礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年12月8日  「人間を照らす光が来られた」

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1〜5節
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

1.クリスマスの起源

 今日はクリスマスを準備する待降節の第二週の礼拝を迎えました。クリスマスは救い主イエスがこの地上にお生まれになったことを記念する日です。しかし、クリスマスはイエスの誕生をお祝いする日ではありますが、正確にいえば彼の誕生日ではありません。誰も皆、自分の誕生日をもっています。誕生日がないと言う人はいないと思います。そのような意味では処女マリアから生まれたイエスも必ず誕生日をもっているはずです。しかし、残念ながら聖書にはイエスがマリアからお生まれになった経緯は記されていても、彼が何月何日にベツレヘムの家畜小屋で生まれたのかと言う正確な誕生日についての記述は残されていません。そのためイエスの正確な誕生日は不明のままなのです。
 それではどうしてこの12月に世界中でキリストの誕生を祝うクリスマスが行われるようになったのでしょうか。このクリスマスの起源に関する有力な説はもともとこの12月にローマで祝われていた太陽神の祭を、キリスト教がローマの国教になった後、キリストの誕生を祝う日と変えたのだというものです。暦に従えば、ちょうどこの時期は「冬至」となり、昼と夜の時間が逆転する季節となります。この「冬至」を境に昼の時間が長くなり、それに反比例して夜の時間が短くなっていきます。これを記念して古代のローマではこの時期、太陽神が闇に勝利する祭を行っていたと思われるのです。そしてローマがキリスト教を受け入れて後、この太陽神の祭りの日がキリストの誕生を祝う日と変えられたと言うのです。
 それではなぜ、彼らはこの太陽神の祭りの日を、昼が夜に勝利する「冬至」の時期をキリストの誕生を祝う日とすることが好ましいと考えたのでしょうか。その根拠となる聖書箇所が今日のヨハネによる福音書の言葉です。この箇所で福音書はイエス・キリストこそ、暗闇を照らし出す光であると語っているのです。
 太陽を拝む人々は世界中の至るところに存在しています。日本でも「ご来光」などと言って、太陽を拝むためにわざわざ富士山のような高い山に登り、拝む人がたくさんいます。この世界から太陽がなくなってしまったら、陽の光がなくなってしまったら私たちは生活することができません。しかしこのヨハネによる福音書はその太陽よりも私たちにとって大切な方がイエス・キリストであると紹介するのです。それではヨハネはどのような意味でイエスが私たちにとって大切であると説明するのでしょうか。今日はこのヨハネによる福音書の言葉に基づきながら、クリスマスの主役であるイエス・キリストと私たちとの関係について考えて見たいと思います。

2.聖書の教える「初め」
(1)造られたものではなく、神であるイエス・キリスト

 子どものときに、太陽にも寿命があり、いつかは太陽もなくなってしまう時が来ると言う話を聞いたとき、それが起こるのは遙か将来のことで、自分には直接関係ないことなのに何か言いしれぬ不安を覚えたことがあります。そのような意味で太陽とは初めがあり、終わりがある有限な存在でしかありません。
 それではこのヨハネによる福音書が光であると紹介するイエス・キリストはどのような方なのでしょうか。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1節)。

 この福音書が「初め」と言うときそれはいったいそれがいつのことなのかと言うことがまず問題となります。ご存知の通り旧約聖書の最初の書物である創世記の冒頭には同じように「初め」と言う言葉が登場しています。

「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)。

 この創世記に記されている「初め」とは神の創造の御業が始まったときを指しています。ここから神の御業によってすべての物が創造されるのです。ですからこの「初め」とは神によって造られた、創造世界の初めと言ってよいでしょう。しかし、ヨハネによる福音書の言う「初め」はそのような創造世界の初めのときを言っているのではありません。つまり、この「初め」とは歴史のある一点を指しているものではないのです。むしろこの言葉は神の創造の業の以前から、「言葉」であるイエス・キリストはおられたと言う意味を持っています。つまり、創造世界の歴史が始まる前からイエス・キリストはおられたと福音書か語っているのです。
 イエス・キリストの地上での生涯を書き記した他の福音書と違って、このヨハネによる福音書はイエスがこの地上にお生まれになる前にどのように方であったのかと言うことを説明します。もちろんイエス・キリストが持っておられる性質は彼がこの地上にお生まれになった後も変ることはありません。そして福音書はここで「初め」と言う言葉を使うことでイエス・キリストが神に造られたものではないと言うことを表しているのです。だから続けてヨハネはイエス・キリストを「言は神と共にあった。言は神であった」と語り、この方は造られた被造物ではなく、創造主である真の神であったと証言しているのです。

