礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2013年12月29日  「神の裁きの公平な基準」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙2章12〜16節
12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

1.ユダヤ人にもキリストの救いが絶対に必要である
(1)イエス・キリストなしには生きられない

 今日はこの礼拝の後、毎月行っている教理入門教室でハイデルベルク信仰問答の文章から主の晩餐、聖餐式の意味について続けて学ぶことになっています。以前、宗教改革者のカルヴァンが記したこの聖餐式についての解説を読んでいて思い出に残っている言葉があります。それは主イエスがなぜ、ご自身の十字架上の犠牲をこのパンと葡萄酒という食べ物と飲み物で表現してくださっているのかと言うことについての解説でした。人間にとって食べ物も飲み物も生きていく上に絶対になくてはならないものです。人間は様々な欲望をもって生きていまが、その中でも食べたり飲んだりするという基本的欲求は人間が生きていくうえで欠かすことのできないものなのです。ほかのものなら多少がまんができても、人間が食物の摂取をやめてしまったら後は死ぬしかありません。カルヴァンはキリストの十字架上の犠牲は食物が肉体の命を支えるように、私たちの霊的な命を支えるうえでなくてはならないものだと教えるのです。だから主はパンと葡萄酒を使ってそのことを私たちに教えているのだと言うのです。私たちが生きる上で、イエス・キリストは絶対に必要な方です。ですから、イエス・キリストのなしの人生は生きていても、死んでいるようなものでしかないと聖書は私たちに教えているのです。

(2)ユダヤ人の誤解を解くために

 人はキリストの福音を受け入れてこそ、本当の命に生きることができます。人間にとってキリストの福音が絶対に必要であることを知っているパウロは、そのために熱心にこの福音を受け入れて生きるようにとすべての人に勧めました。しかし、人はイエス・キリストがいなければ本当の命に生きることはできないのに、そのことを十分に理解することができません。ですからせっかく目の前にキリストの福音が示されても、自分には必要ないと福音を拒否する人々が現れるのです。
 そこで、パウロはキリストの福音を語る場合、まず、「私にはキリストは必要ありません」と考える人々が自分について重大な誤解をしていることを明らかにする必要があったのです。私たちが今、学んでいるローマの信徒への手紙2章の部分では主に「キリストを必要とはしない」と考えるユダヤ人に対して、その錯覚と誤解を取り払うために努力して説明しているのです。

2.律法によって裁かれるユダヤ人
(1)ユダヤ人も異邦人も滅びる

 どうしてユダヤ人にも異邦人もキリストの福音が必要なでしょうか。そのことについてパウロは今日の聖書箇所の最初でも繰り返し説明しようとしています。なぜなら、ユダヤ人も異邦人も神の前で罪を犯しており、神の正しい裁きの前で滅びを免れえない存在だからです。そしてこの滅びから免れる唯一の方法はイエス・キリストの福音を受け入れることにあるのです。

「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」(12節)。

 神は人間が犯す罪に対して、それにふさわしい反応、つまりその罪を裁き、滅びの刑罰を下されます。神が人間に問う罪とは、人間が神に背を向けて生きようとすることです。つまり人間が犯す個々の罪の目的は、神に背き、神を否定することにあるのです。そのような罪を犯す者に対して、神もまたご自身で背を向けられます。そして神に背を向けられ、神との関係が断たれた人間は滅びるしかないのです。つまり、滅びとは人間と神との関係が断たれたときに、当然にその人間が迎えなければならない結末と言えるのです。
 ユダヤ人はこの人間が犯す罪の取り扱い方について、神はユダヤ人と異邦人の間に差別をつけていると考えました。なぜなら、ユダヤ人にはモーセの律法が与えられているからです。彼らはモーセの律法こそが自分たちを罪から守り、滅びを免れさせると考えました。つまり、律法を知らない異邦人は、すでに神との関係を断たれており、滅ぶべき運命にあるのだと考えていたのです。しかし、パウロはここで律法を与えられているユダヤ人も、またその律法を知らない異邦人も、罪を犯すことによって同じように神の裁きを受け、滅びを免れえない存在なのだと語るのです。

