礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2014年3月16日  「主イエスの弟子とは」

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章31〜35節
31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

1.愛の掟
(1)イエスとどこで会うことができるのか

 今日の伝道礼拝では、3月の月間聖句からお話をしたいと思います。今月の聖句はヨハネによる福音書13章35節の言葉です。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 この言葉はイエスが弟子たちに語られたものです。そしてこの言葉の直前の34節には「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言う言葉が記されています。通常、このイエスの言葉は「愛の掟」、「愛の戒め」と言う名で知られています。ただ、このイエスの語る「愛の掟」は不特定多数に語られている一般的な教えと言うよりも、今日の35節の言葉で明らかなようにイエスに従う弟子たちに語られた特別な戒めであることが分かります。つまり、この言葉はイエスを主と信じ、そのイエスに従って生きようとする私たちすべての信仰者に語られている言葉だと考えてよいのです。今日はこのイエスの言葉を手さぐりにしながら、イエスの弟子として生きようとする私たち信仰者にこの「愛の掟」がどのような意味で大切であるかについて学んでみたいと思います。
 まず、この言葉を正しく理解するためには、この言葉をイエスがどのような背景の下で語られたのか、どのような理由でこの言葉をこの時、自分の弟子たちに語られたのかを理解する必要があると言えます。この言葉が含まれている段落の最初には次のような言葉が記されています。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」(31節)。そしてこの言葉の前の段落はあのレオナルド・ダビンチが描いた『最後の晩餐』で有名になった物語が記されています。イエスが弟子たちと共にした晩餐の席上で、イエスはイスカリオテのユダの裏切りを明らかにされ、そのユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(27節)と語り掛けます。するとユダはこの晩餐の部屋からすぐに外に出て、夜の暗闇の中へと消えていくのです。そしてこのことによって、イエスが十字架につけて殺されると言う受難の出来事が決定的なものとなるのです。
 イエスはこの晩餐の席で弟子たちに自分が受けようとされる十字架の出来事がどのような意味をもつのかを明らかにしています。

「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31節)。

 イエスの十字架の死は無意味なものでは決してありません。ましてや、イエスの御業と生涯が失敗に終わってしまったことを表す出来事でもありません。むしろ、イエスの十字架は神の栄光を豊かに表すものなのです。神の栄光はイエスの十字架の死によって豊かに表わされ、イエスもまた自分に与えられた使命を全うすることでその栄光を父なる神からいただくことができると語っておられるのです。
 ところが、ここで一つの問題が残されます。確かにイエスの十字架の死は神の栄光のためではありますが、同時にこの出来事はイエスと弟子たちとの関係に決定的な影響を与えることになるからです。なぜなら、イエスの十字架の死の意味をまだ理解していない弟子たちにとって、その死は大きな不安と恐怖を与えるものでしかないからです。イエスが死んでしまえば、弟子たちは「主イエスがいなくなってしまった。自分たちはこれからどうしたらよいのだろうか」と悩み苦しむことになります。実は今日、私たちが学ぶイエスの残された「愛の掟」は、このような悩みと不安の中にいる弟子たちを慰め、励ますものとして彼らに与えられているのです。イエスの十字架の死の後、「いったい、主イエスはどこに行ってしまったのだろうか。私たちはどうしたら主イエスと会うことができるのだろうか」と思い悩む弟子たちに主イエスは次のように語るのです。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。

 この言葉をこのような事情を通して考える時、「あなたが互いに愛し合うならば、私があなたたちと共にいることが分かる。あなたがたが愛し合う、その場所にわたしも共に生きていることがわかる」とイエスが教えておられると考えることができるのです。

(2)新しい戒め

 もちろん、「互いに愛し合いなさい」と言う教えは決して珍しいものではありません。キリスト教以外の宗教でも同様な教えを語ることがありますし、偉人と呼ばれる人々の中でこの教えを実践して生きた人たちも多く存在します。さらに、この愛の教えは旧約聖書の中でも教えられてきたものです。しかし、イエスはこの教えを弟子たちに語るときに「あなたがたに新しい掟を与える」と語っておられるのです。つまり、この教えは今まで誰も知ることがなかった「新しい掟」であるとイエスは語っているのです。それではなぜ、この私たちが聞きなれているはずの「愛の掟」は「新しい掟」だと言われているのでしょうか。そのヒントは次に続けられているイエスの言葉に隠されています。「わたしがあなたがたを愛したように…」とイエスは語られました。ですから、この「愛の掟」が新しいのは、他の人々が語る愛の掟や勧めとは違って、この掟が「イエスの愛」に基づいているからです。
 「わたしがあなたがたを愛したように…」。確かにイエスはご自分の弟子たちを愛されました。また今も、私たちを愛してくださっています。そしてその愛が具体的に示されたことこそが、イエスの十字架の出来事であると言えるのです。なぜなら神は御子イエス・キリストをこの地上に遣わし、十字架の出来事を通して、私たちに御子の命を与えることで、私たちを愛されていると言う証しを示してくださったからです(ヨハネ3章16節)。イエスはご自身の命を十字架の上で献さげられることを通して、私たちへの愛を豊かに示してくださったのです。
 この「愛の掟」はこのイエスの愛に根拠を置いています。だから、それは今まで誰も知ることができなかった「新しい掟」であると言えますし、この愛を豊かに示された弟子たちに与えられている特別な掟であるとも言えるのです。

