礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2014年1月26日  神に近くある幸いを分かち合う信仰生活

聖書箇所:詩編73編28節
わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。

1.神の恵みを分かつ合うコイノニア

 今日はこの礼拝の後、教会では今年の会員総会が行われます。毎年、この会員総会が開かれる日の礼拝では、その年に選ばれている年間聖句と年間標語について牧師がお話することになっています。今年の聖句は詩編73編28節の「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く」と言うみ言葉です。また、年間標語はこの聖句をもとに「神に近くある幸いを分かち合う信仰生活」とすることを小会で決め、この会員総会に提案しました。
 「神に近くある幸い」、その素晴らしさを詩編73編は私たちに教えています。標語で使われている「分かち合う」と言う言葉はギリシャ語で「コイノニア」と言う言葉にあたるものです。これは通常、キリスト者の交わりを表す用語ですが、元々は「共有」とか「分かち合う」と言う意味を持っている言葉です。初代教会では教会員がお互いにもっている物を教会に持ち寄って、助け合ったということが使徒言行録の記事に記されています。自分がもっている物を自分だけのためではなく、教会の兄弟姉妹たちのために役立てることはとても大切なことです。なぜなら、私たちが持っているものはすべて神から与えられてものであり、その神が求めておられることこそが「コイノニア」、分かち合うことだからです。もちろん、神が私たちに与えてくださるものは金銭や他の財産と言ったものだけではありません。何よりも神は私たちにイエス・キリストを遣わしてくださり、その救いの恵みを豊かに与えてくださっているのです。ですから、私たちはその神の恵みをお互いに分かち合うことができます。そして私たちはこの一年、この標語を覚えつつ、教会の新たな計画に沿って、神の恵みを分かち合う生活を送りたいと願うのです。

2.答えの見いだせない問いを抱えて
(1)詩人の告白

 そこでこの標語の意味をさらに深めて理解するために、私たちは詩編73編28節の聖句を学びたいと思います。そして少し長いのですが詩編73編の聖句全体に目を向けることで、詩人が到達した信仰の確信を私たちは学びたいと思います。
 「イエス・キリストを信じれば救いを受ける」。キリスト教の福音は世の多くの哲学者の論じる学説と違って非常に単純です。しかし、その単純な真理を私たちが理解することは非常に難しいことだと言えます。私たちはその真理を自分の人生のすべて、その実存をかけて理解していかなければならないからです。詩編73編の記者はその苦労を自分の人生で味わうことで、28節に語られているような言葉を心から確信を持って語れるようになったと言うことできます。
 この詩編は最初にこのような言葉から始まっています。

「神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い」(1節)。

 聖書はこのような言葉を繰り返し語っています。おそらくこの詩編の著者はこの言葉を子供のときから何度も聞かされて育てられたのだと思います。信仰者の家庭に生まれた子供たちは、自分の意思ではなく、ときにはその意思に反して教会に連れていかれ、聖書を学びます。当然、聖書の知識も豊富です。しかし、その聖書の言葉を本当に理解できているのかどうかまた別の問題です。この詩編記者もおそらく、この言葉を知ってはいたが、本当の意味で十分に理解できていなかったと言えるのです。神はイスラエル、神を信じて歩む民、つまり「心の清い人」に対して恵みを持って答えてくださる方だと彼は今まで教えられて来ました。ところが、彼は「かつての自分はこの言葉を本当は信じていなかった、信じることができなかった」と言うことをここで告白しているのです。それほど自分の信仰はあいまいだったと言うのです。

「それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた」(2節)。

(1)神の敵の繁栄と自分の悲惨

 どうして彼は聖書の言葉を簡単に信じることができなかったのでしょうか。それは彼が「神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ」(3節)からだと言うのです。なぜなら、彼らは神を信じないで、むしろ自分自身を驕り高ぶる者たちなのに、苦しみを知らず、かえってこの世で豊かな財産を得て、その生活を楽しんでいるからです。彼らは財産だけではなく、健康にも恵まれ、苦しむことのなく死んで行くと詩人は語ります。現在でも貧しい人と富める人では受けられる医療も、介護の質も相当違ってしまいます。お金のあるものがよいサービスを受け、そうでないものはそれなりのものしか受けることができないで、健康にも寿命にも大きな差が生じるのです。
 もちろん、私たちが貧しくなってしますのには、私たちの側にも何らかの責任があり、富める人を一方的に責めることはできません。しかし、ここに登場する人々は単なる金持ちではなく、神を信じないばかりか、神を攻撃するような者たちなのです。だから詩人は納得がいきません。

「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか」(11節)。

 ところが、そのように語る者たちに神は沈黙を守られ、彼らの暴虐を見過ごしているように思えるのです。
 しかも、この詩人の苦しみはそれだけに尽きる者ではありません。神を信じて生きる自分の生活は彼らと正反対であったからです。

「日ごと、わたしは病に打たれ/朝ごとに懲らしめを受ける」(14節)。

 神を信じず、神を侮る者たちが祝福されたような生活を送っているのに、神を信じる自分はまるで罰を受け、神から懲らしめられているような生活を送っているように思えるのです。病に苦しみ、貧しさの中で、この世では有効な助けを受けることができません。それなら神を信じて生きることにどんな意味があるのかと彼は疑問を抱き始めます。しかし、その答えを彼は自分では結局、見出すことができずに、さらに苦しみ続けるのです。

3.神が示してくださった答え
(1)神の勝利を確信する詩人

しかし、彼のことの生活にも転換点が訪れます。

「わたしの目に労苦と映ることの意味を/知りたいと思い計り。ついに、わたしは神の聖所を訪れ/彼らの行く末を見分けた」(17〜18節)。

 詩人は自分の抱えている深刻な疑問について、答えが見いだせずに苦しんできました。そしてその末に、彼がたどり着いた結論は、やはり、この疑問に答えることができるのは神だけであると言うものだったのです。
 かつて、イスラエルの預言者エリシャはアラムの王から命を狙われることがありました。なぜならアラムの王がイスラエルを攻め滅ぼそうと作戦を立てると、エリシャが事前にその作戦を不思議な力で見抜き、イスラエルに知らせてしまうので、その作戦がすべて失敗に終わるからです。そこでアラムの王はまずエリシャを殺してしまうことが得策と考え、彼の住む街に大軍を送って取り囲みました。エリシャの召使いが朝早く起きて家の外に出てみると、アラムの大軍が町を包囲しているのに気付き「ああ、ご主人よ、どうすればよいのですか」と恐怖を覚えて叫びます。するとエリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と語ります。そしてエリシャが神に召使いの心の目が開かれるようにと祈ります。すると次の瞬間、召使いの心の目が開かれ、彼は敵の軍隊よりもはるかに多い天の軍隊が自分たちを取り囲み守っている姿を見ることができたと言うのです(列王記下6章15〜17節)。
 詩人はこのときのエリシャの召使いと同じように、目に見える出来事の背後に隠されている目に見えない真実を神によって見せられます。それは神を侮る人々の最後が滅びでしかないと言う事実です。新約聖書のヨハネの黙示録の著者もこの詩人と同じような体験をし、その内容をその書物に書き記しました。自分たちを苦しめ続ける世のすべての力が、イエス・キリストによって完全に滅ぼされてしまうと言う幻を彼は見たのです。神が私たちに示される答えは、このイエス・キリストの勝利の姿です。詩人はこの神の勝利を確信し、神が信仰者を裏切ることは決してないことを知るのです。

(2)神が右の手を取ってくださっていた

 しかし、詩人が神から示された答えは実は敵が滅ぼされることだけではありませんでした。そして彼がさらに神から示されたことこそが、彼の信仰生活を励まし、慰めるものであったことを詩編は続けて語っているのです。

「わたしは心が騒ぎ/はらわたの裂ける思いがする。わたしは愚かで知識がなく/あなたに対して獣のようにふるまっていた。あなたがわたしの右の手を取ってくださるので/常にわたしは御もとにとどまることができる」(21〜23節)。