(2)律法を行う者が義とされる

 それでは、ユダヤ人たちに神が律法を与えてくださったことには何の意味もないのでしょうか。そうではないということをパウロはここで続けて語ります。しかも、そのパウロの答えは律法を知らされているユダヤ人の方が知らない異邦人よりも神の厳しい裁きを受けなければならないというのです。そこでパウロは次のように語っています。

「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」(13節)。

 律法を神から与えられている、その律法をよく知っている、それだけでは意味がないとパウロは語ります。ここで語られている「律法を聞く者」と言う言葉の中の「聞く」と言うのはただ聞くだけという意味、つまり、聞いた内容に対して正しく応答しようとする反応を示さないことを言っています。ある説教者は、これは私たちがが「聖書を持っている」と言う場合に似ていると語っています。日本では誰でも聖書を手に入れることができます。つまり、誰でも聖書を持つことは可能なのです。しかし、それだけでは何の意味がありません。なぜなら、聖書は聖書の言葉に心から聞き従おうと考え、熱心にその言葉を読む人にのみ価値を発揮するからです。読めば読むほど聖書は私たちに対して有益なものとなります。聖書を持っているだけではだめです。なぜなら、聖霊はこの聖書の言葉を通して働かれるからです。ですから聖霊の働きを受けたいと考える人は特別な修行を積む必要はありません。毎日、熱心に聖書を読むなら、その人の上に聖霊が豊かに働かれ、その信仰生活を導いてくださるのです。
 律法はそれを聞いて行う人の上に効力を発揮します。つまり、「律法を行うなら義とされる」とパウロは言うのです。ただ、ここでパウロはユダヤ人たちに律法を行うことによって、神に義とされるようにと勧める「律法主義」を教えているのではありません。むしろ、パウロはユダヤ人たちが聞くだけではなく、律法を実際に行おうとすれば、自分にとってキリストの福音が必要であることが理解できると考えているのです。なぜなら、誰も律法を完全に守り行うことはできないからです。しかし、神が義と認めるのは、律法を完全に行う人だけです。ですから、そのままでは誰も義とされることはできなくなってしまうのです。そしてこの律法を完全に守り行い、義とされることができたのは救い主イエス・キリストだけであったことをパウロはこの手紙の中で伝えようとするのです。

3.不思議な心の仕組み

 さて、パウロは次にユダヤ人たちが「異邦人たちは神から律法を知らされていないので、滅びるしかない」と考えている誤解についても批判を加えています。つまり、異邦人たちが裁きを受け、滅びを免れえないのは、彼らが律法を知らないからではなく、彼らが実際に罪を犯しているからだと言うのです。パウロはそのために仮定の論理として「もし、異邦人たちが律法を知らなくても、律法に明らかにされているような正しいことを行っていなら、彼らも義とされる」と語ります。もちろん、異邦人が正しいことを行うことは不可能です。なぜなら、異邦人もユダヤ人も神の律法に対して完全に従う能力を失っているからです。そしてパウロは異邦人たちの行動について次のように続けて説明しています。

「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」(14〜15節)。

 パウロはここで少し私たちの心の中にある不思議な働きについて語っています。そして彼は律法を知らない異邦人の心の中にも「律法の要求する事柄が…記されている」と言うのです。以前こんな話を知人から聞いたことがあります。あるとき教会に来ている一人の青年が次のような証しを皆の前で語ったというのです。「この間、自分が電車賃をごまかして、電車に乗ろうとしたとき。心の中で、「そんなことはしてはいけない」と言う声が聞こえて慌てて罪を犯すことを踏みとどまることができた。きっとあれは聖霊が働いてくださったからい違いない…」。するとその話を聞いていたその教会の牧師が即座に「それは聖霊の働きではありません。あなたの心の中にある良心の働きです」と言ったというのです。聖霊の働きはその人をキリストに導き、救いを得させます。ですから、悪いことを悪いと判断するだけなら、それは聖霊の働きではなく、私たちの心の中にある良心の働きだと言えるのです。
 パウロは私たちの心の中に神の律法が要求することが記されていると語り、良心もそれを証明しているとここで語っています。実はこれもまた、私たちに神が働いている証拠なのです。神学用語でいうとこれは『一般恩恵』と言うもので、神が私たちの心をそのように導いてくださるので、世界はかろうじて決定的な破壊から守られているのです。しかし、この一般恩恵は私たちを救いに導くことができません。ですから人間が救われるためには『特別恩恵』、つまりキリストの福音が絶対に必要なのです。

