礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2014年3月2日  「信じる者に与えられる神の義」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21〜22節
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

1.律法と福音との関係
(1)律法によっては誰も義とされない

 今日も皆さんと共に使徒パウロが記したローマの信徒への手紙から学びたいと思います。この手紙を記したパウロは最初の1章の部分で、この手紙の主題と言える内容を次のように説明しています。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」(1章16〜17節)。

 この文章からパウロはこの手紙でキリストの福音、キリストを信じる者に与えられる神の義について説明しようとしていることがここから分かります。そして、その主題を説明するためにこの文章の直後の1章18節から「人類の罪」の問題を取り上げ、先日学びました3章20節までずっと同じ問題をパウロは語って来たわけです。そしてパウロはこの「人類の罪」の問題の部分を結ぶため20節で次のように言っています。

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3章20節)。

 人は皆、罪の力に支配されていて、神の要求した律法を自分で行なう能力を失っています。ですから律法を実行することで神の前で義とされる人は一人もいないのです。むしろ、神の律法は私たちの罪を明らかにすることで、私たちが神の怒りの元にあり、その裁きを免れ得ない存在であることを私たちに示す働きをするのです。

(2)福音と律法の関係は

 さて、このようにパウロは論じることで、人間が自分の力で神の前に義とされる道はすべて閉ざされていると語ります。そして、その上で、今日の21節以下の文章が続いていくのです。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)。

 「ところが今や」と言う言葉を使ってパウロは、今までの話から大きく話が転換していくことをこの手紙の読者に示唆します。つまり、この直前の20節までの話で神の前で義とされ、人が救われる可能性がないとされた私たち人間に、新たに別の方法が示されたと言うことを語り、私たちの目をその新しい方法に向けさせようとしているのです。
 そこで次の「律法とは関係なく」と言う言葉が問題となってきます。なぜなら、パウロはここでこれから論じることが「律法とは関係」がないものだと言いながら、続けて「しかも律法と預言者によって立証されて」と語っているからです。このパウロの言葉はこのままでは矛盾しているように聞こえます。パウロはここからいよいよこの手紙の主題であるキリストの福音について語ろうとしています。そこでここで問題となるのはキリストの福音と律法の関係をどのように捉えるかと言うことです。
 もし律法が福音と全く関係がないとしたらイエスがかつて御自身の救い主としてのみ業について語った言葉を私たちはどのように考えるべきでしょうか。イエスは次のように語っています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイによる福音書5章17節)。

 この言葉から考えるとイエスは律法を廃止するのではなく、その律法の完成者として来られた方であり、その律法を完成させることで救い主としての使命を遂行されようとしていると考えることができます。そこでこの21節の文章をもう少し丁寧に読む必要があると言えるのです。私たちが福音と律法の関係を正しく理解するためにこの文章は次のように読み替えることがふさわしいかもしれません。
 「ところが今や、律法(を自分の力で実行すること)とは関係なく、しかも(旧約聖書つまり)律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。
 前半の「律法」はユダヤ人たちが考えていた律法主義、自分の力で律法を守ることで救いを得ようとする誤った考え方のことです。そして後半部の「律法」は旧約聖書の二つの区分である「律法」と「預言者」を説明していると考えれば、キリストの福音は旧約聖書に約束されてきたことだと言っていると理解することができます。
 キリストの福音はユダヤ人の主張する誤れる律法主義とは全く関係がありません。しかし、この福音は旧約聖書の中で預言され続けた神の約束の成就として私たちに与えられるものなのです。そして神が与えてくださった律法は間違いなく、このキリストの福音と深い関係を持っています。なぜならこの福音によって示された神の義は、イエス・キリストがこの律法を完全に守られことで私たちの上に与えられるようになったからです。

