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2014年1月5日 「誤解された神の律法」
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聖書箇所:ローマの信徒への手紙2章17〜29節
17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、
18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。
19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
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1.全世界の救い主イエスとユダヤ人
(1)公現日の意味
今日は教会の暦では「公現日」と呼ばれる祝日となっています。そしてこの公現日の礼拝では通常、マタイによる福音書2章に記されている東の方からエルサレムにやってきた占星術の学者たちの物語が読まれることになっています。私たちの持っている新共同訳聖書は彼らを「占星術の学者たち」と原語から正確に訳していますが、教会の長い歴史の中では彼らは別の呼び名で呼ばれていました。それは「王様」です。教会は救い主イエス・キリストを拝みにやって来たこの人々を三人と考え、それぞれアジア、アフリカ、ヨーロッパを代表する王たちであると考えて来たのです。そしてこのような解釈の上で、この三人の王様が救い主イエスのもとを訪れることにより、神の救いの対象はユダヤ民族の壁を越えて、すべての国々の人々に広がったと信じたのです。ですからこの公現日とは全世界の人々に救い主イエスの存在が明らかになった日、またその救いが全世界の人々の上に実現した日と考え、それをお祝いする日となったのです。特にイエス・キリストはユダヤ人だけの救い主ではなく、全世界の人々を救うためにやって来られた方であるという信仰は、この日、イエスのもとにやって来た人々が「王」なのか「占星術の学者」なのかと言う議論とは別にして、全く正しいものであると言えるのです。
(2)ユダヤ人の家庭に生まれたイエス
ただその一方で、救い主イエス・キリストはユダヤ人の家庭にお生まれになった方であり、ユダヤ人たちが神から与えられた聖書の中にその誕生が預言されてきた方であるということも事実です。ですから、私たちはこの全世界の救い主として生まれたイエスを理解するために、どうしてもこのユダヤ人の存在を無視することはできないのです。
先日、テレビの番組で現在のイスラエルの中で起こっているユダヤ人とアラブ人の激しい戦いの歴史が紹介されていました。その中で、ユダヤ人が歴史的にどうしてキリスト教を信じるヨーロッパの国々で迫害されることになったのかを説明するポイントとして、ユダヤ人たちがイエスを十字架につけて殺害したこと、その「血の責任」(マタイ27章25節)を負っていると考えられてきたと説明されていました。確かにヨーロッパでの長いユダヤ人迫害の歴史の背景にはキリスト教徒とユダヤ人との複雑な関係が深く影響していると考えることができます。しかし、聖書を正しく読めばわかるのですが、初代教会はユダヤ人を迫害することを教えてことはありませんでした。むしろ、今、私たちが学んでいるローマの信徒への手紙を書いたパウロの主張では、彼はユダヤ人を誤りを激しく攻撃しましたが、それは彼らが真の救い主イエスを受け入れて救われることを願ってことであったことが分かります。パウロにとってユダヤ人の存在はもっとも重要な問題であり、自分の命を懸けても彼らが救われることを願わずにはおれないものだったのです。
2.誤った自信
(1)福音を拒否する者がもっている誤解
しかし、パウロのこの願いにも関わらず、当時の多くのユダヤ人は聖書に約束されている救い主を神がこの地上に遣わしてくださったのに、その救い主であるイエスを信じることができませんでした。そしてその原因は何かと言えば、それはユダヤ人たちが抱いていた誤った自信によるものであると言うのです。ユダヤ人たちは自分たちが神に選ばれた特別な民族であり、神は自分たちだけに契約を与えられ、律法を与えてくださったと自らを誇り、自信をもっていたのです。またユダヤ人たちは、その神と自分たちの関係を表す目に見える印として割礼が与えられていると考えていたのです。
私の書斎にはアメリカの一人の牧師の記した「教会を必要としない人への福音」と題した一冊の説教集があります。「自分には神様など必要ない」、「自分は自分の問題を自分の力で解決できる」、「自分は教会に行く人のような弱い人間ではない」、そのように考えて、教会への誘いを断る人がたくさんいます。彼らは聖書やそこに記されている福音は自分とは全く関係がないと考えてしますのです。
皆さんもこの様な人に出会うことがあるはずです。そのとき皆さんはこのような人々に伝道するために、どうしたらよいと考えているでしょうか。おそらくこのような人に伝道する際に大切となってくることは、まず第一に「教会は問題のある人や、心の弱い人々が行くところだ」と考える彼らの誤解を解く必要があります。そして第二には彼ら自身が「自分には神様など必要ない。自分の力でなんでもできる」と思っている、その誤った自信を正す必要があるのです。
