礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年12月15日  「神の公平な裁き」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙2章6〜11節(新P.275)
6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
11 神は人を分け隔てなさいません。

1.神は分け隔てしない
(1)クリスマスへの招待状

 今日は待降節第三主日の礼拝です。教会では次週、一足先にクリスマス礼拝を祝います。正確に数えると次週の礼拝は待降節第四主日の礼拝ですが、クリスマスの日は日曜日にはなっていませんので、クリスマスの週を迎える日曜日にクリスマス礼拝を献げるのです。教会ではこのクリスマスになるべくたくさんの人々に教会に来ていただいて、一緒にクリスマスをお祝いしょう考えています。そのためクリスマスカードを送ってクリスマス集会に招待したり、チラシを近所に配布してクリスマス礼拝をお知らせしています。
 クリスマスを人々が集って賑やかにパーティをする日だとだけ思っている人は、教会のクリスマス集会の案内を受け取って「教会でもクリスマスをするんですか」と驚かれる人もいると思います。クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日であるにも関わらず、多くの人々はクリスマスの本当の意味を理解してはいないのです。そしてクリスマスの本当の意味を知らない人は、自分がこの真のクリスマスの祝福へと神から招かれていることも理解していません。せっかく、クリスマスの祝福へ自分を招く招待状が神から届いているのに、その招待状の意味が分からないのです。
 どうしてこの神の招待を多くの人が理解できないのかと言えば、それはクリスマスの祝福に私たちを招く神からの招待状には「あなたはこのままでは厳しい裁きを受けて、神の怒りを受けざるを得ない罪人です。しかし、そのあなたを救うためにイエス・キリストがこの地上に遣わされました。このすばらしい出来事をお祝いしましょう」と書かれているからです。つまり、誰でもこのクリスマスの祝福が自分のためのものであると自覚するためには、自分が神の裁きの前で、神の怒りを受けなければならない罪人であることをまず知らなければならないのです。

(2)ユダヤ人も異邦人も同じ

 私たちが今、学んでいるローマの信徒への手紙の中でパウロはユダヤ人も異邦人も等しく、神の厳しい裁きの前で、神の怒りを受けなければならない罪人であること力説しています。そして、この厳しい神の裁きから逃れることのできる人は誰もいないと彼は語るのです。このパウロの論法はすべての人々にイエス・キリストによる救いが必要であることを教えるためのものだと言えます。ですから、すべての人々に分け隔てなく与えられるイエス・キリストによる救いは、すべての人々を分け隔て無く厳しく裁かれる神の御業が前提となっているのです。
 そして、それは今日の箇所のパウロの言葉の中でも同様です。彼はここでユダヤ人たちの過ちを指摘しています。キリストの救いを必要としているのは、神のことも、その神の律法も全くしらずに罪を犯してきた異邦人たちだけではなく、神を知り、律法を知っているユダヤ人も同様であると語るのです。その意味でパウロは今日の聖書の箇所でも神は人を分け隔て無く公平に裁かれることを語ります。しかし、このパウロの記した聖書の言葉は信仰者に誤解をそのままでは与える可能性がある難しい言葉であるとも言えます。それでは、今日の箇所でパウロの語るどのような言葉が私たちキリスト者に対して誤解をあたえる可能性のある言葉なのでしょうか。また、そのパウロの言葉を私たちはどのように理解すれば、その誤解を避けることができるのでしょうか。そのことについて少し考えて見たいと思います。

2.最後の審判の基準は「行い」か「信仰」か

 今日のパウロの言葉のいったいどこが人々に誤解を与える言葉なのでしょうか。それは「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」と言う言葉です。ここで語られる「報い」とは神の最後の審判における裁きの結果、与えられる報いであると考えることができます。だからパウロは続けて「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」と語っているのです。
 しかし、この言葉を文字通り考えると人が神から「永遠の命」受けるか、その反対に「怒りと憤り」を受けるかを決める基準はその人の為す「行い」となってしまいます。そうなると、パウロがこのローマの信徒への手紙の中で力説する人は「行い」ではなく、キリストへの「信仰」によって義とされると言う教えと矛盾してしまうことになります。パウロはこのすぐ後で確かに「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(3章28節)と教えているからです。
 この問題を解決するためにかつてのカトリック教会は信仰によって義とされるのは、その人が信じる前までの罪であって、その人が信者になった後の罪は、その人の為す行いによって償わなければならないと教えました。しかし、人の救われる条件に自分の行いが含まれてくると、誰がその条件を満たすことができるような完全な行いができるのかと言う問題がさらに生まれてきます。なぜなら、誰もが自分は神の前で本当に救われるだけの条件を自分の行いで満たすことができるだろうかと疑問に思わざるを得ないのです。そこで「足りない」と思う人は教会の販売する「免罪符」を買いなさいと言うことになってしまうのです。宗教改革者はそのような当時のカトリック教会の誤った教えと断固として戦いました。そして、そのため宗教改革者たちの力強い武器となったのはこのローマの信徒への手紙が教える「信仰による義」の教え、信仰義認の教理だったのです。それではここでのパウロの語る「行い」と「報い」の関係は、パウロがこのローマの信徒への手紙の中で力説した「信仰による義」の教えとどのように関わってくるのでしょうか。