2.神の義はどのように示されたか

 そこでこの福音によって明らかにされた神の義と旧約聖書の関係についてさらにここで考察を続けてみたいと思います。よくいろいろな人から「旧約聖書に記されている神の姿は新約聖書に記されている神の姿とは違って親しみにくい」と言われることがあります。特に旧約聖書には人間を裁かれる厳しい神の審き主としての姿が度々描かれています。それに反して、新約聖書では神の赦しやその愛が語られ、神が私たち人間に対して恵み深いかたである姿が描かれています。多くの人はこの差に抵抗を感じるのかもしれません。しかし、ある意味で旧約聖書は神の義が罪を犯し続ける人間の上にどのように実現するのかよく説明していると考えることができます。なぜなら、神はご自分に背いて、罪を犯し続ける人間を厳しく裁くことよってその義を表されるからです。
 国家の秩序を守る警察官や裁判官自らが国家の法律に従わないで、犯罪を取り締まることなく、犯罪に対して厳しい刑罰も下さないとしたら、その国は正義はどのようになってしまうのでしょうか。正義が失われた不法名国家になってしまいます。警察官や裁判官は法律を犯す人やその行為に対して、ただしく取り締まり、またその罪を裁くことで国家の正義と実現していきます。神の義も本来であれば、罪を犯す人間を厳しく裁くことで実現されるはずなのです。そして、旧約聖書ではそのような神の義が実現される姿を忠実に伝えていると言えるのです。
 しかし、パウロがここで語ろうとするキリストの福音が明らかにした神の義の実現の仕方はこれとは全く違っています。確かに神の義は人間の罪を裁くことによって実現されると言うことには変ることがありません。しかし、新たに示されたこのキリストの福音では人間の罪に対する厳しい神の裁きを私たちに下すのではなく、私たち代わって十字架のイエス・キリストに下されるのです。そのことで神の義が実現したと言っているのです。つまり、どうして神の御子であるイエス・キリストが十字架の上で、厳しい神の裁きを受けて死ななければならなかったかと言う出来事を理解するためには、旧約聖書に示されている人間の罪を厳しく裁かれる神の姿をまず理解しなければならないのです。このような意味で旧約聖書が語る神の裁きの姿は、間接的にこのイエス・キリストの福音、彼の十字架の死によって実現した神の義を私たちに証ししていると言えるのです。

3.イエス・キリストを信じる

 それではイエス・キリストが十字架の上で厳しい裁きを受けることで私たちに代わって得てくださった神の義は、どのようにして私たちのものとなるのでしょうか。パウロは続けて語ります。

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(22節)。

 この福音によって明らかにされた神の義はイエス・キリストを信じることによってのみ、私たちに与えられるのです。ですから、このキリスト以外にはこの神の義を私たちに与えることが出来る方はおられないので。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14章6節)。

 神の義をこのキリスト以外に求める道はすべて閉ざされています。そして、この神の義はこのイエス・キリストを信じるすべてのものに差別なく提供されているとパウロは語ります。「差別なく」と言う訳ですから、神の義を得るために人間に要求される条件は一切無いと言うことになります。パウロはここまでで、異邦人の罪、そしてユダヤ人の罪をそれぞれ明らかにし、すべての人が「差別なく」神の裁きを受けなければならないと語ってきました。ユダヤ人たちは神の救いにあずかるために人間の側にも条件が求められていると考え、その条件を満たすことができるのは自分たちだけだと思っていました。しかし、彼らの教える律法主義とは全く関係のないキリストの福音は、人間の側が持っている一切の条件を問うことなく、すべての人に神の義は差別なく与えられることをパウロはここで力説しているのです。

4.神の問いに自分を第三者として考えてはならない
(1)「信仰」は人間の側に要求される条件ではない

 ここである人は次のように考えるかもしれません。確かに人間の側には律法を自分の力で実行すると言う条件は求められていません。しかし、神は私たちにそれとは別に「信仰」と言う条件を求めているのではないでしょうか。だからその信仰こそが私たち人間の側に神が求められておられる唯一の条件だと考えてはいけないのでしょうかと言う問題です。
 ここでもし「信仰」を神の義をいただくために、神が人間に求められている条件とすれば、そこでの「信仰」とはあくまでも私たち人間が努力して獲得するものか、あるいは生来の性格によって引き継ぐ人間の才能の一種となってしまいます。そうなると、この信仰は確かに人によって様々に違ってくると言う可能性が生まれてきます。そうなると信仰の強い者もいれば弱い者もいると言うことになりますし、神に褒めていただける信仰の持ち主がいれば、そうでなく「あなたは天国に入るだけの信仰を持っていない」と判断されて、天国の門から追い返されてしまう人もいると言うことになります。
 しかし、聖書は私たちの信仰は神から与えられる賜物であって、自分たちの努力や才能の産物ではなく神から来るものだと教えています。ですから、神が与えてくださる信仰に差別はありません。どんなものであってもイエスを信じていれば、その信仰によって神の義を受けることができるのです。