自分の同胞であるユダヤ人を愛し、彼らにキリストの福音を届けたいと考えるパウロはこの二つの事柄について、このローマの信徒へ手紙で取り扱っていると言えます。そして、私たちが今読んでいる箇所は、ユダヤ人たちがもっている誤った自信を正すことを目的として書き進められていると言えるのです。
(2)ユダヤ人のもっていた自信
以前、国政の選挙の際にある政党が「日本を取り戻そう」と言う言葉をコマーシャルで流していたことがあります。「日本を取り戻す」って、誰から何を取り戻そうとしているのだろうと疑問を感じたことを思い出します。この言葉が非常に抽象的なのは日本とは何であり、取り戻すとは何を意味するのかよくわからないところにあります。そもそも、日本人とは誰のことなのか、もしその条件を日本列島に住み、日本語の言葉を使い、日本の文化や習慣に慣れ親しんだ人々と考えるなら、日本に何代も住み着いている在日外国人も「日本人」と言うことができるかもしれません。また「日本民族」と言われても、それが具体的にどのような人々を指すのか見当もつきません。
この点において聖書に登場するユダヤ人と言う人々は非常に明確な定義を持った人々だと考えることができます。もちろん、ユダヤ人は直接にはヤコブの十二人の息子の一人である「ユダ」の名前を引き継いでいる一つの民族の名前であると言えます。しかし、彼らが自分たちをユダヤ人と言う場合の意味はこの単なる民族名を超えたものがあると言えるのです。ユダヤ人はまず、自分たちは真の神に選ばれた民族であると考えていました。それは彼らの始祖と呼ばれる族長アブラハムと神との間に交わされた契約に基づいています(創世記15章、17章参照)。そしてこの神との契約の印として、アブラハムとその子孫は「割礼」と言う儀式を受けました(創世記17章10〜14節)。ユダヤ人は自分の子供として男子が与えられるとこの「割礼」を施すことで、自分たちが神に特別に選ばれた契約の民であることを確認することができるようにされたのです。また、それだけではありません。やがてユダヤ人たちは預言者モーセを通して神の律法を受け取ることになりました。ユダヤ人はこの律法を知ることにより、神が自分たちに何を望んでおられるか、どう生きたらよいのかが分かると考えました。そして、神がこのような律法を与えることでご自身の御心を理解できるようにされた民は自分たちだけであると信じたのです。
このように考えるとユダヤ人とは自分たちが神との特別の関係にある人々、つまり神に選ばれた民族であるというところに誇りを持ち、またそれゆえに自信をもっていた人々であることがわかります。歴史の不思議な働きによって、地上のユダヤ人国家であったイスラエルは2000年ほど前に滅び、ユダヤ人たちは世界に散らばることになりました。普通だったらそのまま、ユダヤ人と言う存在もなくなってしまうはずです。ところが2000年たってもユダヤ人と言う人々がこの地球上に存在しているのは、彼らがもっていたこの信仰に根拠があると言えるのです。
3.誰が本当のユダヤ人であり、本当の割礼を受けた者なのか
(1)パウロはローマの信徒に何を伝えたいのか
そこでパウロが今日の聖書の部分で問題とするところは先日から引き続いているのですが、ユダヤ人たちが「自分たちには律法が与えられている、だから神の御心を知ることができるのは自分たちだけなのだ」と考えていた彼らの自信についてです。さらに、パウロはユダヤ人たちが自分たちは神に選ばれた特別な民、契約の民だと言って、その証拠として与えられたと考える割礼の問題をも取り上げています。
ところで、このローマの信徒への手紙を読んでいて、一番疑問に思うのは、パウロはいったい誰に向かって「あなたはユダヤ人と名乗り…」と呼びかけているのかと言うことです。そもそも、この手紙の書き出しを学んだ時に、この手紙はローマに住んでいるキリスト者の群れに送られてと言うことを私たちは学びました。そうなると、そのローマのキリスト者の中に自分を「ユダヤ人」と呼び、誤った自信をもっている人がいたのかと言うことになってしまいます。おそらく、そのことを考えると今日の部分でパウロが伝えたいのは28〜29節あたりのことではないかと推測されます。つまりパウロは、外見上のユダヤ人ではない真のユダヤ人、また肉体には割礼が施されてはいないが心に割礼を施された者こそがキリストを救い主と信じる人々であると言おうとしているのです。パウロはそのことを理解させるために、ここでユダヤ人の誤った自信について取り上げていると考えることができるのです。
(2)律法を行う者こそ真のユダヤ人
さてそれではパウロは先ほど取り上げたユダヤ人の二つの自信について、つまり律法についてと、もう一つは割礼についてどのような論理をもって、この誤りを正そうとしたのでしょうか。第一に律法についてはこうです。17〜18節でパウロは「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」と語ります。そして次に彼は23節で「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」と語っているのです。つまりパウロは律法を知っているだけでは何の意味もない、しかもあなたたちはその律法を知っていながら、律法に反した行いをすることで神を侮っているのではないかとユダヤ人を批判しているのです。そしてパウロは第二の「割礼」についても、この律法の問題に関連付けてユダヤ人を批判します。神の民としての印は外見上の「割礼」ではなく、律法を守ることがその証拠だと言うのです。ですから、割礼は律法を守る人には意味がありますが、それを破り、神を侮っている者には何の役にも立たないものだというのです。
