礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年11月17日  「どこに神の国はあるのか」

聖書箇所:ルカによる福音書17章20〜21節
20ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見える形はで来ない。
21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。

1.どうして神の国は大切なのか

 今日の伝道礼拝では今月の聖句であるルカによる福音書17章21節に記されたイエスの言葉から学びたいと思います。20節の部分からイエスの語られた言葉を引用すると「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」となります。読んでみてすぐ分かるように、このイエスの言葉の中心は「神の国」と言うテーマであることが分かります。
 ところで私たちは普段の信仰生活でどれだけ「神の国」と言うことについて関心を持って生きているでしょうか。この「神の国」と言う言葉、ユダヤ人たちは「神」と言う言葉を軽々しく語ることを避けました。ですから、ユダヤ人向きに記されたと考えられているマタイによる福音書では「神の国」ではなく、「天の国」と言う言葉に置き換えられています。つまり、聖書では「神の国」と「天の国」は同じ意味を持つ言葉なのです。「神の国」、「天の国」と言うテーマを私たちは普段あまり深く考えないままに信仰生活を送っているのではないでしょうか。ましてや「天国」などと言う言葉で置き換えられると、自分の今の生活には全く関係のない人間が死んでから行く世界だと考える人もいるでしょう。
 しかし、皆さんにここで思い出していただきたいのは、キリスト教会で必ず唱える祈りの文章、「主の祈り」です。イエスが私たちのために教えてくださったこの祈りの文章には「御名があがめられますように」と言う言葉に続いて「御国が来ますように」と言う祈りが登場します。つまり、イエスは「御国」、神の国は私たちが神に最も祈り求めるべきものであると教えているのです。
 また、福音書はイエスがガリラヤで福音を伝え始めたとき、イエスが「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語ったと言うことが記されています(マルコ1章15節)。この言葉から分かるのは「神の国」とイエスが伝える福音とは深い関係があると言うことです。いえ、もっと踏み込んで言えば神の国が実現すると言うことがイエスのもたらした福音の中心的な内容であると言っていいかもしれません。このような意味で、「神の国」と言うテーマは私たちが福音を理解し、信仰生活を送っていくために大切なことだと言えるのです。

2.神の国とはどのようなものなのか
(1)ユダヤ人たちが望んだ神の国

 ところで今日のイエスの言葉はファリサイ派と言うユダヤ人の宗教家たちが「神の国はいつ来るのかと尋ねた」と言うことから始まっています。当時のユダヤ人にとって「神の国」がいつ実現するのかということが信仰生活の大きな関心事であったことがよく分かります。
 ユダヤ人たちは自分たちは神に選ばれた民、つまり神の国の民の一員であると信じていました。ですからこのユダヤ人たちにとって「神の国」の実現とは、ユダヤ人が重んじられ、ユダヤ人に敵対する者たちが一掃される世界の実現だと考えていたようです。特にイエスの活動された当時のユダヤはローマ帝国と言う巨大な権力の支配かに置かれていました。真の神を信じる自分たちが疎んじられ、異邦人であるローマ人たちがやりたい放題のことを行なっている。彼らはそのような状況を無視することはできません。ですからユダヤ人たちは神の国が一日の早く実現し、ローマを始めてする異邦人たちがこの地上から一掃されるときを待ち望んでいたのです。そして、そのユダヤ人たちは、聖書が約束する救い主、メシアはこの神の国を実現させるために神の元から遣わされる者だと信じていたのです。しかし、実際に救い主として神の元から遣わされたイエスは、ユダヤ人たちのこの願いとは違った行動をし、また教えを説きました。そしてイエスとユダヤ人たちの衝突はここから起こって来るわけです。

(2)そんなことでは幸せになれない

 昔、アニメ映画の『ドラえもん』を見て、今でも思い出に残っている物語があります。詳しくは覚えていないのですが、主人公ののび太君は自分をいじめたり、自分に都合の悪い人たちの存在がこの世界から無くなってしまおうと考えます。そこで、のび太君はその願いをいつものようにドラえもんの持っている不思議な道具で実現させると言うお話です。その道具を使ってのび太君はいじめっ子や、いろいろな人の存在を消していき、宿題を出す先生や、口うるさい両親まで消してしまいます。そして、その物語の最後にはのび太君以外のすべての存在が世界からいなくなってしまます。そこで始めてのび太君は自分の誤りに気づき、自分に都合の悪い存在を消しても、自分は幸せにはなれないと気づくのです。
 ユダヤ人たちがこののび太君のような願いを持ち、救い主をドラえもんの道具のように考えたと言う訳ではありませんが、少なくとも自分たちの理想とする神の国では、自分たちに敵対する勢力はすべて一掃され、自分たちのための国が建てられると考えていたようです。そして、このとき彼らはイエスにその神の国が実現するのはいつのときなのかと問うたのです。