(2)「それは私のことです」と考える

 しかし、そう言われると皆さんはまたここで新たな疑問を抱くかも知れません。聖書の中でイエスは確かに「信仰の弱い者よ」と人間の信仰の弱さを指摘されているところがあるではないでしょうか。だから、確かに人によってこの信仰の区別、強い人もいれば、弱い人もいると言うことを教えているのではないでしょうか。そう考える人もいると思うのです。
 それでは私たちは聖書の中で語られているこのようなイエスの言葉をどのように理解すべきなのかと言うことになります。一つ確かなのはこのイエスのこれらの言葉は私たちの信仰を皆、横並びにして、「あなたの信仰は大きい」、「あなたの信仰は小さい」と比べているのではないと言うことです。ですから、もし聖書の中でイエスがそこに登場する人に「信仰の弱い者よ」、あるいは「あなたには信仰がないのか」と言われたならば、私たちは「ああ、私はここでイエスに信仰の問題を指摘されている人とは違う」、「この人にくらべて、自分の信仰は確かだ。自分の信仰はイエスに褒めていただけるように強い」と考えてはいけないのです。
 もし、聖書の中でイエスが私たちの信仰について問題にしているところがあったとしたら、それを私たちはそのまま私たちのことであると考え受け入れる必要があります。ここで「信仰が弱い」とイエスが言われているのはわたし自身のことです。ここで「信仰がないのか」と言われているのはわたしのことですと読むべきなのです。このようにして私たちがこのイエスの言葉を自分に語られた言葉として読むなら、私たちのために進んで十字架にかかり、私たちの信仰の弱さのために犠牲を払って、とりなしてくださったイエスの御業を正しく理解することができるのです。
 聖書が人間の問題を指摘するとき、その問題と私は関係がない、私はこのままで十分に神に褒めていただける条件を満たしていると考えたなら、私たちは聖書の証しするキリストの福音が提供してくださる恵みの数々を受けることはできません。むしろ、この問題は私のことです。私こそ、「信仰の弱い者よ」と言われている張本人ですと認めて、その言葉を受け入れるときにキリストの恵みは私たちにさらに豊かに与えられることを知るべきなのです。
 パウロがここまでユダヤ人の罪を激しく指摘したのは、彼らがキリストの福音が提供する神の義にあずかることができるようにするためでした。同じように、私たちが信仰を私たちの側の持つ人間的な何らかの条件と考えるなら、私たちもまた律法主義のユダヤ人の誤りに戻ってしまう可能性があります。神は救いにおいて人間の側の条件を一切問われることはありません。むしろ自分の救いのためには何もできない私たちのために、「律法とは関係なく」、キリストを通して神の義を私たちに提供されているのです。そして神はその義を私たちに分け与えるために、私たちに信仰をも与えてくださるのです。
 私たちはこのすばらしい福音の内容を続けてローマの信徒への手紙から学び、キリストの福音の素晴らしさを再認識する信仰生活を送りたいと思います。

【祈祷】
自分の力では律法を実現することができず。神の厳しい裁きを受けて、滅ぼされることで神の義を全うする者とされていた私たちに救い主イエス・キリストを遣わして下さった恵みを感謝します。あなたは私たちの受けるべき裁きをキリストの上に代わって下されることで、新たに神の義を私たちが受ける道を開いてくださいました。今、私たちはあなたから救い主イエスを信じる信仰をもいただき、その信仰を通して神の義を得る事が可能となりました。このキリストの救いには何の差別もなく、すべてキリストを信じる者が無条件であずかることができます。このことを覚え、あなたから与えられた信仰をあたかも自分の能力のように誇ることも卑下することもなく、むしろその信仰を通して私たちがキリストの関係を深めていくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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