礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2014年2月9日  「人をつくり上げる言葉」

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙4章29節
25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
27 悪魔にすきを与えてはなりません。
28 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

1.人を造り上げることに役立つ言葉

 今日の礼拝では使徒パウロの記したエフェソの信徒への手紙の4章29節の言葉を中心にしてお話をしたいと思います。パウロはここでこの手紙を読む読者たちに対して、次のように勧めています。

 「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。

 「悪い言葉を一切口にしない」、そして「人を造り上げるのに役立つ言葉を語れ」と言う言葉が記されています。私たちは通常、人間関係の中で相手を傷つけるような言葉を使わずに、お互いに相手の存在を尊重し合うような言葉を語るようにと教育されています。しかし、それでも私たちは自分が教えられた通りにはうまくいかずに、ときには言葉の問題で深刻な争いを人間関係の中に招いてしまうことがあります。その時、私たちは「分からないからやってしまうのではなく、分かっていても、うまくはいかない」と言うことを痛感します。それでは聖書はここでも私たちが今まで親や学校の先生から教えられたような、実現が困難な勧めを語っているのでしょうか。私たちは今朝、この聖句の意味をその前後関係の聖書の言葉も踏まえてもう一度考え直してみたいと思うのです。
 その前にまず、このエフェソの信徒への手紙4章29節の言葉を私たちが読んでいる新共同訳以外の聖書がどのように訳しているのかを調べてみたいと思います。たとえばカトリック教会系のフランシスコ会訳聖書はこの言葉を次のように訳しています。

 「あなた方は悪い言葉をいっさい口にしてはなりません。むしろ、聞く人々に恵みをもたらすように、必要に応じて、人を高めるのに役立つ言葉を語りなさい」。

 このフランシスコ会訳を作った人々は新共同訳の翻訳事業にも加わった人が重なっているのでかなり、新共同訳の翻訳と似ています。
 また、通常の礼拝で使われる聖書ではなく、かなりの独自の視点から訳されている岩波書店が出版した新約聖書では次のように訳されています。

 「いかなる腐った言葉もあなたがたの口から出ることがあってはならない。しかし建徳のためになる良き言葉なら、それを聞く人々に恵みが与えられるよう、必要な場合に語りなさい」。

 新共同訳やフランシスコ会訳で「悪い言葉」と訳されている言葉の原文には「古くなったもの」、つまり傷んでしまって「腐った言葉」と言う意味がありますから岩波書店版はそれを忠実に訳していると言えます。傷んだ物、腐った物を人が口にすれば病気になってしまうように、この言葉は人の心を病ませるような害を与える言葉であることが分かります。
 新共同訳の「その人を造り上げるのに役立つ言葉」についてフランシス会訳は「人を高めるのに役立つ言葉」と翻訳し、岩波訳は「建徳のためになる良き言葉」となっています。この言葉は両方とも「道徳的にもふさわしい言葉を語りなさい」と言った意味になります。ただこの言葉に関しては元々のギリシャ語の言葉が建築用語に使われる言葉だとされていますから、その点では私たちが使っている新共同訳聖書の言葉の「造り上げるのに役立つ言葉」と言う訳し方が忠実な訳と考えることができます。さらにここで問題になるのは「造り上げる」と言った場合に「私たちの語る言葉で何を造り上げるのか」と言うことになると思います。ここで「人を造り上げるのに役立つ言葉」と言われていますから、その人の人格形成に役立つ言葉と考えることが可能です。そう考えるとフランシスコ会の「人を高めるに役立つ言葉」も岩波の「建徳のために良き言葉」もこのギリシャ語の意味を表した言葉、つまり意訳して示していると考えることが可能となります。

