礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年12月22日  「神の御子の誕生」

聖書箇所:マタイによる福音書2章1〜12節
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

1.聖書はクリスマスについて何を伝えるのか

 今日はクリスマスをお祝いする礼拝をささげます。だいぶ以前のことです。私が川口市の牧師たちが集まる牧師会に出席したとき、おそらくそのときは市民クリスマスの計画を話し合っていたときだと思います。牧師会に出席していたある教会の牧師が「うちではクリスマスはしません」と発言したのです。この12月にクリスマスをお祝いするのはキリスト教会に伝わる長い伝統です。その伝統を否定することはとても勇気がいることですが、彼の主張にも一つの根拠はあります。なぜなら、イエスの生まれた日は聖書をいくら読んでもどこにも明らかに記されていないからです。すでに何度もお話したように、この12月にクリスマスを祝う習慣はローマに古くからあった太陽神の祭に根拠があると考えられています。当時のローマ帝国がキリスト教を国の公認の宗教として受け入れた後、太陽神の祭をキリスト教の祭としてリニューアルしたというのが最も有力なクリスマスの由来であると言われているのです。
 ですから、「うちではクリスマスはしません」という人は「聖書に基づかない」という理由でそのように主張したのだと思います。しかし、イエスの誕生日はいつかと言うミステリーは別にしても、聖書は間違いなくイエスがこの地上にお生まれになったという事実を告げています。それでは聖書はこのクリスマスの出来事について何を私たちに教えようとするのでしょうか。今日はマタイによる福音書を通して、クリスマスの出来事の意味を少し皆さんとともに考えてみたいと思います。

2.旧約聖書に記された約束
(1)イエスの系図

 私たちが今日読んでいるマタイによる福音書は特にユダヤ人に向けて記された福音書であると考えられています。何しろ新約聖書の最初に掲載されているのがこのマタイによる福音書ですから、初めて聖書を手にとって読もうとする人は、このマタイによる福音書の1ページから読み始めるわけです。ところがそこで問題が生じます。なぜなら、このマタイによる福音書の冒頭には聞きなれない外国人の名前が列挙されているからです。この系図は通常「イエス・キリストの系図」と呼ばれていますが、正確にはイエスの養父としてマリアの夫となったヨセフの家の系図になっています。マタイがなぜここに系図を示したのか、その意味は何かといえば、イエス・キリストが神様の約束に基づいてこの地上にお生まれになった救い主であるということが読者たち、特にユダヤ人の読者たちに示すためです。
 旧約聖書を読むとこの系図に記されている人々が何人か登場しています。特にこの系図の最初に記されるアブラハムはユダヤの人々が自分たちの最も大切な先祖としてあがめる人物です。ユダヤ人たちは神がこのアブラハムと結んだ約束によって自分たちが神の民とされたと言うことを信じていました。またこの系図の途中に登場するダビデはかつてのユダヤの王であり、神はその子孫から救い主を与えられると約束してくださったのです。ですから、この系図をユダヤ人が読むならば神は約束通りに、この地上に救い主としてイエス・キリストを送ってくださったと言うことが分かるようになっているのです。

(2)ヨセフに示された夢

 次にマタイはイエスの養父となったヨセフについての逸話を記します。このヨセフはイエスの誕生物語を記したマタイとルカの二つの福音書以外には名前が登場しません。おそらくこのヨセフはイエスが成人する前にこの世を去っていたと考えられています。マタイにはこのヨセフを「正しい人であった」と説明しています(19節)。これはユダヤ人として神の律法に忠実に従う者であったということを表している言葉です。このヨセフの夢に天使が現れ、許嫁であったマリアが男の子を産むことになることを告げます。ここで天使がヨセフに語った言葉が、イエスがどのような救い主であるのかを私たちに説明しています。