(3)神の支配

 ところがイエスはここで「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と彼らに答えています。私たちは世界地図を見れば日本がどこにあるか、アメリカがどこにあるかがすぐ分かります。しかし、このイエスの言葉によれば神の国はそのように地図に描かれるものでない、国境線があってどこからどこまでが「神の国」と言うものではないと言っているのです。
 この「国」、つまりギリシャ語では「バシレイア」と言う言葉を「国」と言う言葉で訳してしまうことから様々な誤解が生まれると考える人々は、この言葉を違った言葉で翻訳しようとします。ある人は神の「御代」と訳したり、「御世界」と訳したりしています。しかし、その中でも最も正しい理解に助けとなると言えるのは「支配」と言う言葉で訳す方法です。つまり、「神の国」とは神の御支配が実現する場所であり、世界なのです。そして、この「神の国」の主人公はユダヤ人ではなく、神御自身なのです。「神の国」とは神がその支配を実現させる場所ですから、この神にふさわしくない存在は一掃される世界とも言うことができます。しかし、そうなると神に背いて生きるすべての罪人が、ユダヤ人も異邦人も、すべての人が一掃されることになってしまうのではなにでしょうか。ところが「神の国」とはそんな寂しい世界を語っているのではありません。

3.神の国はどのように実現するのか

 あるとき、汚れた霊に取り憑かれた人々を癒すイエスの姿を見て、人々が「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言ったと言う出来事が福音書に記されていまます(ルカによる福音書11章14〜23節)。イエスはこのように語る人々に対して次のように答えられました。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたちのところに来ているのだ」(同20節)。この言葉から分かることは神の国はイエスの地上での行いを通して実現すると言うことです。つまり、イエスの地上の生涯を見れば、神がイエスを救い主としてこの地上に遣わし、どのような神の国を、どのように実現しようとしてかが分かると言うことです。
 イエスの地上での活動はファリサイ派の期待するようなものではなく、返って強い反感と敵意を抱かせるものでした。その原因の一つはユダヤ人たちが神の国にはふさわしくないと考えた人々、彼らはそれらの人々を「罪人」と総称して呼んでいました。その人々に深い関心を払い、進んで交わりをしようとしたからです。
 たとえばイエスはあるとき、徴税人として有名だったザアカイと言う人物と巡り会い、彼と親しく交わりました。この徴税人はユダヤ人でありながら、ローマ帝国の下級役人として働く人々で、ファリサイ派の人々が「神の国」が実現するときには、真っ先に神のよって一掃されてしまうだろうと考えていた存在でした。しかし、イエスはこのザアカイが悔い改めて、神に従う姿をごらんになって、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカによる福音書19章9〜10節)と喜ばれたと記されています。
 このようなイエスの行動や言葉から考えるとき、イエスは神に都合の悪い存在を一掃することで神の国を実現しようとしたのではないことが分かります。むしろ、イエスはそのままでは神の国にふさわしくない人をも受け容れて、彼らを神の国にふさわしいものとして造り替えるために来られたのです。つまり、イエスの生涯、そして十字架と復活の出来事は、私たちを神の国に受け容れるためになしてくださった御業であると言うことなのです。私たちはこの救い主イエスによって、神の国の住民とされ、神の支配の中に生きることができるようにされたのです。

