礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年12月1日  「神の憐れみを軽んじてはならない」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙2章1〜5節
1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

1.ユダヤ人とイエス・キリスト

 今日から教会ではクリスマスを準備する待降節の礼拝に入ります。どうして私たちは主イエス・キリストがこの地上にお生まれになったクリスマスの日をお祝いするのでしょうか。クリスマスをお祝いしようとする者は、主イエス・キリストがこの地上にお生まれになられたことが、私たちにとってどんなに素晴らしいことなのかをまず理解しなければなりません。そうしなければクリスマスは私たちにとって単なる意味の分からないお祭りの一つになってしまいます。
 このクリスマスの意味を理解するために教会でよく読まれる聖書の箇所の一つは荒れ野で人々に救い主を迎えるための準備をさせたバプテスマのヨハネに関する物語です。バプテスマのヨハネは荒れ野に住む自分のところに集まってくるユダヤ人たちに対して「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(ルカ3章8節)と語りかけたと言います。
 当時のユダヤ人たちは自分たちの先祖であるアブラハムが神と結んだ契約によって、神の民とされた特別な民族であるという誇りを持っていました。そして神に背を向けて歩む異邦人たちと違って、自分たちには神の律法が与えられているという誇りをもっていたのです。これは言葉を変えて言えば自分たちはすでに神の民として完璧な者たちで、何の助けも必要ないと彼らが考えていたことを表します。ところが、これではせっかく神の元から救い主が遣わされても、「自分たちにはその助けは必要がない」ということになってしまいます。そこでバプテスマのヨハネはユダヤ人たちにあなたたちも神の前で裁きを免れえない罪人なのだということを悟らせ、彼らにも救い主の助けが必要であることを教えようとしたのです。つまり、このヨハネのメッセージを真剣に聞き、それを受け入れた者は、救い主の登場を待ち望む者と変えられることになるのです。ところが、このヨハネの働きにも関わらず大半のユダヤ人たちは彼のメッセージを十分に理解できませんでした。そのため、実際に神の元から遣わされた救い主イエス・キリストが来られても、彼を受け入れることも信じることもできなかったのです。
 私たちが今、学んでいるローマの信徒への手紙を記したパウロもこのユダヤ人の一人として生まれ、成長してきました。しかし彼は、神のみ前では異邦人もユダヤ人も関係なくすべての人が神の厳しい裁きを受けなければならない罪人であり、そのためにすべての人に主イエス・キリストの助けが必要であると言うことを語ったのです。パウロはそのためにまず、神を知らない異邦人たちがどのような罪を犯し、神の怒りにさらされているかを説明しました。つまり、彼らには主イエス・キリストの救いが絶対に必要なのです。そして、パウロは次にこれらの異邦人とは違い、自分たちは神に選ばれた民と誇っていたユダヤ人たちに対しても、あなたがたの罪も深刻であり、神の厳しい裁きから逃れるためには主イエス・キリストの救いが必要であると教えたのです。

2.他人を裁くこと
(1)自分の誤りに気づかない

「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(1節)。

 ユダヤ人たちは異邦人たちの姿を見て、「彼らはどうにもならない罪人たちだ」と裁き、異邦人たちは神の審判の日には真っ先に滅ぼされるべき存在だと考えていました。前回まで、パウロはどんなに異邦人たちが悲惨な罪の状態にあり、神の怒りのもとにあるかを説明してきました。おそらく、これを聞いたユダヤ人たちも「その通りだ」と同意したはずです。しかし、ユダヤ人たちはそのすぐ後で「だが、自分たちは神を知らない異邦人たちとは違う」と異邦人たちと自分たちの違いを語りだすはずです。そして彼らは、自分たちが異邦人たちと違って神の民として生きるためにどんなに努力をしているのかを語りだすかもしれません。
 もう20年近い前に私は青年たちの集まるある修養会に参加したことがありました。講師の講演の後に青年たちと教会生活についていろいろと話を交わすときがありました。そのとき一人の青年が「自分の教会には雨の日になると必ず礼拝を休む人がいる。そういう人は信仰者として失格だ」と厳しい口調で語りだしました。私はその青年が非常に不満そうにそのことを語る姿を見て、こう尋ねたのです。「あなたはもしかしたら自分が雨の日にも無理をしてでも礼拝に出席しているのに、ほかの人がその努力をしないことに腹を立てているの?」と、するとその青年は正直に「そうです」と答えたのです。そこで私はその青年に続けて「あなたがもし雨の日に教会の礼拝に出られたことがうれしくて、喜んでいるなら。そんな素晴らしい礼拝に出席できない人を責めるのではなく、同じような喜びを味わることができるようにと、その人たちが雨の日の礼拝に出席できるように祈ることが大切ではないか」と助言したのです。
 他人の行動を見て怒りを覚えたり、不満を抱くとき、問題はその他人にあるのではなく、その他人の行動を許せない自分の側にあることが多いことに気づきます。ユダヤ人たちは自分たちは律法に熱心にしたがっているのに、異邦人たちが好き勝手なことをして暮らしている姿を見て怒りを覚え、彼らを厳しく裁きました。しかし、それはユダヤ人たちが一見熱心に神の律法に従う生活をしているように見えながらも、本当はそれを心から喜んでいない証拠だったのです。ですからユダヤ人たちは本当は他人を裁くことではなく、神の恵みを喜ぶことができない自分に気づき、その自分のために神に助けを求める必要があったのです。