4.キリスト・イエスによって明らかになる
(1)神の御心が分からない

 このようにしてパウロは「律法を神から与えられている」と言うことに誇りと、信仰の確信を置こうとするユダヤ人に対して、それは正しい聖書理解ではなく、神様の御心でもないと語っているのです。
 以前、この教会に来ていた一人の方がよく「私には神様の御心と言うことがよく理解できないのです」と言っていたことを思い出します。実はその方が「神の御心」と言う言葉に特別に疑問を持つことになったのには一つの理由がありました。それはその方が所属し、役員までしていた教会の牧師が突然、教会の運営方針を変えるときに「これが神様の御心ですから」と言う言葉を使って教会員を納得させようとしたからだと言うのです。「神様の御心」を覆すことは人間にはできない。しかし、そもそもその牧師は「神様の御心」をどこで知ったのか…そこが自分には疑問でならないとその方は言うのです。しかし、その答えはその決まり文句を語るその牧師に聞いてみないと分からないのです。だから一般的な「神様の御心」についての解釈をその方に私が説明しても、その方は最後まで納得することができなかたのです。
 ユダヤ人とってこの神の御心ははっきりとわかると考えられていました。彼らはモーセの律法こそが神の御心であると考えていたからです。そしてユダヤ人はこのモーセの律法に示された神の御心に従うことだけが自分たちに求められていることだと信じていたのです。ところがそのように考え、熱心にモーセの律法を守ろうとするユダヤ人たちが、神の御心を理解していない、むしろその御心に反することをしているということを明らかにしたのがイエス・キリストの働きです。福音書を読むと、イエスはユダヤ人たちが熱心に律法に従うと言いながら、本当は神の御心に従っているのではなく、自分の勝手な思いを実現するために律法を利用しているにすぎないと批判していることを知ります。

(2)イエス・キリストを通して示された神の御心

 パウロもかつて熱心な律法学者としてモーセの律法こそが神の御心だと考えていました。しかし、パウロはキリストに救われた後にこの考えを大きく変化させています。

「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(16節)。

 すべてのことはやがてキリスト・イエスを通して明らかになるとパウロはここで語ります。そのことは最後の裁きの日に誰にでも理解できるように、つまりキリストを信じている人にいない人にもわかるようになると語るのです。しかし、キリストを信じている人々は最後の日を待つことなく、今すべてが明らかになっているとも言えるのです。なぜなら、パウロがここではっきりと神の公平は裁きがどのようにして実現するかを教えることができたのは、パウロがこのことをすでに知っていたことを意味するからです。そしてパウロにとって神の御心を理解することとは、常にこのキリスト・イエスを通してなされると言うことが鉄則となっているのです。
 確かに聖書の言葉は私たちに神の御心を示しています。しかし、その聖書の言葉を正しく理解するポイントはこのイエス・キリストを通して理解すると言うことにあるのです。ですからイエス・キリストなしの聖書解釈は私たちに救いを実現することはできません。もちろん、私たちに一般的な教訓を与えることはできますが、私たちを救いに導くことはできないのです。だから、パウロはモーセの律法もこのキリストを通して理解しようとするのです。この律法の要求に答えることができる方はイエス・キリストしかおられない、私たちはこのイエスを信じ受け入れることで、彼を通して義とされる必要があるのです。そして聖霊もまた、私たちをイエス・キリストに導くために働かれるのです。イエス・キリストなしに救いはない。また、このイエス・キリストなしには神の御心を正しく知る道もないのです。私たちはこのことをもう一度確認したいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
あなたが与えてくださった律法を行うことによって人は義とされ命を受けることができます。しかし、その律法の要求を完全に満たすことできない私たちのために御子イエス・キリストが来てくださり、私たちに代わって律法の要求を完全に満たし、私たちに救いの道を開いてくださったあなたの御業に心から感謝します。このキリストの福音の素晴らしさを私たちが十分に理解し、あなたに従い、あなたに感謝を捧げることができるように、聖書のみ言葉と聖霊をもって私たちを導いてください。私たちとってイエス・キリストが不可欠の存在であることを日々新たに心に刻み、確信することができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。