2.誰が人を造り上げるのか

 ただ、ここでさらに問題になるのは、聖書が私たちの人格形成にとって何が大切だと考えているかと言う点です。ご存知のように聖書における人間の本来の姿は、神と共にあることが当たり前であって、神から離れた人間の状態は異常と考えられています。つまり、どんなに良い言葉を持って教育されたとしても、その人が神と離れていては、その人間は欠陥を持ち、不完全な人間でしかないと聖書は教えるのです。つまり、私たち人間は真の神を信じ、受け入れることによって始めて、真の人間となることができると言うことになるのです。ですから聖書は神を離れた『自立的人間』を不完全な人間と考え、むしろ神と共に歩む人間を本来の人間と考えているのです。
 人間は神に造られたものでありながら、罪を犯して神に背き、神から離れてしまうことにより、真の人間性を失い、悲惨な人生を歩み出すことになったのです。それは欠陥自動車が排気ガスをまき散らして町を進んでいくのと同じです。その被害は自分にもまた、周りのすべての環境にも及ぼし続けるのです。
 エフェソの信徒への手紙はこの人間に対して神がキリストを遣わす計画を立てたこと、そしてこのキリストの御業がどんなに私たち人間にとってすばらしいかを教えています。私たちはこのキリストを受け入れて、キリストと一つにされることで、新しい人間、神が創造された本来の人間として生きることが可能となったのです。ですから、今日の言葉の意味は「悪い言葉」とは私たちがかつて神を離れて生きていたときに当然のように使っていた言葉を表しています。そしてその逆に「人を造り立てるのに役立つ言葉」とはキリストを信じ、受け入れた者が言葉を語る場合にふさわしい言葉を言っているのです。
 それでは両者の生き方の違いはどう違うのでしょうか。そこにはどのような言葉の変化が起こるのでしょうか。一口に言って神を否定し、自らの力で生きようとする人は、自分を自分で造り上げなければなりません。この世の厳しい生存競争に自分の力で勝利しなければならないのです。そのためには「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」を表す言葉を使っても(31節)相手を倒さなければなりません。ですから私たちはかつて、自分の事で一生懸命で、私たちの周りの人を配慮することはできませんでした。むしろ人を出し抜いても自分を主張して生きなければならなかったのです。
 しかし、キリストを救い主と信じ、受け入れた私たちの新しい人生は違います。私たちは私たちを支え導いて下さる方がイエス・キリストであると言うことを知っています。彼は私たちが自分の人生を造り上げるために十分な働きをしてくださったのです。十字架上で私たちの罪を滅ぼし、私たちに神からの恵みを豊かに与えることで、私たちを真の人間として造り上げてくださったのです。だから、私たちはもはや自分を造り上げるために「悪い言葉」を使って争う必要はありません。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」(ローマ12章19節)。

 このパウロの言葉は大変に有名な聖書の言葉ですが、これは私たちの復讐心をあおる言葉ではありません。むしろ私たちの人生を進んで主なる神に、イエス・キリストに委ねていくことを勧める言葉となっているのです。

3.真実の言葉を語れ

 さてそれでは私たちはキリストに救われた者としてどのような言葉を使うことがふさわしいと言えるでしょうか。いったい、どのような言葉が「人を造り上げるのに役立つ言葉」と言えるのでしょうか。このことを考えるときに、今日の聖句が記される文章の段落の始めに記された言葉が大切になってくると考えることができます。

「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」(25節)。

 ここでは「隣人に対して真実を語りなさい」と勧めの言葉が語られています。ということは「人を造り上げるのに役立つ言葉」とは「真実な言葉」でなければならないと言うことになるはずです。どんなに相手の気持ちを良くさせても、それが口先だけの、偽りの言葉ならば、結局、その言葉は人を造り上げるのに役立つ言葉とは成り得ないのです。
 しかし、ここでまた問題になることがあります。それは「真実を語る」ときの真実とはいったい何かと言うことです。たとえば私たちの周りで起こっていることの中には「本当のこと」を話したばかりに、さらに深刻な問題が生まれてしまったと言うこともあります。また、「真実」とは言いながら、その「真実」が人の捉えた方によって全く違ってしまうこともあるのです。
 最近のニュースで中国のハルピンに明治の元勲の一人伊藤博文を暗殺した犯人であるアン・ジュンゴンの記念館が作られたということが話題となりました。私たちにとって伊藤博文は明治維新を経て、日本が近代国家となるために働いた重要な人物で、日本で最初の総理大臣となった人物としても有名です。この伊藤博文の肖像が印刷されていた昔の千円札を知っている方も多くおられると思います。つまり伊藤博文は日本の紙幣にまで印刷される重要な人物なのです。そしてアン・ジュンゴンはこの伊藤博文をハルピン駅で銃撃し、殺害した人物であると私たち日本人は考えています。
 しかし、このアン・ジュンゴンは韓国では尊敬すべき愛国者の一人として褒め称えられているのです。自分たちから国を奪い取ろうとした日本の支配者に命がけで抵抗した人物だからです。ですから、アン・ジュンゴンの肖像は韓国の普通切手などに印刷されています。アン・ジュンゴンは韓国ではすべての国民に尊敬されている英雄となっているのです。
 この事件において日本と韓国では歴史の捉え方、つまり「真実」についての認識のずれがあり、これが絶えず両国の関係に複雑な影響を与えています。しかし、どちらかと言うと、この場合の真実は、それを主張する者に都合のいいことが「真実」と言うことになってしまう傾向があると思います。そして、この真実についての捉え方の違いの問題は国際関係だけではなく、私たちをとりまく人間関係の中でも起こっています。私たちは互いに、自分にとって都合のよい出来事や、捉え方を「真実」だと言って譲ることなく、争いあっているからです。