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(1章22〜23節)。

 この天使の言葉からわかるのはイエスが「自分の民を罪から救う」ためにやって来られた方であるということです。そして、このイエスを通して「神は我々と共におられる」という約束が実現するということです。ここで注意すべきは聖書が言う「罪」が何であり、「神が共におられること」がどんなに素晴らしい祝福であるかと言うことです。まず第一に聖書が語る「罪」とは私たちが日本の法律で考えるような「罪」、「犯罪」ではありません。そうではなく、聖書が言う「罪」とは私たちと神を引き離している諸々の原因を指しています。つまり、この「罪」から私たちが救われるなら、当然私たちは神とともに生きることが可能となるのです。イエス・キリストはこの私たちの罪を解決し、私たちを神と共に生きることができるようにしてくださる救い主なのです。
 それではどうして「神が共におられる」ということが私たち人間にとって祝福であると言えるのでしょうか。実はこのことを理解させるために聖書は記されていると言ってよいのです。なぜなら、聖書は人間がこの神と切っても切り離せない存在として創造されながら、その神から離れてしまったことによって呪われるべき存在となったことを説明しているからです。つまり、人間は神にともに生きてこそ、本来私たち人間のために神が与えてくださった祝福のうちに生きることができると聖書は教えているのです。イエス・キリストはこの祝福を私たちに取り戻すために来てくださった救い主なのです。

3.愚かな金持ち
(1)他のことは後回しにした金持ち

 このクリスマス礼拝では毎年、私が幼稚園のクリスマス会でお話した物語をプロジェクターに映してお話していました。これはクリスマスの礼拝を子供たちと一緒にお祝いするためだったのですが、今年は一足先に昨日子供クリスマス会を教会で行い、その席でプロジェクターを使ってお話をしてしましました。ですから、今年の礼拝では子供向けのお話を省略しています。もしかしたら、大人の方も楽しみにされていた方もおられるかもしれません。
 今年は聖書の中からイエスの語られた物語、「おろかな金持ち」のお話を子供たちに向かってお話しました(ルカによる福音書12章16〜21節)。この金持ちは豊作だった自分の畑の穀物をしまっておくところがないと悩みます。そして古い倉を取り壊して、もっと大きな倉を作り直すことでこの問題を解決させます。そして、その新しい倉に自分ではたべきれないほどの食料をため込んだ金持ちは、「これで自分は一生楽に暮らせる」と安堵するのですが、不幸にしてこの金持ちの魂はその晩に取り去られてしまったというのです。こうなるとせっかくため込んだ食料は金持ちには何の役にも立たないものとなってしまいます。
 子供向けのお話ではいつもお金持ちになることだけを考えていた男が、最後の晩に寝床につくとき「これで一生安心だぞ」と言いながら、「でも、何か大切なことを忘れているかもしれない。でも、いいや、ほかのことは明日考えればよい」と独り言をいうシーンがあります。自分に与えられている限られた時間の中で、彼はもっと大切なことを考えるべきだったのに、この男はそれを忘れて、結局自分には何の役にも立たない財産のことだけを考えて貴重な人生を終えてしまうのです。

(2)救い主を考える余裕はない?

 マタイによる福音書にはせっかくこの地上に救い主が誕生されたのに、そのことよりもほかのことを優先してしまう人々が登場します。一人はヘロデ王と言う人物です。彼はもともとユダヤ人ではありませんでしたが、当時ユダヤの地を支配いていたローマ帝国の権力の後ろ盾によってユダヤの王と言う地位を得た人物です。もともと、彼は人々に認められた正統な王ではありませんから、自分の地位を彼は守るためにいつも必死に考え、行動しています。あるときはエルサレムにあった神殿を改修し、ユダヤ人たちからの支持を得ようとしました。またその一方で、自分の王の地位を危うくすると考えられる政敵を次々と殺害していったのです。
 そんなヘロデ王ですから、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を探しに来たと言う占星術の学者たちの言葉に不安を抱き(3節)、彼は新たな政敵が現れたと考え、その人物を亡き者にしようと計画を練ります。自分の地位を守ることで精一杯のヘロデ王は救い主になど関心を払う余裕をもっていなかったのです。
 また、聖書はこのヘロデ王だけではなく当時のエルサレムの住民も同様に不安を抱いたと語っています。彼らはおそらく、このニュースを聞いたヘロデ王が何をするか、そのヘロデ王の対応に対して不安を抱いたのではないでしょうか。最近のニュースでは北朝鮮のナンバーツーと信じられていた人物が突然、処刑されたというショッキングな知らせが世界を駆け巡りました。北朝鮮国内では今度は誰が粛清されるかたくさんの人が独裁者の行動に不安を抱いていると言います。また、それだけではありません。このような北朝鮮が軍事的な挑発を行うのではないかと周辺諸国もまた不安に巻き込まれています。エルサレムの人々はヘロデ王の行動を心配するだけで、救い主誕生の知らせに興味を抱くこともなかったというのです。