3.善き行いの根拠としての救い

 それを読み解く鍵は善を行なう者に求められている「忍耐」と言う言葉にあると考えられます。私は「忍耐」と言う言葉を読むと、自分が子どもの頃、学校の旅行に行ったときに土産物屋で買った「忍耐」と言う文字が書かれたプレートの飾りを思い出してしまいます。小さい頃から、私は「我慢の足りない」者だと親に言われ続けてきたからです。そんな理由から私は自分を戒めるためにその飾りを買って来たのです。
 しかし、聖書が言う「忍耐」は私たちが普段考えている「我慢」とは少し違う意味を持っています。たとえばこのローマの信徒への手紙の中でもこの「忍耐」と言う言葉は次のように使われています。「忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(5章4節)。また他にも「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」8章25節)とあるように、聖書ではこの「忍耐」という言葉と「希望」あるいは「望み」と言う言葉がペアになって記されているのです。つまり、聖書で言う「忍耐」は単なる人間の我慢の状態とは違い、希望があるから、望みがあるから可能となる「忍耐」だと言えるのです。そうなると、ここでパウロが善を行なう者と言っている人は「希望」を抱きながら忍耐することが出来る人と言うことになります。もし、我慢して善を行なえば、神の救いにあずかるかも知れない、永遠の命を受け取ることができるかもしれないと言う不確かな期待だけで生きる人には決してできない「忍耐」を語っているのです。
 それでは、この忍耐を支える希望とは何なのでしょうか。それが信仰による義であると言えるのです。イエス・キリストが十字架にかかり、復活されることで、私たちは皆、その罪が赦され、すでに、死と滅びの支配から解放されました。そして今、私たちは自由に神に仕える者とされているのです。このキリストの救いによって、私たちは神の厳しい裁きの前で無罪判決を受けることができるのです。そしてその確かな希望が私たちを支えるのです。そしてその上で私たちは神に感謝し、神の喜ばれる善を行なおうと心がけるのです。
 ある聖書解釈者は、ここで問われる善き行いとはその人がどれだけ神に喜ばれる善を行なったかではなく、その人の行なった行為のすべてが何に基づいているのかと言うところにあると指摘しています。つまり、どんなに善行を積んだとしても、その人がキリストによる救いの確かさの上にその業を行なってなかったとすればそれは善行になり得ないと言っているのです。

4.他人の判断に頼り、その判断を恐れる行為

 このことと関連して興味深いのは次に登場する不義を行なう者の根拠となる部分です。「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」とパウロは語ります。この部分を古い口語訳聖書では「他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる」と訳しています。新共同訳の「反抗心にかられ」と言う言葉がむかしは「党派心をいだき」と読まれていたのです。
 それである説教者はこの「党派心」と言う言葉を説明して、「みんながやっているから」自分も行なっていると言う人たちのことだと説明しています。確かに私たちは自分がしていることを正当化するために、「これは自分だけではなく他の人もしている」と言う理由をつけることがないでしょうか。つまり不義を行なう人の行動の基準には神が与えてくださる希望はないのです。むしろ、いつも周りの人を気にして自分の行動を決めて行く、それが不義に従う者の生き方だと言っているのです。
 そう考えてみるとこれは単にその人の行なったことの結果が善いか、悪いかではなく、その行いの動機に神に基づく希望があるか、それとも他の人の目を気にしてやっていることなのかと言うところに私たちの善と悪を分ける基準があることが分かります。
 たとえばそれは、私たちの元に困っている人がやって来て何かの助けを求めたとします。そのときに、困っている人の方から「困っている人を助けるのはキリスト者として当然ではないか。聖書にそう書いてありますよ」と脅されることがあります。すると私たちはそんな言葉を聞くと不安になって、「そうか、それをしないと人々から、おまえはそれでもキリスト者か」と責められるかもしれないと思ってしまいます。そして無理をしてもその人を助けなければならないと考えてしまうのです。そのような動機から出る私たちの行動はここで言う神の報いを受けることのできる善い行いになるのでしょうか。たぶん、それは善い行いになり得ないと思います。なぜなら、そこで行なわれた業はキリストにおける希望を基づくものではなく、他人から非難されたらたいへんだと考える事から生まれた、つまり人の目を気にして行なった行為に過ぎないからです。これではそこでどんなにその人が犠牲を払ったとしても、それは「党派心」から出たものであり、神に報われる善き行いとは言えないです。