(2)言=「ロゴス」

 ところでヨハネによる福音書は冒頭でイエス・キリストを「言」と表現を使って紹介しています。この「言」は新約聖書が使っている原語であるギリシャ語では「ロゴス」と言う言葉で表されています。そして多くの聖書学者はヨハネがなぜここで「ロゴス」と言う言葉を使ってイエス・キリストを証ししようとしたのかと言う点を重要視して議論を進めるのです。なぜなら、この「ロゴス」は元々、ギリシャ語を使う人たちにとって特別な意味を持った言葉だったからです。
 ギリシャの人々にとって「ロゴス」とは神と人の間を仲立ちするものと考えられていたようです。しかし、ギリシャの人々の考える「ロゴス」はイエス・キリストのような人格を持った存在ではなく、「原理」とか「原則」と言うものであったと考えられています。つまり、この人がこの「ロゴス」を知れば、そのロゴスを使ってこの世界を動かしている神々を知ることができるのです。ギリシャ人は学問を重んじたことは有名です。そしてギリシャの世界から様々な科学が生まれました。もともと、この科学はすべてこの「ロゴス」を研究し、極めるためのものだったのです。ギリシャ人にとって科学は自分たちが神を知る道であったのです。その限りでは科学もまたギリシャ人とっては信仰の営みであり、宗教活動であったと考えることできます。ロゴスを極める学者は神を知り、救いに至ることができると信じられていたのです。
 そのような意味でギリシャ人の世界では神を正しく知ることができ、救いにあずかることができるのは学問を究めることができる、一部の学者たちでしかなかったのです。そしてこの学者以外の多くの人は神を正しく理解することも、その救いにあずかることも困難であったのです。ところが、このヨハネによる福音書は「ロゴス」をそのようには紹介していません。このロゴスはイエス・キリストであり、彼は私たち人間を救うためにこの地上に来てくださったと紹介するのです。ロゴスの方が、人に近づいて、自らの正体を明らかにしてくださったのです。ですから、このロゴスであるイエス・キリストによって無学なものも、神を知り、その神の救いにあずかることができるのです。

3.すべてのものの存在を支えるもの

 ヨハネはこのロゴスであるイエス・キリストと神によって造られたすべての存在がどのような関係にあるのかを次の言葉で説明しています。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3節)。

 創世記の記す創造物語を読むと、神の創造の御業において、被造物が無から造られる瞬間に重要となってくるのは神の発する言葉であったことが分かります。神が「光あれ」と語られると光が生まれています。またその後も、神の発する言葉によって世界の創造の御業は進んで行ったのです。ヨハネによる福音書がイエス・キリストを「ロゴス」と呼んだのはギリシャ人や、その考えだけを念頭に置いて語ったのでありません。福音書の著者は創世記の創造物語の中で決定的な役割を果たしている神の言葉と言う存在を知っていたからこそ、この言葉を自ら記す福音書に記したのです。
 この神の言葉がもしなかったら、神の創造の業は実現していません。イエス・キリストの存在はこの神による創造の業において無くてはならない存在と考えられるのです。そしてもし、イエス・キリストがおられなかったら世界は存在していないと福音書は語るのです。
 聖書はこの世界の初めを語る一方で、もう一つこの世界の終わりをも語っています。やがてイエス・キリストは再びこの地上に来られるときがやって来ます、その時、この世界は終わりを迎えるのです。しかし、聖書の語る終わりとは「すべのものがそこで終わってしまう」と言うものではなく、すべてのものの完成をときを語っています。今まで不完全なままだったこの世界が、イエス・キリストによって完全なものにされる時がやってくるのです。そう考えるとこの世界の歴史は、イエス・キリストによって始まり、イエス・キリストによって完成するものだと言うことが分かります。ヨハネによる福音書はこのような歴史の主人公がイエス・キリストであり、この方が地上に来られたと語っているのです。

4.命であり、光であるキリスト
(4)命であるイエス・キリスト

 さて、ヨハネによる福音書はさらにイエス・キリストを次のような言葉で紹介し続けます。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(4〜5節)。