2.私たちの期待に応えることが本当の愛ではない

 さて、このイエスの愛の掟は、このような意味で今日、イエスの弟子とされている私たち信仰者に与えられている掟であると言えますし、イエスの弟子である信仰者たちが集まる共同体としての教会、この「イエスの体」と言われている教会に与えられていると考えてよいでしょう。それはちょうど人間の体が血液を循環させることで命を保つころができるように、この愛の掟こそ、私たちの教会を生かす血液のような重要な働きをしているとも言えるのです。
 さて、そう考えるなら私たちは「実際の私たちの教会には、この愛の掟が実現しているのだろうか。ちゃんとこの血液が豊かに循環しているのだろうか」と言う思いを抱きます。実際に、多くの人々は現実の教会はこのイエスの愛の掟からは程遠いレベルでしかその愛を実現させていないと批判します。事実、私たちの教会からも「この教会には愛がない」と捨て台詞を残しながら、教会の交わりから去って行ってしまった人たちがいました。言葉を変えていえば、彼らの批判は「この教会にはイエスの本当の弟子は一人もいない」と言う大変厳し批判とも受ける取ることができるのです。
 しかし、私たちはこのような教会に向けられた批判に対して、二つのことを心に留める必要があると思います。一つはこのような批判を教会に投げかける人は、不思議なことにその批判の対象の中に自分が含まれていると言うことを忘れてしまう傾向があると言うことです。「自分はこの教会に集まる兄弟姉妹から愛されていない」と感じる人々は、その自分の考えによって教会の兄弟姉妹を裁き、その兄弟姉妹を憎み、愛することができないでいると言う現実を忘れてしまっているのです。つまり結局、実際にこの「愛の掟」に従っていないのは自分であることを忘れてしまって、一方的に他人を批判しているのです。ですからもし私たちはこのような不満を心に抱くときには、はたして自分自身が本当にこの「愛の掟」に生きているのかどうかをまず反省してみる必要があると言えるのです。
 そして第二の点は、この「愛の掟」の根拠であるイエスの愛は、私たちの期待通りの事柄をすべて受け入れてくれる愛ではないと言うことを理解する必要があります。イエスに従った弟子たちは、イエスがこの世の王となり、自分たちの生活を助けること、また自分たちにも高い地位を与えてくれることを期待していました。しかし、イエスはこのようは弟子たちの期待に一切応えることなく、黙って十字架にかかりその命を捧げられました。なぜなら、イエスの愛は罪の支配下にある、私たちをそこから救い出し、私たちを真の命へと導く愛だからです。このように考えるならこの「愛の掟」の中に語られる愛は、相手の期待に応えることとは違い、むしろその人を真の命に導く愛であると言えます。もし、相手が滅びへと向かうような道をたどっているとしたら、その過ちを厳しく指摘し、イエスの福音に導くことも愛の行為であると言えるのではないでしょうか。私たちはこのような意味で、教会に求められる愛は、世が追い求めている愛とは根本的に違うことを覚える必要があります。

