礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2014年1月19日  伝道礼拝 「朝ごとに主の恵みを聞く」 

聖書箇所:詩編143編8節
1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。
2 あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。
3 敵はわたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようとします。
4 わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。
5 わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。
6 あなたに向かって両手を広げ/渇いた大地のようなわたしの魂を/あなたに向けます。〔セラ
7 主よ、早く答えてください/わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。
8 朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください/あなたに、わたしの魂は憧れているのです。
9 主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。
10 御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。
11 主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。
12 あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。

1.朝に神のみ声を聞く喜び

 今日の礼拝では旧約聖書の詩編143編8節のみ言葉から学びたいと思います。

「朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください/あなたに、わたしの魂は憧れているのです」。

 この「朝にはどうか、聞かせてください」と言う言葉を読むとき、私たちは一日の始まりである朝に、聖書の言葉を読み、そこから神様の恵みの言葉を聞いて、新しい一日を始めることの素晴らしさをこの詩篇は語っているのだなと考えるはずです。
 私はキリスト教の信仰を持たない、日本においてはごく普通の家庭に育ちました。そのため朝、まず初めに読むものと言えば、その日に届けられた新聞です。ですから私は今でも新聞に真っ先に目を通す癖がついています。確かに毎朝まずその日に届けられた新聞を読んで、この世の様々な情報に耳を傾けることは大切なのかも知れません。しかし毎朝、私たちの手元に届けられニュースは必ずしも私たちに希望を与え、励ましを与えるものとは限らないのです。むしろ、新聞が伝える様々な事件や事故のニュース、そして国際面に目を通せば、今でもどこかで戦争が起こっていて、そこでたくさんの人々の命が奪われていることを目にすることが多くあります。そうすると、私たちの心は朝から暗く、憂鬱な気分になってしまうことがあるのではないでしょうか。
 しかしもし、一日の最初の朝に聖書の言葉、神の言葉に耳を傾けるならば、私たちは神が与えてくださる希望を持って、新しい一日を出発することができるはずです。それは現実に起こっている事件に目をつむると言うことでは決してありません。むしろ、私たちは神の言葉に耳を傾けてこそ、この厳しい現実に立ち向かう力を与えられ、勇気を持って一日を始めることできるのではないでしょうか。
 確かにこのような意味で私たちが毎朝、聖書を読むことは大切であると言えます。そして私は最初、このような意味で詩篇の言葉を読もうとしたのです。ところが、この詩編をじっくり読んでみると、この詩編を書いた詩人とって、ここで語られている「朝」とは単に私たちが毎日の出発に迎える朝のことだけを語っているのではないと言うことが分かって来るのです。むしろ、この詩人は自分にとって「朝」など決してやって来ることがないだろうと思えるような、人生の暗闇の中で、それでも神に信頼して、自分にも必ず「朝」がやって来る、そのとき自分は喜びを持って神の声を聞くことができると語っていると理解することができるのです。そこで、私たちはこの詩編の言葉を通して、暗闇のような試練の内にある信仰者が、それでも自分に「朝」が与えられることを信じ、その朝に神のみ声を聞くことを確信することができることがどれだけ幸いであるのかを学んで行きたいと思うのです。

2.ダビデの生涯を参考にして考える

 この詩編は冒頭に「賛歌。ダビデの詩」と言う表題が付けられています。しかし、実際のところこの詩編を書いた人物が誰であったのかはよく分からない、むしろダビデ以外の名も知れない信仰者の作ではないかと考える聖書学者たちも多く存在します。しかしながら、この詩編をダビデの作と考えて、彼の生涯に起こった出来事と関連づけて読むことも、この詩編の言葉を理解する助けになるとも考えることができるのです。一部の写本にはこの表題を「息子アブサロムに追われた際のダビデの詩」と記すものもあるようです。実はこの詩編143編は詩編の中でも「悔い改め」の詩編と言う分類に入る作品とされています。たとえば2節には「あなたの僕を裁きにかけないでください」と言う言葉が記されています。この言葉からこの詩人は自分の人生に神の裁きが下されているのではなかと考えていることが分かります。
 この詩編には自分を苦しめている「敵」の存在が語られています。しかし、この詩編記者の心が複雑なのは、彼の「敵」の存在とその攻撃が、神の裁きとして自分に降りかかったものだと考えているところにあるのです。ダビデはかつて先のイスラエルの王であるサウル王に命を狙われ苦しめられたことがありました。しかし、息子アブサロムの反乱の問題におけるダビデの苦しみはサウル王の場合とは大きくその内容が違っています。ダビデは自分が愛する息子アブサロムに王位を奪われ、その上で命まで狙われると言う危機に陥りました。そしてこのアブサロムの問題は自分に原因があると思わざるを得ないような状況にダビデは追い込まれていたのです。そのダビデの心境を考えるときこの詩編はそのダビデの心の思いを語るものだと考え、そのようにしてこの詩編の読むことは私たちの聖書理解を助けるものと言えるのです。

