの神の怒りに真摯に向き合うならば、私たちの信仰はより確かなものとされると言っていいのかもしれません。

(2)キリストの福音を理解するために

 パウロは16節で「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と語りました。キリストの福音にはどのようなすばらしい神の力が隠されているのでしょうか。それはその神の力によって私たちがどのような絶望的状態から救われたかが分からなければ、その力のすばらしさをも理解することができません。また17節でパウロは「正しい者は信仰によって生きる」と言う旧約聖書のハバクク書の言葉を引用することで、神の厳しい裁きの前で私たちが「あなたは大丈夫」と言ってもらえることが信仰によって可能となったと彼は言っています。
 現代人が地震のような自然災害や、人災の極みと言われる原子力の被害におびえながら毎日を暮らしているように、パウロの時代の人々は神の裁きの日、終わりの日の恐怖を覚えながら日々の生活を送っていました。それではその神の裁きとはいったいどのようなものなのか、それを私たちはまず学ぶことによって、「正しい人は信仰によって生きる」と言うパウロの言葉の本当の意味を理解することができるとも言えるのです。ですから、神の怒りをまず学ぶことが福音を理解することにとって大切だと言えるのです。

2.神の怒りとは

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(18節)。

 先ほどの内村鑑三の解説によれば、彼は「神の怒りを感情的なものとして捉えてはならない」と語っています。人間の怒りは極めて感情的なものと言えます。人間の感情が理性を押しのけるとき、その怒りが爆発すると言うのが通常、私たちが経験している怒りの正体かもしれません。そのような意味で人間の怒りは、確かに「正義の怒り」と言うものも中には存在しますが、私たちが日常生活抱く「怒り」のほとんどは身勝手なものと考えることができます。しかし神の怒りをそのような観点から考えると、私たちは聖書の語っている内容を正しく理解することができません。マルチン・ルターは独善的で身勝手な父親の姿から、聖書の語る「父なる神」の姿を想像し、恐怖に震えていたと言われています。ルターがその過ちから解放されることになったのは、忠実に聖書を研究し真の神の姿を知ったからです。私たちもそのような意味で、聖書の語る神の怒りを正しく理解しなければなりません。
 神の怒りとは、私たち人間の犯す罪に対する神の正しい反応と言うことができます。そのような意味ではこの「怒り」、裁判所の裁判官の判断に近いものと言ってもいいからしれません。通常人間は、相手が同じことをしているのに、それをしている人によって違った対応をすることがあります。「依怙贔屓」と言いますが、人は自分の気に入っている相手には甘く、嫌っている相手には厳しい対応を示すものです。親でも学校の先生でも、弱さを持った人間ですから、このような依怙贔屓を行なう可能性があります。しかし、もし裁判官が同様の罪を犯した人々にその人によって違った量刑を下していたら、それは正しい裁判とは言えなくなります。
 最近、日本でも裁判員制度と言うものが生まれました。そこで問題になっているのは一審の裁判員たちが下した量刑を二審以上の裁判官主導の裁判が覆すと言う出来事です。これはおそらく、素人の裁判員は目の前で罪を裁かれている被告だけを見て量刑を下すのに対して、二審以上の裁判官たちは同じケースを取り扱った他の裁判と比べてその量刑が正しいかどうかを判断するからです。つまり、裁判官は法律の前にすべての被告が平等に取り扱われなければならないと言う原則を守って判断をくだそうとするのです。ですから、裁判を公正にするためにはこのような問題が生まれて当然なのかもしれません。
 しかし、神の怒り、人間の犯した罪に対する神の正しい反応にはこのような心配はいりません。相手の地位が何であっても、その人が財産を持っていようがいまいが、神はすべての人間に対して平等に正しい判断を下されるのです。ですから「神の怒り」とはこのような神の公平な反応を語っているのです。

3.神の働きかけとは

 それでは神はいったい人間の犯したどんな罪に対して怒られているのでしょうか。パウロは記します。それは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して」であると。人間は不義によって神の真理の働きかけを妨げている、それを拒絶していると言っているのです。そしてそれが人間のあらゆる「不信心と不義」によく表されていると語るのです。それでは「神の真理の働きかけ」とは何であり、人間はその働きかをどのように拒絶しているのでしょうか。そのことをパウロは続けてここで説明しています。

 「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(19〜20節)。

 神の真理の働きかけとは私たちに人間に御自身の性質、つまり「神の永遠の力と神性を示してくださった」ことだと言うのです。神はそれをイスラエル民族だけにではなく、すべての民族に示してくださいました。なぜなら、この神の働きかけは聖書と言う特別啓示に頼ることなく、すべての造られた被造物を通して行なわれているからです。これを神学用語では自然啓示と呼びます。神は私たち人間に御自身の造られたすべてのものを通して、永遠の力と神性を教えてくださるのです。
 旧約聖書の詩編記者はこのすばらしい神の働きかけを次のように語っています。

「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」(19編2〜5節)。

 神はすばらしい大自然を通して私たちに語りかけてくださっていると詩人は歌います。だから、私たちがそれらのものに目を注ぐなら、誰でも神のすばらしさを知ることができるのです。
また、新約聖書の中にもイエスの語られた次のような有名な言葉が存在します。