5.神の報いを受ける善き行いとは
(1)無理をするのではなく、できることをする

 それでは私たちはどうしたら神に喜ばれる善き行いをすることができるのでしょうか。私はそれは他人の目を気にしたり、人に強いられて何かをすることではなく、むしろ自分が今できることをすることが大切なのではないかと思います。人の目を気にする人は、必死になってその人の期待に応えようと無理をしています。しかし、どんなにがんばって見てもそれは元々、自分には出来ないことをしようとしているのですから、その本当の目的を達成することはできません。それでは助ける相手も、また助けようとした自分もだめになってしまうことになります。
 それでは、キリストにある希望を持っている人はどのように考えるでしょうか。自分にできることは確かにわずかかもしれません。しかし、神は最後の裁きのときに私たちにできることがわずかなことだったからと言って、私たちを厳しく叱責されることないと私たちは信じることができるのです。なぜなら、私たちは既にキリストによって義とされるという保証を受けているからです。だから、私たちは今の自分にできることを喜んですることで、善を行なうことができると言えるのです。
 インドで貧しい人のために働きノーベル平和章を受賞したマザー・テレサは「神様は私たちにできることを私たちがすることを望んでおられる」と語ったと言います。彼女は人の期待に合わせて自分の事業を拡大しようとは思わず、今の自分にできることをすることをしようとしたのです。なぜならキリストに救われている者は、他人の判断や、他人の言葉を恐れて行動する必要はもはやないからです。

(2)聖霊の業を私たちの行なった業として報いられる神

 私は以前、宗教改革者カルヴァンの記した『キリスト教綱要』を学んでいて、とても教えられたことがありました。カルヴァンは聖書の学びに基づいて、人間が善を行なう能力を全く失っていると主張しています。彼は私たちの人間の内側からからは悪以外の何ものも出てこないと語るのです。そして、もしそのような人間が善を行なうことができるとしたら、それは人間から出るものではなく、キリストが天から聖霊を遣わして、その人を通して働いてくださった結果であると主張します。つまりカルヴァンの論理に従えば、悪い行いはすべて人間の内側から生まれるものですが、善き行いは聖霊の働きの結果、神の御業なのだと言うことになるのです。
 しかし、カルヴァンはその後に大変興味深いことを語ります。神はしかし、私たちを通して御自身が行なわれた善き行いを、つまりそれ自身は神の御業にもかかわらず、それをあたかも私たち人間が自分で行なった業と見なし、その行いに十分な報いを与えてくださると説明しているのです。
 パウロはこの手紙の中で私たちの罪を清め、私たちを義としてくださるのはキリストの御業の故なのに、神はあたかもそれを私たちがなしたかのように見なしてくださると教えます。私たちはキリストの御業に故に神に義と認められるのです。それが信仰義認の教理です。しかしその上で、その救われた私たちに神はさらに聖霊を遣わして、私たちを通して善を行なうことができるようにしてくださるのです。しかも、その行いはすべて聖霊がしてくださっているのに、神はあたかもその行いを私たちがした善き行いと見なして、私たちに十分な報いを与えてくださると言のです。
 このように考えるならば、ここに語られていることはすべてキリストによる救いが実現することによって、私たちが義と認められ、その上で私たちに聖霊を遣わし、私たちの信仰生活を導いてくださる神の恵みが前提となっていることが分かります。私たちはキリストの故にこの恵みを神からいただくことができるので、人の目を恐れたり、人に強いられて毎日の生活を生きる必要はないのです。むしろ私たちは私たちを救ってくださる神の恵みを覚え、その神が私たちを通してして働いてくださることを期待しながら、忍耐を持って信仰生活を送ることができるのです。
 イエス・キリストによる救いはユダヤ人にも異邦人にも分け隔てなく与えられています。そしてそのキリストの救いは私たちの人生を悪を行ない続ける無意味な人生から、忍耐して善を行なう人生へと変えてくださるものなのです。私たちはそのことを覚えてクリスマスの日を喜びをもって迎えたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
あなたは私たちのこの地上での行いを公平に裁き、その行いに応じて豊かな報いを与えて下さる方です。しかし、もしそのとき私たちがあなたから永遠の命を報いを受けることができるのは、御子イエス・キリストが私たちのために救いの御業を成し遂げ、私たちを義としてくださったこと、またその私たちの上に日々聖霊を遣わし、私たちの信仰生活を導いてくださるからです。どうか私たちにその真理をいつも悟らせてください。あなたから与えられた希望に基づく忍耐を持って、毎日を送ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。