4.神の真実である福音の言葉
(1)神の力である福音の言葉

 それでは聖書の言う真実とは何なのでしょうか。人が語る場合には「真実」がその立場によって様々に変るのですが、聖書が語る真実はそうではありません。なぜなら聖書が語る場合の「真実」とは常にそれは神の真実を言っているからです。聖書は神が私たちに示してくださることこそが「真実」であると教えるのです。そう考えると「隣人に対して真実を語りなさい」と言う言葉は、「神が示してくださった真実を語れ」、あるいは「神にもとづく真実を語りなさい」と言うことになります。そして聖書に示された神の真実とは「福音の真実」と言ってもよいのです。
 そう考えると「人を造り上げるのに役立つ言葉」とは聖書が明らかにする「福音の言葉」と考えることができます。確かに聖書の語る言葉、福音の言葉には人間の語る気休めの言葉と違って力があります。福音の言葉は人を励まし、人を導くことができるのです。パウロは福音の言葉について、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリント第一1章18節)。なぜなら、福音の言葉を通して神が私たちに実際に働いてくださるからです。だから、私たちはこの福音の言葉をまず自らが理解し、そしてその言葉を人に語り伝える必要があると言えるのです。

(2)キリストの枝としての成長する教会

 先ほどの25節には「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と勧める言葉に続いて「わたしたちは、互いに体の一部なのです」と言う言葉が続けて語られています。私たちはイエス・キリストを受け入れるとき、そのイエス・キリストと一つのものにされます。それでは私たちは目には見えないイエス・キリストと自分が一つのものにされたことをどこで理解することができるのでしょうか。それは、この地上においてキリストの体と語られる教会の一員とされることによってです。つまり、私たちは教会の一員とされるとき、目に見えないキリストとも一つに結びつけられていることを信じることができるのです。そしてそのときキリストに結びつけられているのは私だけではありません。教会に集められている者すべての兄弟姉妹がそれぞれキリストの体の一部とされているのです。
 聖書が語る人間形成の道は個人だけが成長すればいいと言うものではありません。むしろ、教会に集ったすべての人々がお互いに励まし合い、助け合って一つの教会を造り上げていくとき、そこに集う一人一人も成長し、真の人間として造り上げられていくと考えるのです。だから、私たちはこの教会の交わりの中で「真実な言葉」、また「人を造り上げることに役立つ言葉」を語ることが求められているのです。
 この世にはキリスト教会よりも親密に見える人間関係を誇る集団があるかもしれません。また、様々な手段を用いてそこに集う人々の修養をはかり、人間形成を目指す機関もたくさんあります。しかし、これらの集団や機関とキリスト教会が根本的に違うことは、私たちがイエス・キリストによって一つとされていると言うことにあります。そして、私たちの教会には本当の意味で「人を造り上げることに役立つ言葉」、「真実の言葉」である福音の言葉が委ねられているのです。私たちはこのことを覚えて、教会の仲間たちと福音の言葉を語り合い、また教会の外にあってもこの福音の言葉を人々に証ししたいと願うのです。

【祈祷】
天の父なる神様
私たちが偽り捨て、真実の言葉を語り、人を造り上げるのにふさわしい言葉を語ることができるように助けてください。そのために、あなたが聖書を通して教えてくださったあなたの真実、福音の真実を心に蓄え、いつでもそれを人々に語り、証しすることができるようにしてください。あなたの体である教会に集められた私たちがお互いに励まし合って、イエス・キリストに救われた者としてふさわしい人間関係を形成することが出来るように助けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

この頁のトップに戻る