 詩人は今までの自分の信仰的な葛藤の姿をここで振り返っています。そして愚かな自分は神に信頼するのではなく、まるで獣のように神に吠えたけり、無礼なふるまいをしてきたと言うのです。「神などいないのではないか」。そのような疑問さえ抱き、むしろ神から遠ざかろうとしていた自分がそこにはありました。しかし、そんな自分の「右の手」を神はしっかりと握り続けてくださっていたのです。ですから自分がこのようにして、再び神を信頼することができ、神に立ち返ることができたのは、自分が忍耐強かったり、知恵があったからではないのです。神がしっかりと自分の右の手を持ち続けてくださっていたのです。神に対して獣のようにふるまった自分に対して、むしろ神が忍耐をもって近くに立ち、絶対に離れることがなかったから今の自分があると言うのです。

「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く」(28節)。

 この言葉の意味は私たちがたとえ愚かで、神にふさわしくない者であったとしても、神は私たちを見捨てることなく、その右の手を持ち続け、私たちのそばにいてくださることを褒め称える言葉だといえるのです。

4.神が近くにおられるとは
(1)私たちの喜びの根拠

 私たちはときどき信仰生活と言うものを誤解して、私たちが努力して神に近づいていく生活がそれだと考えることがあります。つまり、神はいつもは私たちのはるか遠くにおられので、何とかしてその神に近づく、そのために信仰的修練を積んでいく必要があると考えてしまうのです。しかし、聖書が語る「神に近くあること」とは、むしろ神の方が私たちに近づいてくださること、私たちのそばにいてくださること、つまり神の恵みを語っているのです。
 パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、私たち信仰者に「主において常に喜びなさい」と勧めています(4章4〜5節)。そして、どうして私たちがそのように喜ぶことができるのかと言う根拠を次のように説明するのです。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」。

 「主はすぐ近くにおられます」と言う言葉、この言葉の直接の意味は「主は私たちの手の届くところにおられる」と言うことです。そしてパウロは私たちにだから「喜びなさい」と勧めるのです。なぜなら、イエスが天から私たちのもとに遣わしてくださる聖霊が私たちとイエスとを結び付けてくださるからです。

(2)み言葉はあなたの近くにある

 また、私たちが「神に近くあること」を実感し、喜ぶ生活についてパウロはさらに次のような言葉を語っています。ローマの信徒への手紙10章8〜9節には次のように記されています。

「「では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。

 ここに「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある」と語られています。だから私たちは遠いところにおられる神を訪ね求めて旅をする必要はありません。聖書の言葉が私たちに与えられていること、私たちがその言葉を読み、心に受け入れることができることこそ、神が私たちの近くにおられる証拠なのです。そして私たちはこの聖書の言葉を読むことを通じて、神が近くにいてくださることの幸いをさらに実感していくことができるのです。
 新たな年を迎え、私たちは新しい一年の歩みを始めようといています。私たちが自分の目に見える部分だけの情報を見て判断すれば、詩編の詩人のように疑問を持たざるをえない厳しい現実が私たちの前にもあります。しかし、私たちはすべての答えは神にあることを信じて歩んでいきたいと思うのです。私たちがキリストの勝利を仰ぎ望み、神のみ言葉に耳を傾ける生活を送ろうとするとき、神は私たちに聖霊を遣わして、その恵みを明らかにしてくださるのです。そして私たちはこの神から受けた恵みを持って、互いに仕え合い、分かち合う信仰生活を今年も送りたいと願うのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く」。詩編記者が悟りえたこの真理を私たちも確信することができるように聖霊を遣わしてください。また、私たちが祖遇する困難な状況の中でも私たちの右の手を放すことなく、いつも近くにいてくださるあなたを覚えることができるようにしてください。そして、どうか私たちがあなたから与えられた恵みを分かち合うことによって、信仰のコイノニア、教会生活を送ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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