(2)自分が安心するために自分より不幸な人を探さなければならない

 他人を裁く人たちの犯しているもう一つの誤りがあります。それは自分の評価を高めるために、自分よりも成績の悪い人たちと自分を比べて、「自分は彼らよりはましだ」と満足しようとすることです。
 自分が不幸だと思っている人は、自分よりも不幸な生活をしている人を見つけると「自分の方がまだ恵まれている」と満足することができます。しかし逆に、もし自分よりも幸せそうな生活をしている人が自分の目の前に現れれば、「自分はなんて不幸なのだろう」と嘆き出すのです。この生き方の誤りは、自分の幸せを確認するためにいつも自分よりも不幸せな人を捜し求めることが必要になることです。いえ、自分の幸せのためには自分以外の人が不幸せになることが必要なのです。そのために相手の足を引っ張ってまで自分の周りの人を不幸にさせようとするのです。
 ユダヤ人たちにとって神を信じない異邦人たちの存在は、自分の優れた点を確認し、誇るために絶対に必要なものでした。だから彼らは異邦人たちを裁きはしても、彼らが神に救われるようにと願うことはできなかったのです。

3.神の裁きの基準は相対的ではなく絶対的

 イエスは他人を裁くユダヤ人の姿をあるとき「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえというお話を通して教えてくださいました(ルカ18章9〜14節)。あるとき神殿に自分は正しい人間だとうぬぼれているファリサイ派の人と、人々から「罪人」と蔑まれていた徴税人の二人の人がやって来て、それぞれ神に祈りをささげたのです。このときファリサイ派の人のささげた祈りはこうです。

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(11〜12節)

 このファリサイ派の人の祈りの特徴は自分の優れた点を示すために、それができない人を登場させてその人たちと自分を比べているところです。つまり、ファリサイ派の人にとっては自分の正しさを証明するために、正しい信仰生活を送ることのできない人々の存在がどうしても必要となるのです。

 ところがもう一方の徴税人は目を天に上げようともせず、胸を打ちながらこう神に祈りました。

「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(13節)

徴税人の祈りの中には自分と神以外の第三者は登場しません。ただ、神の前に自分のありのままの姿を示し、神の許しと助けを祈り求めたのです。パウロは今日の聖書箇所で続けて次のように語ります。

「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています」(2節)。

神は私たちを「誰それにくらべたら、正しい」という相対的な見方で裁かれるのではありません。ご自身のもっている「正しい」基準、つまり絶対的な基準によって裁かれるのです。だから、この基準の前にはユダヤ人も例外ではなく神の怒りのもとにある罪人とされるのです。しかも、自分のためならほかの人が不幸である必要があると考え、他人を裁いている彼らはなおさら神の厳しい裁きを受けることになるとパウロはここで警告しているのです。

4.神の慈愛によって今日という日が与えられている

 そして、パウロはこのユダヤ人たちの過ちを指摘しながら続けて次のように語っています。

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(4〜5節)。

 パウロはすべての人が悔い改めて神に立ち返るために、神は最後の日の裁きを行うことを遅らせておられるとここで教えています。それはすべての人を救いたいとお考えになる神の「慈愛」からくる行動なのです。そのような意味でこの神の「慈愛と寛容と忍耐」を知る者はその神の思いを重んじて、その裁きまでの猶予期間を有効に用いなければならないのです。しかしユダヤ人たちはそうせずに、かえって自分たちの罪を増し加え、自分に対する神の怒りを蓄えていると続けて警告しているのです。
 このパウロの教えに従えば、私たちが今日、新しい朝を迎えることができたのは当たり前のことではないということが分かります。神が決断すれば、私たちの命は一瞬のうちに取り去られても仕方がないものです。それはこの世界も同じことです。神がこの世界を今日も存続することを許しておられるからこそ、私たちは今日も新しい日を迎えることができたのです。そして、神が私たちにこのように今日という日をお与えくださったのは、はっきりとした目的があるからだとパウロはここで教えているのです。
 私たちに今日という日が与えられているのは、私たちが私たちを愛してくださる神の慈愛を知り、その神に感謝を捧げるためなのです。神は私たちと新たな出会いをするために今日という日を私たちに与えてくださっているのです。私たちはこのことを覚えて、今日を生きる必要があります。私たちは今日という日に、自分よりも不幸せな人を捜し求めて時間を送ろうとするのでしょうか。そのために他人を裁くことで神が与えてくださった貴重な時間を使ってしまうのでしょうか。
 それとも神のみ前に、自分のありのままの姿を示し、神に助けを求めた徴税人のように、私たちもまた、神の助けを必要としている者であることを認め、その助けを神に祈り求めるのでしょうか。救い主イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスを本当に祝うことできるのは、自分に神の助けが必要だと感じている人です。私たちもこのことを再び覚え、来るべきクリスマスを喜びをもって迎える準備を続けたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
今年もまた御子イエスのご降誕を祝うクリスマスの時が近づいています。私たちが私たちを罪から救い出し、神とともに生きることができるためにこの地上に来てくださり救いの御業を成し遂げてくださったイエスの素晴らしさを覚えることができるようにしてください。そしてその御子を地上に遣わす計画を立ててくださった父なる神に心からの感謝と賛美を捧げることができるようにしてください。私たちの心を一層、あなたのこの祝福に向けることができるように聖霊の助けをもって導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。