2017.1.1 説教 「主はすぐ近くにおられます」
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聖書箇所
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フィリピの信徒への手紙4章4〜7節
4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
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説 教 |
1.常に喜びなさい
この一年の最初の礼拝では使徒パウロの記したフィリピの信徒への手紙の中の言葉から学びたいと思います。この手紙の中でパウロは何度も「喜び」という言葉を使っています。そのため、この手紙を「喜びの手紙」と呼ぶ人もいるようです。パウロはこの手紙の中で読者たちにも「喜びなさい」という勧めを繰り返し語っています。たとえば2章18節では「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧めています。パウロはここで自分の抱いている喜びを読者たちと分かち合いたいと考えているようです。また、3章1節でも「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と語っています。ここでは「喜ぶ」ことが読者を安全にすることであり、あらゆる危険から守る方法でもあるとまで語っています。
今日の部分でもパウロは同じように「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と語っています。それではなぜ、パウロは読者に対して「喜びなさい」と勧める必要があったのでしょうか。実はこのパウロの勧めの言葉の直前には次のような言葉が記されています。
「 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」(フィリピ4章2〜3節)。
パウロはここで二人の婦人の名前を挙げて「主において同じ思いを抱きなさい」とわざわざ命じています。この部分だけでこの二人を巡る問題を詳しく知ることはできませんが、いずれにしてもこの二人の間には「同じ思いを抱く」ことができない、争い事が生じていたと推測することができます。そして、この二人の婦人はパウロにとっては「福音のためにわたしともに戦ってくれた」と言われているように、重要な協力者であったこともわかります。人の集まるところでは必ず意見の対立や、争い事が起こります。ですからそれはある意味で仕方がないことだと言えるのかもしれません。しかし、パウロやフィリピの教会の人々にとってこの二人の婦人の問題は決して無視することができない問題であったようです。だからパウロは彼らに「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めたのです。それではパウロがこの二人の婦人に「同じ思い」を抱きなさいと願ったその「同じ思い」とは何でしょうか。おそらくこの「同じ思い」を説明するのが今日のパウロの言葉の箇所であると考えることができるのです。
そう考えて見ると、このパウロの「喜びなさい」という勧めは直接にはこの二人の婦人に語られた言葉であると言えるかもしれません。意見を異にして、相争う二人の婦人が「同じ思いを抱いて」一致するためにパウロは「喜びなさい」と勧めていると考えることができるのです。もちろん、この勧めはこの二人の婦人に限られたものではなく、教会に集い、キリストに仕えながら、福音をすべての人々に伝えようと願っているすべてのキリスト者に語られていると考えることができるのです。
2.喜びの根拠
①キリストにおいて
ところで私たちはパウロが語る「喜びなさい」という勧めを聞いてどういう感想を持つでしょうか。「「喜びなさい」と言われても、何を喜んでいいからわからない」と思われる方もいるかも知れません。そもそも、私たちは他人から「喜びなさい」と命じられたとしても、簡単に喜ぶことができるのでしょうか。そんな疑問さえ私たちの心に浮かんで来るはずです。
通常、私たちは「喜ぶ」というと、自分の身の回りに起こる何らかの祝い事や、幸運な出来事によって「喜び」を感じると考えています。そのような意味で、この「喜び」の感情は私たちの周りに起こる様々な事情に依存していると言えるでしょう。だから、その喜びの多くは一時的であり、すぐに消えてはなくなってしまうようなものなのです。ところがパウロのこの勧めには「常に」という言葉がつけられています。つまり、ここに勧められている「喜び」は消えてはなくなってしまうような一時的なものではなく、私たちの心から決して消えることも、奪われることもない「喜び」について語っているということになります。