この点に関しては、私たちが教会で受ける「洗礼」とも共通したところがあります。なぜなら、どんなに外見上の「洗礼」を受けていても、その人にキリストへの信仰がないならばその洗礼は何の意味もないからです。しかし逆に、キリストへの信仰をもっている人には「洗礼」は自分の信仰を公に表すものとして、自分たちの信仰生活に慰めと励ましを与える有力な助けとなるのです。
4.答えは神に求めなければならない
先日、教会学校の子ども会に出席していたある婦人が、その席で騒いでいた一人の子を注意しました。そのあとでその方はその子に聖書から「右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(マタイ5章30節)と言う言葉を引用して注意してくださったと私に言われました。私はこの聖書の言葉を聞いてその子がどのように受け止めたのかわかりません。しかし、この聖書の言葉は私たちが読んでも簡単には納得いかない言葉の一つと言えるのではないでしょうか。「右の手を切り捨てろ」と言われても、その言葉で私たちは自分が神の前に犯している罪を踏みとどまることができるのかと言えばそうではありません。神の御心には沿わないと分かっていても、罪を犯すことを自分の力では防ぐことができない深刻な立場に私たちはおかれているからです。しかし、そうかと言って実際に私たちはイエスが語るように実際に自分の右の手を切り捨てることができるかと言えば、それはさらに困難なのです。この聖書の言葉を自分の信仰生活に適応しようとするならとても難しい、だから聖書の言葉を知っているだけでは私たちは満足することはできないのです。むしろ、この言葉がいったい私たちに何を教えるのか、そして私たちはこの問題をどのように解決すべきなのかを悩まざるを得ないのです。
そこで聖書は私たちにその答えとしてキリストの福音を示すのではないでしょうか。そのままでは私たちは右手どころか、全身を地獄の炎で焼き尽くされても仕方がない者です。しかし、その私たちに代わってキリストは十字架にかかり、その罰をうけてくださったのです。また、キリストは天に上り私たちに聖霊を遣わすことで、私たちの新しい人生が神の御心に沿って歩めるように実際に導いてくださるのです。すべての答えはイエス・キリストにあるのです。
「その誉れは人からではなく、神から来るのです」(29節)とパウロは語ります。私たちが自分の経験や自分の知識に頼ろうとする限り、私たちは私たちの人生が抱えている様々な問題に対する正しい答えを見出すことはできません。しかし、私たちがその答えをキリストに求め、またキリストの助けを求めていくなら必ず私たちに答えが与えられるのです。つまり「誉は神から」とは、すべての答えをイエス・キリストを通して与えてくださる神の素晴らしさを私たちに教えているのです。
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●聖書を読んで考えてみましょう。
1.ユダヤ人たちは何を頼り、何を誇りとし、何を知っているとされていましたか(17〜18節)。
2.彼らは律法を自分たちが知っていることで、自分たちをどのように考え、自負していましたか(19〜20節)。
3.パウロはどうしてユダヤ人たちのせいで「神の名は異邦人の中で汚されている」と言っているのですか(21〜23節)
4.ユダヤ人たちが神に自分たちが選ばれている証拠として誇っていた「割礼」について、パウロはどのように考えていることがわかりますか(25〜27節)。
5.このパウロの見解によれば、誰が本当のユダヤ人であり、また(心に施された)割礼を受けた者と言えるのでしょうか(29節)。
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【祈祷】
天の父なる神様
あなたは私たちがこの人生で抱えている問題をすべて解決すべく、私たちのために救い主イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださいました。だからこそ、私たちの人生の問題の答えはこのイエス・キリストにあるのに、私たちはそのことを忘れ、自分の力やほかのものにその答えを求めようとしてしまいます。その結果、私たちの問題はさらに深まり、解決がつかなくなってしまいます。どうか、聖霊を遣わしてください。そして私たちをイエス・キリストに導き、彼を通して示されたあなたの正しい答えを理解できることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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