3.詩人の真剣な祈り
(1)追い詰められた詩人

 この詩編は冒頭からこのように語り始めています。

「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください」(1節)。

 実は最初に言ってしまえばこの詩編の1節に登場する「あなたのまこと、恵みの御業によって、わたしに答えてください」と言う言葉こそがこの詩編の中心と言ってもよいと考えられるのです。詩人はこのとき自分の人生に訪れた危機的状況の中で神に助けを求めています。神に助けを求めること、それは私たちの人生にとって最も大切なことであると言えます。しかし、多くの人はこの「神に助けを求める」ことの大切さを知りません。そして多くの人は神の助けなどなくても人生を送ることができると考え、また神以外にも沢山の助けを自分は持っていると勘違いしているのです。しかし、この詩人はこのような自分の勘違いを正さなければならないような危機的状況に追い込まれていたのです。詩人は今まで自分が頼みとしてきたものが、何一つ頼りにならないよう事態が自分の人生に訪れて、神にのみ助けを求めています。
 カルヴァンはこの詩編を解説しながら信仰者に下される神の裁きは私たちを滅ぼすために与えられるのではなく、私たちの心を神に向けるために与えられるものだと言っています。そのような意味で、この詩人は自分の人生に下された神の裁きを通して、真剣になって神に祈り願うものとされているのです。

(2)神の助けを求められる根拠はない

 ところがここで一つの問題が生じます。それは神の助けを求めるのはよいのですが、その神の助けが自分に与えられると言うべき根拠を詩人は自分の内に何一つ持っていないと言うことです。そのことについて詩人は次のように語ります。

「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」(2節)。

 ここで詩人は神の裁きを受けざるを得ない自分の罪に気付いています。つまり、彼は自分が神に助けを求めても、神がその求めて応じてくださると言う権利を持っていないと言うことを自覚しているのです。「神様。私が今ここで死んでしまったら、あなたは大変な損をしますよ。なぜなら私はあなたにとって、無くてはならない役に立つ人間なのですから」。そのように胸を張って神の助けを求めることができればいいのですが、実際はその逆です。自分が今、滅ぼされていなくなってしまっても、神には損にはならない、むしろ自分などいなくなってしまった方がいいような存在、つまり神の前に罪人であることを彼は認めざるを得ないのです。
 それならこの詩人は何を根拠に神の助けを求めようとするのでしょうか。実はそれが先ほど登場した言葉、「あなたのまこと、恵みの御業」であると言えるのです。それではこの「あなたのまこと、恵みの御業」とは聖書においては具体的に何を指し示す言葉なのでしょうか。それは、神の約束を指し示す言葉だと考えることができるのです。神はかつて先祖アブラハムに「あなたとあなたの子孫を祝福する」と約束してくださいました。そして詩人はこの神とアブラハムとの約束に自分の求めに、神が必ず答えてくださると言う根拠を求めているのです。
 通常、人間の間で行なわれる約束は、その約束を結んだ双方の内の一方がその約束を反故すれば、その約束は無くなってしまうと考えられています。しかし、神と私たち人間の間に結ばれた約束はこれとは違います。神はこの約束を御自身に向かって誓われ、この約束を御自身の真実を持って守り抜かれるのです。そして聖書に登場する様々な物語は神がこの約束に対してどこまでも真実であったことを明らかにしています。たとえ人間がその約束を忘れたり、また無視したりしても、神はその約束を忘れることも無視することもありません。むしろ、神はその約束を忘れ、そこから離れようとする私たちを引き戻すために働かれるのです。
 この詩人は自分の内側には自分が神に助けを求めるべき根拠、その助けに神が答えてくださると言う根拠を何も持っていませんでした。しかし、だからこそ詩人は、自分ではなく神が自分たちに与えてくださった約束を忠実に守られる方であることを、そのため自分たちに恵みを豊かに表される方であること確信しています。そして、だから自分はあなたに助けを求めることができますと言っているのです。