それではそんな喜びを私たちはいったいどこから得ることができるのでしょうか。つまり、パウロの勧める喜びの根拠はどこにあると言えるのでしょうか。そこで重要になるのが「主において」という言葉です。この「何々において」という言葉はギリシャ語本文を翻訳するために用いられる表現ですが、日本語の通常の会話ではあまり用いられない表現でもあるとも言えます。辞書で「何々において」を調べてみると、その動作や作業のおこなわれる場所や時間を表すために用いられたり、その出来事に関連する要件を示す言葉として用いられると説明されています。つまり、この喜びはキリストという場所を根拠にしていますし、時間もキリストとともに生きることを通して与えられるものであり、このキリストとの深い関わりあいから生じるものだということを言っていることになります。
ですから、私たちが常に喜ぶことができる根拠はすべてイエス・キリストというお方にあるということをパウロはここで言っていることになります。だからこそ、この喜びは私たちから消えることも、失われることもないと言えるのです。なぜなら、キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのなかお方だからです。
②獄中での賛美
このフィリピの手紙はパウロがローマで囚人生活を送っていたときに記されたものだと考えられています。その事実を示すように、この手紙の冒頭には「監禁されている」(1章7節、13節)という言葉が何度か登場しているからです。パウロのローマでの囚人生活がどのようなものであったか詳しくはわかっていませんが、囚人である以上、その自由は大幅に制限されていたはずです。またパウロはこのとき刑期の決まっていない未決囚のような状況に置かれていましたから、かなりストレスのたまる立場に置かれていたとも考えられます。つまり、人間的に見ればパウロのこのときの状況は非常に不安定で、危ういものであったと推測することができるのです。パウロはこのような状況の中でフィリピの信徒たちに「自分と喜びをともにしてほしい」と願い、「主において喜びなさい」と勧めているのです。
このパウロの喜びについて、時期はこの手紙の書かれたときとは異なりますが、その喜びを理解するために参考となる物語が使徒言行録には残されています。奇しくもこの出来事はこの手紙の受取人であるフィリピの教会の人々の住む、フィリピの町でパウロが実際に体験したこととされています(使徒16章16〜34節)。このときパウロは「占いの霊に取りつかれた女奴隷」とめぐり合い、彼女からその悪霊を追い出す手助けをすることとなりました。おかげで、この女奴隷は悪霊の働きから解放されて、自分自身の心を取り戻すことができたのですが、この女奴隷を通して金儲けをしていた人々はパウロに対して敵対心を抱きます。そして、パウロと彼の協力者であったシラスに言いがかりをつけて、役人に引き渡し、町の牢に閉じ込めてしまいました。このとき、パウロたちは役人たちから衣服をはぎ取られ、何度も鞭を打たれた上で、牢屋に放り込まれると言う仕打ちを受けています。通常の人間であれば不安や恐怖に支配されて、パニックになりかねない状況の中で、聖書はそこで驚くべきことが起こったことを告げています。
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美を歌って神に祈っていると…」(使徒16章25節)。
パウロとシラスは獄中で賛美の声をあげました。神を賛美すること、それは「主において喜ぶ」ことを実践するものであったと言えます。パウロはこのように他人に「喜びなさい」と命じるだけではなく、自らも自分がどのような状況に置かれたとしても「喜ぶ」ことができた人物であったと言えるのです。
3.主は近い
①広いこころ
このパウロの喜びを私たちも分かち合うために、さらに彼の言葉からその喜びの正体を調べてみたいと思います。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とパウロは続けて語っています。この「広いこころ」を「柔和な心」と訳す場合もあるようです。自分の考えにこだわる人は他人の意見を聞くことができません。もちろん、これは人の言葉に左右されてしまうような優柔不断な生き方を勧めているのではないと思います。むしろ、自分のこだわりを捨ててでも、物事を正しく判断し、決断していくことのできる柔軟性を持っていると言うことでしょう。
