1.神の前にすべての人は平等
(1)異邦人の上にも救いは実現する
今日もパウロの記したローマの信徒への手紙から学びます。この手紙は前回、学びました3章21〜22節のところから段落が変わり新しいテーマを取り扱っています。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。
それまで人間の罪について論じていたこの手紙はここからキリストを信じる者に与えられる義、つまり「信仰義認」の教理を説明し始めているのです。そして今日の聖書の箇所は直前の「そこには何の差別もありません」(22節)と語られた言葉を説明する形で文章が続けられています。
ご存知のように聖書を書き記し、またそれを伝えてきたユダヤ人たちは、自分たちと異邦人との間にはっきりとした区別を引いていました。つまり、彼らユダヤ人たちとっては神の救いの対象には、はっきりとした「差別がある」と考えていたのです。確かにキリスト教会が誕生する以前にも、異邦人が聖書を読み、神を信じて改宗するケースはあったようです。しかし、その場合、異邦人が神の救いを受けるためには割礼を受けて、まずユダヤ人になる必要があったのです。ユダヤ人たちは異邦人がそのままで救いわれる可能性は全くないと信じられていたからです。
この点に関してはキリスト教会が誕生した当時も、同様の問題を巡って教会内部に混乱があったことが新約聖書の記録でも分かります。新たに誕生したキリスト教会では使徒たちの熱心な働きによって異邦人がイエス・キリストを信じると言う出来事が起こりました。異邦人がイエス・キリストを信じたと言うことはそこにはっきりと聖霊の神の働きかけがあったと言うことを表しています。その出来事が当時まだ、ユダヤ人だけで構成されていたエルサレム教会に報告されました。すると教会の内部でそれを許した使徒たちへ非難の声が上がったと言うのです(使徒11章1〜18節)。それほどまでに当時のユダヤ人は異邦人が救われることは決してないと考えていたのです。しかし聖霊なる神は、救われる対象をユダヤ人に限定するのではなく、異邦人の上にも同様に働かれることで当時の教会の人々に神の救いの対象にユダヤ人も異邦人も差別がないことを明らかにされたのです。
(2)神の前にすべての人々は平等
ここでパウロはこの信仰による義を受けることで救われる人には何の差別もないことを説明しています。この間、李朝末期の朝鮮を舞台にした韓国ドラマをテレビで見る機会がありました。このドラマの中にはその当時に起こったカトリック教徒への弾圧の歴史が取り上げられていました(丙寅教獄1866年)。当時の朝鮮では中国から密かに入国する宣教師たちによってたくさんのキリスト者が生まれていました。その活動を見過ごすことができないと考えた当時の朝鮮の支配者たちは、キリスト教を許しておいてはいけない理由をこう説明ていました。「朝鮮には王や貴族を中心として昔から厳格に守られている階級制度がある。しかし、キリスト教は「人は神の前にすべて平等だ」と言っている。もしこのような教えを野放しすれば、朝鮮の階級制度は破壊され、朝鮮自身が滅んでしまうかもしれない」と言うのです。
パウロは神の救いにおいては人間の間には何の差別がないことを語りましたが、当時の社会制度を否定することはありませんでした。奴隷は奴隷のままで、貴族は貴族のままでキリストを信じることによって救われると教えたのです。つまりパウロの教えには既存の社会制度を否定する見解はないのですが、「平等」と言う言葉、「差別がない」と言う言葉は厳しい階級制度の中で生きる人々には理解しがたいものであったと言えるのです。
パウロはここで神が人間を取り扱われる際に差別がない理由を二つ述べています。その一つは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなってい(る)」(23節)と言う点です。もちろんこの前提にはすべての人間が神によって創造された者であると言う聖書の教えがあります。そしてこの神によって造られた最初の人間が罪を犯すことによって、その子孫として生まれたすべての人々が「罪を犯した」罪人であって、神の栄光を表すことができなくなっていると言う点ではユダヤ人も異邦人も差別なく全く同じであると言うのです。
2.キリストの贖いの業を通して義とされる
(2)神の恵み、無償の義
さらにパウロは第二にそのような罪人はただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、「神の恵みにより無償で義とされるのです」ですと語ることで、ユダヤ人と異邦人の間に差別がないと教えます。罪を犯した人間は誰も、キリストによる贖いの業を通してしか義とされることはできません。そして神はすべての人々に差別なくこのキリストによる義を提供されていると言うのです。ここでパウロは「神の恵みにより無償で義とされる」と言っています。神の恵みとは神からの贈り物であると言う意味です。この贈り物は無償でなければ贈り物とは言えません。それにも関わらずこの神からの贈り物に、さらに「無償」と言う言葉を重ねてパウロが使ったことは重要です。
前回にも触れましたように、人間は神の救いを受けるために自分の側にも何らかの条件が求められていると考える過ちを犯しがちです。しかしそれではこの神から恵みは無償ではなく、私たちが何かの代価を払うことによって得られる「有償」のものとなり、恵みではなくなってしまいます。しかし、人間が神に自分の救いのために代価を払うことは不可能なのです。なぜなら人間は罪を犯すことによって神の栄光を表すことができない存在になってしまったのです。ですから人間が神への支払いをすることは不可能なのです。だからこそ、キリストによって与えられる義は神の無償の恵みと強調されているのです。
(2)キリストの贖いによる高価な恵み
しかし、このキリストによって与えられる義は私たちの側から見れば「無償」ですが、神の側から見ればそうではありません。それは高価な値、御子イエス・キリストの命を引き換えにして得られものです。私たちは無料と聞くと、「それはあまり高価なしろものではない」と考えがちです。しかし神が私たちに与えてくださる恵みはそうではありません。それは私たちにはふさわしくないと思えるような高価な恵みなのです。しかし、だからこそ、神がこの恵みを私たちに与えてくださることを通して、私たちを神がどんなに深く愛して、また大切にしてくださっているかも分かると言えるのです。