「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6章28〜29節)。

 野に咲く名もない一本の花を通して神のすばらしい御業を知ることができるとイエスはここで教えてくださっているのです。

 日本に最初にキリスト教を宣教したと言われているカトリック教会のイエズス会という宣教団体を創立したイグナチオ・ロヨラと言う人物は、あるとき自分の信心を深めようと人里離れた山に登り、そこで瞑想をしようと考えました。ところが、彼はそこでたまたま見かけた一本の花が神のすばらしさを自分に語りかけて来て、静かに瞑想しようとすることができなかったと自分の体験を語っています。
 私たちも同様の経験を信仰生活の中でしていると思います。しかし、それは実は人間の自然な反応ではありません。それは私たちが既にキリストに救われており、聖霊の働きによって、心を作り替えられているからこそ、その自然啓示を通して神のすばらしさを知り、喜ぶことができるのです。しかし、生まれつきの人間、つまり神の救いを受ける前の人間はそのような反応を決して示すことができないことをパウロはここで語っているのです。

4.神の怒りはどこに向けられているのか
(1)神の働きかけに対する人間の誤った反応

 「従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(20〜23節)。
 こんなに豊かに神の働きかけがありながら、人はその働きかけを拒み続けてきました。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝を献げることもしない」と言うのです。そして、むしろ人間は「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」とパウロは語ります。人間の愚かさの極みはこのようにして、神でないものを拝む、偶像崇拝として表されるのです。
 世界のどのような民族の中でも必ず宗教は存在すると言われています。聖書はその根拠を神の自然啓示で説明しています。神はすべての民族に自然啓示を使って御自身の存在を知らせてくださっているのです。しかし、まことに残念ながら人間はこれらの神の働きかけを正しく受け取ることができません。返って真の神を拒絶し、その代わりに自分たちにとって都合のよい神々を作り、それを拝んでいるのです。だから、神はこの愚かな人間の行為に正しい怒りをくだされるとパウロは教えているのです。

(2)壊れてしまった人間の側の能力

 どうして、人間は真の神の働きかけに対してこのような態度をとり続けるのでしょうか。神の働きかけが不十分だからでしょうか。しかし、パウロはここではっきりと「従って、彼らには弁解の余地がありません」(20節)と断言しています。つまり、神の側には全く問題がなく、すべては人間の側の責任であると彼は言っているのです。神の働きかけに問題がないとしたら、問題はその働きかけを受けている人間の側にあると考えることができます。そして聖書はここに人間の罪の深刻さが現れていると言うのです。
 先日、知人に大切な用件を伝えるためにインターネットでメールを送りました。ところが何日たってもその返事が返ってきません。そこで携帯電話で知人に確かめて見ると、「パソコンを買い換えて、まだメール受信の設定をしていないので、メールが読めない」と言うのです。聖書は神に造られた人間は最初、神の働きかけを正確に受け取る能力を持っていたと言っています。聖書は人間だけが「神にかたどって創造された」(創世記1章27節)と説明しています。この「神にかたどって」、つまり神と同じように造られたと言う言葉の意味は、人間だけが神の働きかけを正しく認識できる能力を持っていたと言うことを教えています。ところが、この能力は最初の人間であるアダムとエバが神の前で罪を犯したときにおかしくなってしまったのです。だから、すべての人間は例外なく、この能力が壊れてしまっているために、神の働きかけに、誤った反応を示し、偶像礼拝の罪を犯すようになってしまったのです。
 誤解してはならないのは、ここで語られている神の怒りを受けざるを得ない人々は、私たちと違った誰か別の人を語っているのではないと言うことです。聖書はここで私たちを含めたすべての人間の深刻な罪の状態を語っているのです。だから、すべての人間にイエス・キリストの救いが必要となるのです。特別に頭のいい哲学者や科学者はこの自然啓示を受け取って、正しく神を礼拝し、感謝を献げることができるとは聖書は教えていないのです。むしろ、すべての人にイエス・キリストの十字架による救いが必要なのです。
 そして、この自然啓示と人間の悲惨な罪の状態を知った上で、もう一つ理解できることがあります。それはどうして私たちは今、あの旧約聖書の詩編記者と同じように、大自然を通して語りかける神の言葉にならない語りかけを聞き取ることができるのかと言うことです。またイエス・キリストが「野に咲く花を見なさい」と語られるときに、私たちに向けられている神の豊かな愛を感じることができるのかと言うことです。それは私たちが既にイエス・キリストによって救われているからです。イエス・キリストが私たちに聖霊を送ってくださり、私たちの壊れてしまった能力を癒してくださったからです。だから、イエスによって救われている私たちは聖書の言葉だけではなく、神が造られたすべての被造物を通して語りかける声を聞き分けることができるのです。私たちはこのことを最後にもう一度、確認して、神に心からの感謝を献げたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
神の怒りは、あなたの被造物を通しての豊かな啓示を拒み続けるすべての人間に向けられます。この怒りを免れる者は一人もいません。そしてすべての人にキリストの福音が必要であり、十字架による救いが必要です。私たちもかつて、この神の怒りの対象の一人でしたが、今や救い主イエスの働きにより、その方を信じる信仰により「正しい人」として取り扱っていただけることを心から感謝いたします。そしてイエスは私たちが失ってしまった機能を、聖霊の働きによって回復させてくださいました。私たちがこの回復された機能をもって、神を正しく知り、神に感謝と賛美を捧げる生活を送ることができるように導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。