礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2014年2月23日  「正しい者は一人もいない」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章9〜20節
9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
14 口は、呪いと苦味で満ち、
15 足は血を流すのに速く、
16 その道には破壊と悲惨がある。
17 彼らは平和の道を知らない。
18 彼らの目には神への畏れがない。」
19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

1.聖書が教える罪は相対的なものではない
(1)罪の問題と向き合う

 今日も引き続き使徒パウロの記したローマの信徒への手紙を学びます。今日の聖書箇所の冒頭はまずこんな言葉から始まっています。

「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(9節)。

 パウロはこの手紙の1章18節から今日の箇所までずっと人間の罪の問題を取り上げて論じています。そして今日はその罪の問題の箇所の結論部分と言える場所となります。この後の3章21節からは新たな話題、私たち人間に信仰を通して与えられる神の義について語られていきます。そのような訳で、私たちはここまで人間の罪の問題を結構、時間をかけてこの礼拝で取り上げ続けてきました。聖書の教える神の聖なる律法によれば、神を知らない異邦人もまた、神を知っていると言うユダヤ人も同じように神の前に罪を犯し続けていて、神の怒りを免れえないということを私たちは学んできたのです。
 私はちょうど20歳前後で信仰を得て、キリスト者になりました。その頃の私は、自分の人生にいろいろな問題を感じてキリスト教会の門をくぐった訳なのです。その当時、私が指導を受けていたのは改革派と同じプロテスタント教会ですが、少し改革派とは聖書の理解を異にしていたルーテル派の教会でした。その教会では信仰について関心を持つ人たちに宗教改革者マルチン・ルターが記した『小教理問答書』を学ばせていたので私もその指導を受けました。ルター自身が記したこの『小教理問答書』はそんなに大作ではなく、非常に完結に信仰の要点を記した書物です。ただ、当時私が使っていたテキストはその小教理問答書を解説する文書を、さらにまた詳細に説明したという書物で、かなりの読み応えのあるものでした。このルターの小教理問答の学び、最初に何を学ぶかと言うと皆さんもよく知っておられる『十戒』という文章です。ですから、神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えられた聖なる戒めである『十戒』を私はその教会で徹底的に指導されたのです。当時、私は自分の人生に希望を持つことができないことを悩んでいました。キリスト教会に行けば何か希望があるかなと思いながら求道生活を始めたのです。ところがそんな私に教会が教えるのは「あなたの人生には何の希望もない」、「あなたは神の律法に従えば、何もよいことのできない罪人」と言う教えだったのです。ですから、私は「こんな私の人生にも少しくらいは希望があるのではないか」と密かに抱いていた思いが、この学びを通して粉々に砕かれてしまったのです。
 私と同じように教会に、あるいは聖書に希望を求めてやってきた人が、その教会で最初に「あなたは罪人です。あなたの人生には何の希望もありません」と言われて閉口してしまうことが多くあるのではないでしょうか。そこで「こんなはずではなかった」と教会から離れる人もいるくらいです。しかし、そこで諦めないで、キリスト教会が提供する真の福音の希望はこの「罪の問題」と深刻に向き合うことのできる者にだけ与えられることを、皆さんにも理解してほしいのです。

(2)人に対してではなく、神に対して罪を犯し続けている

 ところで、ここで罪の問題についての一つの誤解を少し考えて見たいと思います。「聖書は人間が罪人であって、何の善いこともなすことができない」。そう教えていると私たちは学びます。するとおそらく多くの人は「そんなことはないはずだ、人間は確かに誤りも犯すが、善いこともできるし、優れた歴史の遺産を数多く残してきたではないか」と思われるのではないでしょうか。また「自分の周りにも、親切で優れた人たちがたくさんいる」と反論される方もおられるはずです。ここで混乱の内容に整理するなら、聖書の語る罪と言う問題は人間の間の相対的な罪の問題を取り扱っているのではなく、あくまでも神の基準に従ってみるなら、私たちは神に認めてはいただけない罪人だと教えているのです。
 確かに優れた行いや、教えを語ることで人々の尊敬と評価を受けることができる人はたくさん存在します。人間は自分に与えられた能力によって、また賢明な努力によって、社会や人に貢献することは可能ですし、優れた業績を残すこともできるのです。ただ、聖書が教えているのは、神に対する問題であって、神に認められる、神を満足させることは私たちには何もできないと言うことなのです。つまり、ノーベル賞を受賞して人々の賞賛を集める人も、またそんな賞とは無関係に生きている私たちも、神のみ前では等しく罪人であり、そのままでは希望のない存在であること聖書は教えているのです。