4.星に導きかれて
(1)政府の高官

 そして彼らと全く違った行動をとった人々がいたことをマタイによる福音書を語ります。しかも、その人々は聖書とは全く無関係な外国人であり、占星術の学者たちであったと言うのです。
 占星術というと私たちはいろいろなところにある「占いの館」のようなところにいる何か得体のしれない人々を思い浮かべます。しかし、この当時の社会では天体の動きを観察して、様々なことを決めることはむしろ当たり前のことだったようです。ですから、ここに登場する学者たちは王のような統治者に助言する政府の高官たちであったとも考えられているのです。彼らは王宮で王に仕えることが自分の人生を安泰にする方法であるのに、彼らはその安泰な方法を放棄して、星の知らせに従い、長い旅路を経てこのエルサレムの地までやってきた人々だというのです。彼らは自分の人生にとって一番大切なのは、この救い主にお会いすることだと考えていて、そのために保障されている日常の生活を放棄して旅だったという点では、ヘロデ王やエルサレムの人々と全く対照的な人物たちであったと考えることができるのです。

(2)ヤコブの星の導き

 彼らがこのような決断に至った原因をマタイは「星」を彼らが見たからだと説明しています。彼らがどうしてこの星をユダヤの王の誕生の徴と理解したのか、それは詳しくわかりません。ただ旧約聖書の民数記24章17節には救い主を表す「ヤコブの星」の存在が預言されています。おそらく、マタイはこの旧約聖書に記されている「ヤコブの星」こそ、この占星術の学者たちをイエスの元に導いた星であると考えていたのでしょう。
 占星術の学者たちは星に捉えられてはるか東の国からこのエルサレムの地にまでやってきました。聖書はこの占星術の学者たちが特別に優れていたから救い主にお会いすることができたということを語っているのではありません。星が彼らを導いたのです。主導権はこの星にあって、彼らにあったのではないのです。そしてこの星の導きこそが神の御業であると聖書は私たちに教えるのです。
 私たちはこのクリスマスの礼拝に集っています。どうして私たちは今、このクリスマスの礼拝に集うことができているのでしょうか。この事実は当たり前のことではないのです。それは私たちに一人一人にもこの導き星が与えられているからです。多くの人々はもっと暇な時間ができたら信仰ことを考えようと思っているかもしれません。しかし、愚かな金持ちのたとえはそのような考えをもっている限り、その人が神に出会う機会は決して与えられないと教えているのです。
 それなのにどうして私たちは今、このようにクリスマスの礼拝に集い、聖書の言葉に耳を傾け、神とともに生きる信仰生活を送ることができているのでしょうか。そこには私たちにそれぞれに与えられた様々な理由があります。私たちのそれぞれの人生には私たちを神に導いたダビデの星が存在するのです。神が私たちを救い主に合わせるために与えてくださったものがそれです。私たちはこの物語を通しても私たちを救い主に導くために今もダビデの星を与えてくださる神を学ぶことができるのです。
 私たちは今年も、私たちをイエス・キリストへと導き、私たちの信仰生活を支え続けてくださった神の恵みに感謝したいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
このクリスマスを祝う礼拝に私たちが今年も出席することができたことを感謝いたします。多くの人は、救い主の誕生を祝うことよりも、自分には優先すべきことがあると考え、その救い主との出会いの機会を失ってしまいます。しかし、あなたは私たちに一人一人の人生にダビデの星を与え、私たちをイエスへと導いてくださいました。この一年の信仰生活の中で、あなたの豊かな働きを経験しながらも、それに気づかないままに過ごすことの多かった私たちをお許しください。どうかそれにもかかわらず私たちの手を離さずに導き続けてくださったあなたの御業を感謝することができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。