4.必ず朝を与えてくださる神

 このときの詩人を取り巻く環境は危機的なものであり、彼からすべての希望を奪ってしまうものでした。その中で詩人は何の希望も見いだすことができない暗闇の状況に追い込まれています。問題は彼を取り巻く外側の状況だけではありません。彼は自分自身の内側にも何の希望を見いだすことができないのです。自分は神に背き、神に罪を犯し続ける罪人でしかないのです。だから彼は「わたの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます」(4節)とまでその惨状を語るしかありませんでした。しかし、この詩人はそのような暗闇の中でも自分に光を与えてくださる神にその希望を置こうとするのです。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします」(5節)。

 詩人は暗闇のような状況の中にも関わらず、今まで自分の人生に与えられて来た神の恵みの御業を瞑想しています。神は確かに今までも自分に対して真実な方であられたし、その約束を守り続けてくださっていたと言うことを思い起こしているのです。詩人のこの時の状態は生きていても、死んでいるような状態と言っていいような境遇に追い込まれていたのだと思えます。「わたしはさながら墓穴に下る者です」(7節)とさえ自分を呼んでいるからです。死人には朝は訪れません。永遠の闇が支配する世界に死んだ者は止め置かれるからです。しかし、この詩人が頼りとする神はその死人を甦らせることのできるお方です。だからこそ、この詩人は暗闇の中でも、自分の人生に朝が必ず訪れることを疑うことなく告白していうるのです。

「朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください/あなたに、わたしの魂は憧れているのです」。

 ですからこの詩人の語る「朝」は、私たちが毎日あたりまえのようにやって来ると考えている「朝」のことだけを言っているのではないのです。試練の中で希望を見いだせないような状況に置かれてもなお、神は必ず自分に朝を与えてくださると言う信仰を言い表しているのです。

 私たちは普段は当たり前のように「朝」がやってくること考えています。しかし、一度試練に襲われ、私たちの人生から希望を奪っていくようなとき、自分の人生には「朝」は二度と訪れることがないのではないかと考えてしまうようなときがやって来ます。しかし、そのような時にも、私たちは「朝」がやってくることを期待することができるのです。それは私たちの神が約束に対してどこまでも真実な方であるからです。
 新約聖書の言葉の中にもこの詩人と同じ希望を語る言葉が記されています。使徒パウロの作とされるテモテへの手紙二2章13節は次のような言葉が記されています。

「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである」。

 私たちは朝ごとに聖書の言葉に示された神の言葉に耳を傾け、この真実なるイエス・キリストに私たちの信仰の目を向けたいと思います。そうすれば、私たちは自分たちの人生に希望に満ちた朝が必ず訪れることを知ることができるのです。そしてこの神が与えてくださる朝は、私たちを支配し続けた闇の力、死の力をも打ち破る、神の希望に満たされた朝であることを、私たちはこの詩人の言葉から知ることができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちに聖書を与え、その聖書を通してあなたの言葉を聞かせてくださる幸いを感謝いたします。人間の発する言葉は、語られてすぐに消えてしまうようなはかないものですが、あなたの言葉は違います。なぜなら、あなたは御自身の真実に基づいて、その約束の言葉を私たちの上に必ず実現してくださるからです。どうか、今日も私たちに聖霊を遣わし、私たちがあなたの約束の言葉に耳を傾け、そこから希望を受けることができるようにしてください。私たちを取り巻く環境が厳しく、私自身の内にも希望を見いだすことがないときにも、必ず私たちに喜びの朝がやってくることを信じることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。