3.キリストによって示された義
(1)贖いの供え物イエス
それではキリストはこの義を私たちに与えるために、何をされたのでしょうか。パウロは次に「罪を償う供え物」と言う言葉でそれを説明しています。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」。
聖書では「血」は「命」を表す言葉として用いられます。つまりここではキリストの命が罪を償う供え物とされたと言うことを説明しています。キリストは十字架にかかり、私たちのためにその命を献げることで、私たちの罪をすべて償ってくださったのです。かつてバプテスマのヨハネはこのイエス・キリストを指して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(ヨハネ1章29節)と預言しました。ユダヤの人々は長い間、旧約聖書の教えの通りに自分たちの罪を償うために神殿で動物犠牲を献げてきました。私たちキリスト教会の理解では旧約聖書の時代に神殿で献げられた動物犠牲はイエス・キリストを指し示す「ひな形」であると考えられています。つまり、イエス・キリストを知らなかった旧約の民はこの動物犠牲を神殿で献げることによってイエス・キリストへの信仰を告白し、その贖いの業にあずかることができたと考えるのです。ですから、すでに罪を償う供え物であるイエス・キリストを知らされた私たち新約聖書の民は、もはや神殿で動物犠牲を献げる必要は全くないのです。そしてこのような意味で旧約聖書の民も、また新約聖書の民である私たちも、このイエスを信じることで罪が償われ、神の前で義とされることでは差別がなく、全く同じだと言えるのです。
(2)神の忍耐
パウロはここでこの罪を償う供え物としてのキリストの贖いの業を説明した後、「神の忍耐」と言う言葉を語ります。なぜなら人間は罪を犯すことによって、神の栄光を表すことができなくなってしまいました。ところが、神によって造られた本来の人間はこの神の栄光を表すために創造されたとも言えるのです。旧約聖書の詩編19編ではこの神と被造物との関係が美しい言葉で表現されています。
「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」(2〜5節)。
人間は神の栄光を表す被造物の中でも指導的な役割を担うために神によって創造されました。だから、その人間が罪を犯すことで、被造物はこの神の栄光を正しく表せなくなってしまったと言えるのです。それなら神は、ご自身の栄光のためにこの人間を滅ぼしてしまうこともできるはずでした。しかし、神は人間を滅ぼすことをされずに、イエス・キリストをこの地上に遣わされたのです。パウロはこの出来事が神にとってどのような意味を持つのかを次のように説明します。
「それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(25節後半〜26節)。
神はキリストを私たちのために遣わして、その御業を通して私たちを義とされるのです。そして同時にこの御業を通して神はご自分の正しさをはっきりと表されたと言うのです。神は今まで罪を犯した人間を滅ぼすことなく、その罪を見逃されてきました。それは人間の犯した罪をあいまいに取り扱ったのではなく、むしろイエス・キリストの十字架の死によってその罪の重大さを明らかにし、同時にその贖いの御業を通して私たちをその罪から救い出すためだったのです。
神の栄光はこのようにして私たちに人間を滅ぼすことではなく、救い出すことで表されたとパウロは語ります。聖書は私たちの罪を厳しく告発します。また聖霊も私たちの心に働いて、自分たちがどんなに罪深い存在であるかを私たち自身に知らせるのです。しかし、その意味は私たちを苦しめるためではなく、むしろ、私たちがイエス・キリストの贖いの御業によって義とされたことがどんなに素晴らしいことなのかを教えるためです。
4.神の栄光を表す人生
パウロが言うように私たちはかつて罪人として神の栄光を表すことができない者でした。しかし今はキリストによって救いを受け、神の栄光を表すことができる者とされたのです。それは神によって造られた者としてその本来の使命を取り戻すことができたと言うことにもなります。だから私たちの教会の信仰問答であるウエストミンスター小教理問答書は私たち信仰者の人生の目的を次のように教えているのです。
「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」(第1問)。
通常、私たちは「栄光」などと言う言葉を聞くと、それは私たちの生活とは縁遠い言葉のように考えがちです。しかし、本来私たち人間はこの神の栄光を表すために創造されたのですから、この言葉は私たちに人間とって最も身近なことを語っていると言ってもよいのです。なによりもキリストの救いの御業は私たちがこの「栄光」を表すことができるようになるために実現したからです。
それではこの栄光を私たちは自分の人生でどのように表すことができるのでしょうか。それはこの言葉に続けて信仰問答が「永遠に神を喜ぶこと」と語っているところから理解することができます。私たちが自分の人生を喜んで生きること、「本当に自分は生きていてよかった」と言えることが神の栄光を表すと言う行為なのです。なぜなら私たちが自分の人生に不満を覚え、自分の人生を呪うなら、それは同時に自分を造ってくださった神を呪うことになるからです。
私たちが自分の人生を満足し、喜んで生きるなら、同時に神の素晴らしさを表すこと、栄光を表すことになるのです。キリストの命によって実現した救いは私たちが、そのキリストとキリストを遣わしてくださった神の業を喜び、自分の人生を満足して生きるために実現したことを私たちは今日のみ言葉を通しても覚えたいと思います。
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