礼拝説教 桜井良一牧師   本文の転載・リンクをご希望の方は教会迄ご連絡ください。
2014年3月30日  「信仰によって律法を確立する」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章27〜31節
27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

1.人の誇り
(1)繰り返されるパウロの論述

 今日も続けてパウロの記したローマの信徒への手紙から学びます。前回の学びでパウロはキリストを信じて受けることのできる神の義の問題を取り上げながら、この救いについてはユダヤ人も異邦人も全く同じであり、この点において神の人間に対する取り扱い方について全く差別がないと言うところを学びました。神はユダヤ人には割礼を与え、またモーセの律法を与えることで、彼らを救う方法を示し、もう一方で異邦人にはキリストを信じる信仰によって救われると言う別々の方法を示されたのではありません。つまり割礼を受け、モーセの律法を守って生きているユダヤ人も、それを知らない異邦人たちも皆、キリストを信じる信仰によって義とされ、神の救いにあずかると言う点では全く同じだと言えるのです。
 そうなると神はなぜ、旧約時代の民にキリストを信じる信仰による義と方法を最初からお示しにならず、わざわざアブラハムの子孫たちに割礼と言う儀式を与え、またモーセを通して律法を与えられたのかと言う疑問が生じます。実はこのことについてパウロは次の4章以下で詳細に論じ始めています。そこで今日の部分はいままでのパウロの主張を受けて、次の論述につなげるための部分であると考えることができます。
 イギリスの有名な説教家でD.M.ロイドジョーンズ(1899〜1981)と言う人がいます。彼の残したローマの信徒への手紙の講解説教は大変有名で最近、日本語にも訳されて刊行されるようになりました。この説教集はローマの信徒への手紙の3章20節から始まっているので、私も自分の説教を準備するために最近はこのロイドジョーンズの説教集にも目を通すようになりました。彼の説教は大変読み応えのある大冊で、ここでその内容を簡単に紹介することは不可能です。今日の箇所に該当する部分では彼はパウロの論述が同じ問題を巡ってくどいほど繰り返されているのはなぜかと言う問題に触れています。
 確かに今日の部分でもパウロは「人の誇り」と言う問題を取り上げています。私たちが今まで学んできたようにパウロはユダヤ人がもっている誇り、「神を知り、その律法を教えられて、それを厳格守り、割礼を受けている」と言う彼らの誇りに対して容赦なく攻撃を加え、それは罪人を裁かれる神の正しい審判の前に何の役にも立たないことを語って来ました。そのパウロが、またもとに戻るかのように、ここでも「人の誇り」の問題を取り上げています。どうしてパウロはここまでして、この「人の誇り」の問題にこだわるのでしょうか。
 ロイドジョーンズはこの問題を巡っておこる人間の誤りの深刻さが、パウロがこの問題を繰り返し取り上げる理由の一つと考えています。さらに彼はもう一つパウロがこの手紙を書くにあたって彼には想定する論争の相手があり、その論争相手を納得するために文章が複雑になり、くどほどに説明が続けられていると言っています。確かに私たちが改革派教会の大切な遺産と考えている宗教改革者カルヴァンの記した「キリスト教綱要」も最初に発行されたものは大変、簡単で小さな書物であったと言います。ところが、カルヴァンがこのキリスト教綱要を出版すると彼の論敵たちがその著作にたくさんの批判を加えました。そこでカルヴァンは彼らに対して自説を弁明するためにその著作を何度も書き換え、最後には私たちの知っているようなたいへん分厚い書物となったと言うのです。パウロがこのローマの信徒への手紙を何度も書き換えたとは考えられませんが、この手紙を書くにあたって、当然この手紙の文章に批判の声を上げる人々がいることとを想定することができました。そこでパウロは彼らの主張を予想し、あらかじめその反論としこの手紙に詳しい説明を繰り返し記したと考えることができるのです。

(2)人の誇り

 さて、今日の聖書の箇所でパウロは次のように語り始めています。

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)。

 ここで「人の誇り」と訳されていますが原文では定冠詞のつけられた「誇り」つまり「その誇り」と言うような特定の「誇り」を示す単語が使われています。そうなるとパウロはここでどんな誇りを指して語っているのだろうかと言うことになります。そこで今まで文章の流れで当然考えられるのは、パウロはここでユダヤ人たちが持っていた「誇り」を取り上げていると考えることができます。実際、ユダヤ人たちがキリストの福音を受け入れる際に最も障害となったのは彼らの持つこの「誇り」でした。ですからパウロのキリストの福音を伝道するためにこのユダヤ人たちが持っていた「誇り」と戦わなければならなかったのです。
 実はこの手紙を記したパウロ自身もこのユダヤ人のもっていた誇りの問題から全く無関係ではなかったことが彼の記した他の手紙の内容からも分かります。たとえばパウロが記したフィリピの信徒への手紙3章4節以下ではこのように語られています。