 「言」であるイエス・キリストは同時に「命」であり、また「光」である方でだと言っているのです。
 今日はこの礼拝の後に、毎月恒例のグループ別聖書研究会を行ないます。そして今日の聖書研究会ではマルコによる福音書から会堂長ヤイロの娘がイエスの御業によって生き返ったという物語を学ぶ予定になっています(マルコ5章21〜43節)。あるとき、深刻な病で苦しむ自分の娘を助けてほしいと会堂長ヤイロという人物がイエスの元にやって来ます。そして「娘を癒してほしい」と懇願したのです。イエスはこのヤイロの願いを聞き入れてヤイロの家に向かうのですが、とき既に遅く、イエスが家に到着する前にヤイロの娘が「死んだ」と言うニュースが伝えられます。もはやどうにもならない、すべての人間があきらめざるを得ないような「人間の死」と言う現実を前に、救い主イエスは驚くべき御業をそこで示されました。死んでいたヤイロの娘を生き返らせたのです。聖書にはこのほかにもイエスが死んでしまった人間を生き返せると言う奇跡をいくつか記しています。そしてこれらの聖書の箇所を読むことでイエスが死んだ人間をも生き返らせる力を持っておられる方であることを知ることができるのです。
 しかし、このヨハネによる福音書の言葉は私たちにイエス・キリストについてもっと大切なことを教えています。イエスは死んだ人を生き返らせる力を持った方と言うのではなく、むしろイエス・キリストこそ「命」そのものだと教えているのです。だからイエス・キリストと共にあるものには「命」が与えられ、イエス・キリストから離れてしまうものからは「命」が奪われてしまうのです。なぜなら、この方は私たちの「命」そのものであり、この方なしに私たちの命はないからです。
 罪を犯して神から離れていってしまった人間には「命」はありません。だからそのような人間の人生は死で終わるしかないのです。ところが聖書は死で終わるべき私たち罪人のところに、「命」自身であるイエス・キリストが来てくださったことを教えます。そしてその「命」は私たちを死から救い出し、命のあるものにしてくださるのです。
 ヨハネによる福音書の中で最も大切で、何度も繰り返される言葉は「永遠の命」と言う言葉です。ヨハネはこの永遠の命こそイエス・キリスト自身であり、そのイエス・キリストによって私たちもまたこの「永遠の命」の祝福の中に生きることができると説明するのです。

(2)光であるイエス・キリスト

 そして私たち人間を死から永遠の命の祝福へと導いてくださるイエス・キリストの存在を、ヨハネの福音書は別の視点からもう一度捉えて「光」と言う言葉で説明するのです。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。

 この光がイエス・キリストならば、「暗闇」とは何なのでしょうか。それがまずここでは問題となります。この「暗闇」とは神なしに生きようとする私たちの世界を表しています。神なしに生き、その結果、罪と死の呪いの元にある世界がこの「暗闇」なのです。もし光であるイエス・キリストがこの地上に来てくださらなければ、世界は罪と死の呪いの元に滅び去る運命でしかありませんでした。しかし、イエス・キリストの誕生はこの世界の運命を変えたのです。イエス・キリストは私たち人間を死から命へと導く方であると共に、この暗闇の世界を光りへと導く方なのだと言うのです。
 それではこの光であるイエス・キリストはどのようにして暗闇の世界を照らしだし、またその暗闇の力に勝利してくださったのでしょうか。そのことをヨハネはこの福音書で明らかにしようとしています。つまり、福音書はイエス・キリストの地上での生涯を記し、その十字架と復活の御業こそが、この暗闇の世界を光の世界へと導き出す出来事だったと説明しているのです。
 このヨハネによる福音書には生まれつき目が不自由な人の話が記されています(9章)。彼は生まれてこの方、一度も光と言うものを見たことがありませんでした。彼は闇の世界しか知ることのできない人だったのです。そして彼の人生もまた、生まれたときから目が見えないと言うことで、他の人たちから「神に呪われた人」と考えられていたのです。ところがイエス・キリストはこの人の人生を全く変えてしまわれます。イエスは彼の不自由な目を癒して、光を回復してくださいました。そればかりではありません。人々から「神に呪われているから目が見えないのだ」と考えられていた彼の人生の秘密を、「神の栄光があらわれる」ためのものだったと説き明かしてくださったのです。イエスは彼の目に光を与え、彼の人生の上にも光を与えてくださったのです。
 光なるイエス・キリストは私たちの人生の本当の意味を明らかにして下さる方です。そして矛盾に満ちた、この世界の本当の意味をも明らかにしてくださるのがこのイエス・キリストなのです。クリスマスはこのイエス・キリストが私たちのところにやって来てくださったことを祝う日です。言葉であり、命であり、光であるイエス・キリストが自分ほから、私たちのところにやって来てくださったのです。私たちはこのことを覚えてクリスマスのときを喜びを持って迎えたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
今年も私たちにこのクリスマスを迎える準備の時を与えてくださることを感謝します。私たちを救うためにやって来た「言」である方を、また「命」であり「光」である方の誕生を心から私たちがお祝いすることができるように、聖書の言葉と聖霊の導きによって私たちの心を整えてください。どうか私たちがキリストの福音の喜びを正しく伝えることで、このクリスマスの祝福をさらに多くの人々と分かち合うことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。