4,私たちの信仰生活と神の国の実現
(1)あなたがたの間にある

 さて、それでは私たちは救い主イエスの御業によって、神の国の住民とされたわけですから、この神の国と私たちの信仰生活はどのような関係にあるかと言う関心が次に生まれます。その点について先ほどのファリサイ派の質問に答えたイエスの言葉が重要になってきます。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 使徒たちの働きの後にキリスト教会を確かなものとするために働いた初期の神学者たち、これを教会では「教父」と呼ぶのですが、彼らはこの「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言う言葉を「あなたがたの心の中にある」と解釈したと言われています。救い主イエス・キリストは天から私たちに聖霊を遣わして、私たち一人一人を神にしっかりと結びつけ、神の民としてくださるのですから、神の国は私たちの心の中にあると考えても結論としては誤りではないかもしれません。
 しかし、この聖書の箇所をそのように解釈しようとするとき、一つの問題が生じて来ます。なぜなら、この言葉はイエスに反対するファリサイ派の人々に向けて語られている言葉だからです。これがイエスを信じている人に向けられた言葉なら、この教父たちの解釈も成り立ちますが、この言葉はそうではないのです。私たちの持っている新共同訳聖書はここを「あなたがたの中に」とは訳さずに、「あなたがたの間に」と訳しているのは、私たちに教父たちの解釈とは違った読み方をするようにと促しているのかもしれません。
 この言葉は人の中つまり「心」を指すのではなく、そこに集っている人たちの「間」を指しているのです。このときファリサイ派の人々に取り囲まれて、その「間」にいるのはイエス御自身です。つまり、そう考えるとこの神の国はここではイエス御自身を指し示していると考えることができるのです。神の国はこのイエス・キリストを通して実現されると言うことを私たちは既に確認しました。つまり、私たちがこの神の国に生きるためには、このイエス・キリストと関係をしっかりしたものとしなければならないのです。イエスを信じるか信じないか、それが神の国に私たちが生きるために必要不可欠な条件となります。ユダヤ人たちは神の国がいつ実現するのかに関心を持っていました。しかし、彼らはその神の国に自分たちが入るために自分たちの間に今、立っておられるイエスがどのような重要な存在であるいかを理解してはいなかったのです。
 そのような意味で私たちがこのイエス・キリストを信じて生きる信仰生活は、そのまま私たちが神の国の住民として生きている生活であると言ってもよいでしょう。

(2)終末の徴を求める必要はない

しかし、この神の国はいまだ完全には実現していないことも聖書はもう一方で私たちに語ります。ですからこの神の国は私たちの救いが完全に実現する日、イエスの再臨の日に、完全な形で実現するのです。
 この聖書の箇所を東京恩寵教会で説教した榊原先生はたいへん興味深いことを語っています。ファリサイ派の人々の「いつ神の国が実現するのか」と言う質問は、終末に伴う徴がどのように現れるかと言う意味なのだと解説するのです。ところがこの後にイエスが弟子達に向けて語った箇所でもイエスははっきり終末の予兆を示すのではなく、むしろ、終末の時は思ってもいないときに突然やってくると教えています(22〜37節)。つまり、終末の徴を探し求めることには意味がないとイエスは教えていると言うのです。キリスト教会の歴史の中で、この終末の徴を追い求める人々を巡って様々な問題が起こりました。迫り来る終末の出来事を前に一切のこの世的な業を止め、祈りを持ってその日を待った人たちが、その期待通りに終末が起こらなかったために失望して、信仰を失ってしまうことも起こりました。
 しかし、イエスはこのような徴を探して、そのために時間を費やす生き方を私たちに勧めていないと言うのです。むしろイエスは、私たちに終末がいつ訪れてもいいように、今の時を大切にすることを教えていると言うのです。私たちにとって今日と言う日が最後の時かもしれません。だからこそ私たちは今日と言う日と大切に送る必要があるのです。神の国に生きる私たちの信仰生活はこのような意味で、今日と言う日を大切にして生きる生活であると言えます。これから何かが起こるのは、それを私たちは心配する必要はありません。主イエスは私たちのために必ず神の国を完全な形で実現してくださるからです。だから、私たちはこのイエスを信頼して、今日と言う日に私たちが神からゆだねられている生活を忠実に送る必要があるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
私たちを御国の民とするためにイエス・キリストを救い主として遣わしてくださったあなたのみ業に心から感謝いたします。私たちは毎日の信仰生活を通してこの地上にありながら、神の御支配の中に生きることができる幸いを覚えます。そしてあなたは私たちのためにこの神の国をやがて完成させてくださることを感謝します。私たちがその日を「御国が来ますように」と言う祈りを持って待ち望み、あなたに信頼して生きることができるようにしてください。そしてたとえ今日と言う日が私たちにとっての最後の日であったとしても、地上での忠実な営みを送ることができるように私たちを助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。