「…とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(4〜6節)。

 この文章からパウロはかつてユダヤ人としてその誇りを自分の人生で第一と考え、その誇りの上にすべての望みをおいて生きて来たことが分かります。しかし、そのパウロは続けてこう語っています。 

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(7〜8節)。

 パウロは今や、キリストを信じる信仰によって、自分が今まで誇りとしていたものが何の価値もないばかりか、そのようなものに望みを置いて生きていたこと自体が自分にとって「損失」であったと考えていると言うのです。それではユダヤ人たちの「誇り」に生きることがどうしてパウロにとって意味がなく、また損失だとさえ言えるほどになったのでしょうか。そのことについてパウロはこのローマの信徒への手紙を通して詳しく語ろうとしていると言えるのです。
 ただ、この同じ聖書箇所を解説している榊原康夫牧師は「その誇り」をこの新共同訳の翻訳通り、拡大して「人の誇り」と考えてよいと言っています。つまり、ここで取り上げられている「誇り」の問題はユダヤ人だけに限定されることではなく、それ以外の人々のことを語っていると言うのです。「人を誇る」と言う問題は誰もが陥りやすい誤りであると言えるのです。私たちは自分たちが持っている誤った「誇り」がその信仰生活にどのような影響を与えるのか、その点を注意しながらこのパウロの言葉に耳を傾けて見たいと思うのです。

2.信仰は律法と同じなのか
(1)神は要求のレベルを下げられたのか

 パウロは私たちの「誇り」がなぜ取り除かれてしまうのか説明し、それは「信仰の法則」によるとここで語っています。キリストを信じる信仰は私たちが恵みによって、無償で受け取ることができるものです。そしてこの恵みをいただけるなら、私たちにはそれ以上、自分たちの救いの問題で必要になるものは何一つありません。だから私たちの「誇り」は当然取り除かれるのです。もはや、その誇りを大切にしたり、またその誇りにしがみついて生きることは無用なのですから。
 実この「信仰の法則」についてロイドジョーンズはここで大変興味深い話を話題に取り上げています。それはこの部分で訳されている「信仰の法則」、あるいは「行いの法則」と言われるときの「法則」と言う単語がギリシャ語では「ノモス」と言う言葉で記されているからです。そして、そのノモスが「律法」とも訳せることからこんな解釈をする人々がいると彼は語るのです。
 つまり、人間にはモーセの律法、「行い律法」を実行できる能力はないのですから、その律法を神が人間が実現可能なレベルまで下げてくださる必要があります。そしてそのレベルが下げられた律法が「信仰の律法」だと説明するのです。ロイドジョーズはこのような聖書の解釈をパウロの主張と全く逆行する誤りだと激しく批判しています。なぜなら、信仰をレベルが下げられたとしても、人間の力で成し遂げるべき律法と同じ性質のものだと考えるなら、律法と信仰の違いを詳しく主張するパウロのこの手紙の内容とつじつまが合わなくなってしまうからです。
 もし信仰がレベルが下げられたとしても私たちの持つ力に依存するものであったら、その信仰によって受けるキリストの義は、神の恵みではなく、私たちが信仰と言う代価を支払って受けるものになってしまいます。私たちの周りではここでロイドジョーンズが指摘するような「行いの律法」と「信仰の律法」と言うような説明をしたり、教えたりする人はいないかもしれません。しかし、そのような主張は明確にしていなくても、いつのまにか信仰は自分の力によるもの、つまり人間の側のなんらかの努力にかかっていると勘違いする人がいるのではないでしょうか。