2.罪とは「的外れ」、神に喜ばれることができない

 このことをよく理解することができるのは私たちが今、真剣に向き合っている「罪」と言う言葉がもともと持っている意味です。聖書に使われているこの「罪」と言う言葉の本来の意味は「的外れ」と言うものです。どんなに力を込めて、また勢いよく弓矢を飛ばしてみても、それが的に当たらなければ何の意味もありません。ですからこう考えていいでしょう。放たれた矢は的とは大きく違ってとんでもない方向に飛んでいる、それが私たち人間の抱える罪の本質的な問題だと聖書は教えているのです。もちろんこの場合の「的」とは神であると言えます。人間は本来この神と共に生きる存在として神によって創造されたはずなのに、その創造の目的から逸脱してしまい、その生き方は全く神とはそぐわないものとなってしまったのです。それが聖書が教える「罪」であり、「的外れ」な生き方だと言えるのです。これでは人間はどんなにその人生で努力しても神に喜ばれることはできません。かえって神の怒りを買うだけなのです。
 このことについて大変興味深い表現が先ほどのパウロの言葉の中に登場しています。彼はここで「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」と言っています。「罪のもとにあるのです」、つまりパウロはここで「人間は様々な罪を犯し続けている」とは言わないで、むしろ「罪のもとにある」、「罪の支配に下にある」と言っているのです。これは言葉を変えて言えば人間はみな「罪の奴隷」なのだと言うことです。人間は自分の意志で自由に罪を犯したり、そうしないことを決断することができているのではなく、むしろ罪を犯すように支配されている、自分の意思を奪われた奴隷であると教えているのです。ここには聖書が教える深刻な人間の姿が語られています。人間は自分で自分の人生を決められない奴隷なのです。そして私たちを支配しているのは罪と言う存在であるとパウロはここで指摘するのです。このことについて宗教改革者のマルチン・ルターは『奴隷意思論』と言う主張を力説しました。人間の意思は悪を自由に決断し、行うことができるのですが、その反対に神に従う自由を持っていないのです。つまり私たちは悪の奴隷、罪の奴隷だとルターは言うのです。パウロはここで人間が罪の下にあること、罪の奴隷であることを、自分が勝手に言い出したのではなく、聖書が昔から教えていることなのだと言うことを読者に力説しています。10節の「次のように書いてある」と言う言葉は「聖書にこう書いてある」と言う意味を持った言葉です。ですからここから18節まではすべて旧約聖書からの引用の言葉が記されています。彼はここで神はいままでも聖書の言葉を通して罪の奴隷である人間の深刻な状況について教えてきたと言うのです。ですからここでは「正しい者は一人もいない」(詩編14編1節)から始まって、旧約聖書の引用が続き、「彼らの目には神への恐れがない」(詩編36編2節)と言う言葉で終わっているのです。

3.律法は私たちの罪を告発する

 当時のユダヤ人たちは神の律法を正しく行うことによって自分たちは命を得ると信じ、また教えてきました。そしてその言葉はある意味で真理を語っていると言えます。なぜならば私たち人間が命を得る方法は、確かに神の律法に従うことだけだからです。神の律法に従う生き方は決して「的外れ」とはならないからです。しかし、ここでパウロが聖書の言葉を通して教えているように、今の人間は神の律法を正しく行う能力を失っています。だから人間は罪の奴隷であり、罪に支配されていて、誰も律法を行って神を喜ばせることができないのです。
 それなら、神が律法を私たち人間にお与えになられた理由はどこにあるのでしょうか。実現不可能な掟を人間に与えて神は何をされよとしているのでしょうか。そのことについてパウロは次のように教えています。