3.私たちの力で実現できる愛ではない
(1)挫折に終わる私たちの愛

 さて、私たちはこの「愛の掟」について教会に向けられた批判に対して正しく対処することは大切です。しかし同時に、私たち自身もまた、このイエスの「愛の掟」に真実に従っているのかどうかを考えて見ることも大切であると言えるのです。つまり、この「愛の掟」についての批判は自分以外の誰かに向けられるべきではなく、キリストに従おうとして生きている私たち信仰者がそれぞれ、自らに問うべき問題であると言えるのです。
 私たちは本当にこのイエスの掟に従って生きているのでしょうか。自らの命を十字架で捨てられたイエスの愛に倣って、私たちもまたその愛の生活を実践しようとしているのでしょうか。それを自らに問うとき、私たちの中の誰も「私はこのイエスの掟通りに生きています」と胸を張って言える人はいないのではないでしょうか。むしろ、私たちは自分の信仰生活がこのイエスの教える「愛の掟」からはるかに遠いところにあると言うことを認めざるを得ません。
 確かに、頭ではこのイエスの「愛の掟」を私たちは理解してはいます。そして、何とかその掟に従って生きようと努力します。しかし、そのたびに私たちは自分の愛のなさを痛感せざるを得なくなります。「どうしてこうなのだろうか」と思わされます。この「愛の掟」を実際に生きようとするときに、私たちが痛切に感じるのは無力感でしかありません。しかし、私たちでも注意する必要があります。なぜなら私たちがこのような自分の愛のなさに嘆くとき、私たちが忘れてしまっていることがあるからです。それは私たちがこのイエスの「愛の掟」を自分の力で実現しようとしていると言うことです。イエスの愛に基づくのではなく、自分の努力でこの愛を実現しよつとしているのです。そして、もしその努力がイエスの愛に基づいていなければ、必ず私たちは挫折せざるを得ないのです。

(2)イエスが私たちと共におられる

 イエスによってこの「愛の掟」が弟子たちに語られたすぐ後に、福音書は大変興味深いイエスとその弟子ペトロとの会話を記録しています。ペトロはこのときご自分の受難を預言するイエスに対して「あなたのためなら命を捨てます」(37節)と言う自分の固い決意を語っています。するとイエスはこのペトロに対して「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(38節)と言う預言を語られたのです。ペトロがいくら固く決意しても、彼の力ではイエスが行くところに従うことはできないと言われたのです。このペトロと同じように私たちは自分の力では誰もイエスに倣って生きることはできないのです。そしてペトロはこの後、イエスのこの言葉の通り、イエスを裏切ってしまいます。しかし、この福音書はこのときのイエスとペトロの会話をこのままで終わらせてはいません。ヨハネはこの福音書の最後の部分でこの会話の続きを紹介しています(21章15〜19節)。
 イエスはこの部分で、イエスを三度も「知らない」と否認してしまったペトロに対して、同じく三度「わたしを愛しているか」と問うています。聖書はイエスに同じ質問を三度も向けられたペトロが「悲しくなった」と説明しています(17節)。おそらくペトロの心には「自分はイエスの十字架を前にして逃げ出してしまった」と言う後悔と挫折感があったのだと思います。だから、イエスが三度、同じ質問をするのはその自分を責めているのではないかとも思えたのではないでしょうか。だからペトロはその質問に「主よ、あなたは何もかもご存知です」としか答えることができなかったのです。
 私たち確かに無力な存在です。自分の力ではイエスの「愛の掟」に従うことができない者たちなのです。しかしイエスはその私たちをよくご存じなのです。このとき、イエスはそのペトロを一切責めることはありませんでした。そして彼に改めて「わたしの羊を飼いなさい」と語って、自分に代わって教会の兄弟姉妹を導くと言う大切な使命を与えられているのです。
 イエスは確かに私たちに「愛の掟」を守るようにと命じられました。しかし、そのイエスは同時に、私たちのすべてをご存知の方なのです。ですから、イエスは私たちにこの掟を与えるだけではなく、私たちと共に生きて、私たちがこの「愛の掟」に生きることができるようにと助けてくださるのです。
 私たちはイエスが「どこにいけばイエスにお会いできるのですか」と言う弟子たちの疑問に答えて、この「愛の掟」を彼らに与えられたと言うことを最初に申しあげました。つまり、私たちがこの「愛の掟」に答えて生きようとするとき、私たちは確かに私たちを助け、導いてくださっているイエスにそこで出会うことができるのです。また「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスは教えられています。私たちが私たちの力や努力だけでこの「愛の掟」を実現させようとしているなら、それを見る周りの人たちは「あの人たちは頑張っているな」と感じても、「あの人たちは確かにイエスの弟子だ」とは理解することができません。しかし、愛においても無力な私たちがこのイエスの「愛の掟」に従おうとしているならば、確かに人々は私たちを動かし、導いてくださる方イエスがおられることを知り、私たちがそのイエスの弟子であることを理解することができるのです。そのような意味で、このイエスの「愛の掟」は私たちの信仰生活にとって大切であると言うことを覚えたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。私たちの主イエスは私たちのことをすべてご存知の上で、この愛の掟を私たちに与えてくださいました。私たちは自らの力ではとてもこの掟に答えることのできないものたちです。どうか、私たちがこの掟と共に私たちと共にいてくださる主イエスを覚えることができるようにしてください。そして、私たちの信仰の共同体の営みを通して、あなたが私たちと共に生きてくださっていることを皆に証しすることができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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