(2)「誇り」はその人の関心の向けられるところに

 榊原先生のこの部分の説教ではパウロが取り上げている「人の誇り」について次のような問題を指摘しています。私たちはいんたい毎日の信仰生活の中で何を誇っているのでしょうか。それが分かるのはその人の関心がいつもどこに向けられているかでわかる榊原先生は述べています。たとえば、私たちの関心が信仰者として、いつも神に向けられているとしたら、その人は「人を誇る」のではなく「神を誇って」生きていると言うことができます。しかし、それとは逆にその人の関心がいつも自分に向けられているとしたならば、その人は決して神を誇っているのではなく、自分を誇りにして生きていると判断できるのです。
 私たちは自分の信仰生活の中で自分の信仰を見つめてときには時には有頂天なり、またその反対に時にはがっかりしてしまいます。そしてもし私たちがこのことを繰り返しているとしたら、私たちの誇りは自分自身に向けられています。私たちの持つ信仰は神から来るものではなく、自分の能力によって生み出されたものになるのです。
 たしかに私たちの信仰生活は決して問題も悩みも起こらない無風状態のようなものではありません。私たちはたびたび激しい試練に出会い、数々の過ちを犯してしまって気落ちすることも度々あるのです。しかし、もしそこで私たちが「やっぱり自分の信仰はだめだ」と結論づけてそこで終わってしまったら、それは神を誇るのではなく人を誇る過ちを犯していると言えるのです。私たちはむしろ人を誇るのではなく、神を誇るべきです。そう考えるならば、私たちは自分に向けられている目を神に向けな直す必要があります。確かに私たちは自分の信仰の弱さを度々思い知らされます。しかし、私たちはそのときこそ私たちの関心の目を神に向けるべきなのです。この私のために神は何をしてくださったのでしょうか。御子イエス・キリストを私たちのために十字架にかけて、私を贖ってくださったのです。そしてこの弱い私を助けるために、イエス・キリストはいつも天から聖霊を遣わして私たちを導いてくださるのです。私たちの関心をいつも、神に向け、神の私たちに対する御業に向けるなら、私たちは人を誇るのではなく、神を誇る者となるのです。
 パウロがここで語る「行いの法則」と「信仰の法則」はその誇りが人に向けられるのか、また神に向けられるのかで全く違っていると言えます。そして信仰の法則に生きる私たちはどんなときにも神を誇り、その神の恵みの御業によって救いの確信と、希望をいただくことができると言えるのです。

3.すべての人の神

 パウロはこの「人の誇り」の問題に続けて次のようなことを語っています。

「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」(29〜30節)。

 パウロはここでユダヤ人たちの信仰の論理を使って逆に彼らの考えを批判しています。聖書によればユダヤ人が信じる神は天地万物を造られた唯一の神です。そうならば、異邦人には別の神がおられると言うことはありえません。そして当然異邦人を救うことができる方もこの唯一の神しかおられないことになります。そしてその唯一の神が人を救う方法も同じになるはずだとパウロは言うのです。
 ユダヤ人と異邦人にそれぞれ違った救いの方法を提供することになれば、神の御業は不公平なものとなってしまいます。ですからユダヤ人も異邦人も信仰によって義とされることについては全く変わることがないのだとパウロは説明しているのです。そして神はユダヤ人だけを救うことができて、異邦人を救うことができないと考えるなら、それは唯一の神を信じる信仰と矛盾することになるのです。
 確かに異邦人は今まで真の神を知ることもせず、頑なな心をもって神に背き続けて来た歴史を持っています。しかし、今や神はイエス・キリストを遣わして救いの御業を実現してくださいました。そしてパウロたちの伝道の結果、この異邦人たちがイエスを信じて救われるという出来事が起こりました。ユダヤ人から見れば異邦人が救われることなど不可能と思えたことでしたが、神は異邦人たちに聖霊を遣わして彼らに信仰を与えることでこのことを可能にしてくださったのです。
 ですから、もし私たちが、「自分たちはキリストの救いにあずかることができたが、あの人はだめだろう」と考えるなら、やはりそれもユダヤ人と同じ過ちを犯していることになると言えるのです。確かに私たちが福音を伝道するときに、私たちの伝道に対して無関心やあるいは激しい抵抗で応答する人たちがいます。そしてそのことが何度も繰り返されれば、私たちは「ああこの人はだめだ」と考えてしまうかもしれません。しかし、そのときに私たちはこの神の御業に関心を向けるべきだと思います。なぜなら私たちも決して、人間の能力で信仰を得たわけではないからです。むしろ私たちも頑なな心をもて福音を拒み続けてきた人間の一人だったはずです。その私たちが今、キリストを信じることができているのは、神の御業が私たちの上に実現したからなのです。そして私たちの上にこの奇跡を行われた神は、他の人の上にも同様の御業を実現してくださると言うことができます。ですから私たちはこの問題でも人に関心を向けるべきではなく、最後まで神に関心を向けるべきなのです。パウロは「誇る者は主を誇れ」(コリント第一1章31節)と語っています。パウロは今日の箇所でも私たちの信仰生活にとって人を誇るのではなく、神を誇ることが大切であることを教えているのです。

【祈祷】
私たちの天の神様。
私たちは人を誇るのではなく、主なるあなたを誇ります。人の持つ可能性に望みを置くのではなく、キリストを死者の中から甦らせてくださったあなたのみ力に希望を置きます。信仰の旅路の中で過ちを犯し、弱さを感じる私たちのために十字架にかけられた主イエスを、そしてその主イエスが天から送ってくださる聖霊を働きに信頼して、私たちが毎日の信仰生活を送ることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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