「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです」(19節)。

 「律法によって「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです」。裁判において検察官は被告人がどんな犯罪を犯したかを証拠に基づいて告発し、その犯罪がどんな法律に違反しているかを判断した上で、その罪にふさわしい刑罰を被告人が受けることを要求します。神の律法はこの裁判での検察官の役目と同じような働きをしています。私たちがどのような罪を犯し、それが神の御心に背いるか、そして神の怒りが必ず私たちの上にくだることを律法は明らかにするのです。
   この点でパウロの律法理解はファリサイ派を代表するような『律法主義』の考え方とは大きく異なっています。先ほども言いましたように伝統的なユダヤ人は律法を行うことによって自分たちは命を得ると考えていました。しかし、パウロはこのユダヤ人たちの主張とは違い、罪の奴隷である人間は律法の要求を満たす行いは何一つできず、律法はむしろ、その人間の能力の無さを明らかにするものだと教えるのです。
 パウロはかつてファリサイ派の熱心な信者としてこの律法に従う生活をしていました。しかし、パウロがその生活の中で得た感想を、このローマの信徒への手紙の7章あたりで語っているのです。彼はそこで「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(24節)とまで語っているのです。彼がこのように自分を正しく理解できたのは、神の律法に照らして自分の姿を見つめることができたからです。律法はこのようにして私たち人間の厳しい罪の現実の姿を明らかにする役目を持っているのです。また、神はそのためにこの律法を私たちに与えてくださったと言えるのです。

4.突きつけられた死刑判決

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)。

 神の律法は私たちが罪の奴隷であることを白日の下に晒します。そして私たちが神の有罪判決、死刑判決を受けなければならにことを明らかにするのです。この死刑判決から私たちは誰一人として自分の力では逃れることができません。かつて、アメリカの信仰復興運動を指導したジョージ・ホイットフィールドの説教は大変有名でした。彼が語る神の厳しい裁きの説教を聞いていた聴衆は次から次へとその裁きの恐ろしさのために卒倒して倒れたと言う言い伝えがあります。パウロはここでその神の裁きの内容を詳細に語ることはしませんが、はっきりと私たちは誰もこの裁きから逃れることができないと言うことを語っています。ですから私たちは誰もが自分の処刑の日を待つ、死刑囚のような者だと言えるのです。そしてその死刑を待つ私たちの人生に驚くべき出来事が起こったことを、パウロはこの手紙の中で続けて語って行くのです。それはパウロがこの手紙の中で最も明らかにしようとしたキリストの福音です。
 人間とは言うのは不思議なものです。私たちは普段、自分のこの人生があたりまえのように毎日続くと考えて生きています。しかし、ひとたび大病をしたり、事故から救われて九死に一生を得ると、その後のそのような経験をした人の人生観が大きく変わることがあると言います。なぜなら、それらの体験を通して、その人たちは自分の命が今日あると言うことが当たり前ではないと言うことを理解するからです。人間は自分に与えらえている限りある命を実感することで、その命の価値を改めて知り、その上で限られた人生のときを大切に生きようとするのです。
 聖書が私たちに告げる死刑判決は私たちに対して、私たちの人生の大切さを教える意味も持っていると言えます。なぜなら、私たちが今、このようにして生きることができるのはあたりまえのことではないからです。私たちのために十字架にかかって命を捧げてくださったイエス・キリストの御業があるから私たちは今を生きているのです。かつては罪の奴隷としてしか生きられず、神に従うことのできなかった私たちのために、まずキリストは十字架にかかって、私たちをその罪の支配から解放ししてくださったのです。そして私たちに神に従う自由を与え、聖霊を送って、私たちが神に喜んで従えるようにしてくださったのです。
 私たちはかつてそのような自由や喜びとはかけ離れた存在でした。自由を奪われ、罪の奴隷のままで、死刑判決を受けた死刑囚だったのです。その私たちが救われたこと、その私たちが神を賛美して今日を生きることができることができるのはキリストの救いの御業があるからです。私たちはこの福音の素晴らしさをもう一度、自分たちにかつて下されていた死刑判決を思い出すことで考え直す必要があります。そして私たちはこのキリストの救いを通して与えられた、新しい人生を喜びをもって、真剣に、そして充実したものとして送りたいと願うのです。

【祈祷】
私たちはかつて、あなたから離れ的外れの人生を送ることで、あなたの怒りの下にあった希望のない罪人の一人でした。しかし、あなたはその私たちに聖なる律法を与え、私たちが処刑の日を待つ死刑囚のように、悲惨な運命の下にあることを教えてくださいました。そしてその上で、キリストの福音を伝え、私たちをキリストの救いへと入れてくださったのです。このあなたの御業に感謝します。どうか私たちがこの救われた生活を当たり前のものだと思うのではなく、キリストの命という尊い犠牲を持って買い取られた大切な生活であることを自覚し、一日一日を大切に生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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