先日の祈祷会でクリスマスの出来事からイエスの母マリアの示した信仰の姿勢について学ぶことができました。聖書はこのマリアの示した信仰の姿勢を示す特徴的な言葉を残しています。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2章19節)という言葉がそれです。通常、私たちは物事を判断するさいに、自分の抱く勝手な期待や、こだわりを規準にして、そこから目の前に起こる出来事を判断しようとします。その自分のこだわりから物事の善し悪しを勝手に決めてしまうのです。しかし、マリアはむしろ目の前に起こったできごとを心に納め、神の御業の本当の意味がどこにあるかを考えるために、「思い巡らした」と言うのです。そこにマリアの心の柔軟性、広い心が示されていると考えることができます。
②キリストが関わってくださっている人生
マリアがすべての出来事の中に神の御業が表されていることを信じ、その御業を見極めようとしたように、パウロは私たちにも同じようにしなさいと命じているのです。そしてその理由として「主はすぐ近くにおられます」(5節)と言う言葉を語ります。
このパウロの言葉を私たちはどのように考えるべきでしょうか。一つの意見としては「主の再臨のときは近い、そのときはすぐに訪れる」という意味だと考えることができます。私たちが自分の持っている勝手なこだわりから自由になることができる方法は、主の再臨のときを考えることです。主はもうすぐ再臨されます。今私たちがこだわっていることは残された時間のなかでしなければならない本当に大切なことなのでしょうか、それともしなければならないことは他にあるのでしょうか。「主の再臨のときは近い」という言葉は、私たちの人生にとって大切なものが何であるかを判断させる絶好の機会となるのです。
しかし、その一方で、別の人たちはパウロが語る「近さ」を再臨の時を指す「時間的な近さ」より、物理的近さを示す言葉だと主張します。この新共同訳では「主はすぐ近くにおられます」と翻訳されています。つまり主イエスが自分の隣、自分の手の届くところにおられると言っているように訳されています。確かに、イエスは今、神の御座が置かれている天におられますが、その天から私たちに「助け主」である聖霊を送り続けてくださっています。そのような意味で、イエスは私たちに聖霊を遣わすことで近くにいてくださると言ってよいのです。
ただ、キリストが私たちのどんなに近くにおられたとしても、それだけでは十分ではありません。むしろ、この近さは私たちの人生にキリストが聖霊を遣わすことで、どんなに深く関わってくださっているかを表していると考えるべきでしょう。私たちの人生には私たちの思いに反すること、予想もしていなかった出来事も数々起こります。しかし、キリストは深い関心を持って、私たちの人生に関わってくださっておられますし、全ての出来事もそのキリストとの関わりの中で起こっているのです。
4.神の平和
最後にパウロは私たちに「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(6〜7節)と語っています。
自分のこだわりから自由になれない人は、思い煩いからも解放されることがありません。しかし、自分の人生に起こるすべての出来事にイエスが深い関わりを持ってくださっていることを信じる人は、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」ることができはずです。もちろん、求めているものを神に打ち明けても、そこで私たちの思っていた通りの出来事が私たちの人生に実現するという意味ではありません。パウロも自分の病が癒されるようにかつて熱心に神に祈り続けましが、それでも彼の病は癒されることがありませんでした。しかし、その代わり、彼は神の恵みがその病を通して自分に豊かに与えられていることを知ることができたのです(コリント第二12章7〜10節)。このように神の恵みは祈り続ける人にはっきりと示され、その人に勇気と力を与えることができるのです。
「あらゆる人知を超える神の平和」とパウロは続けて語ります。通常、私たちが抱いている平和は悩んでいた問題が解決したときに、訪れるものと考えます。だから、私たちの人生に新たな問題が生じればその平和も簡単に失うれてしまうのです。しかし、「神の平和」はそのような人の考える平和とは違っていると言うのです。だから「あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と語られているのです。この「守る」は敵がいつ攻めてきても、その攻撃から味方を守る兵士の働きを表す言葉です。神がキリストによって与えてくださる平和は、この兵士のように私たちをすべての敵から守ることのできるものだとパウロは教えているのです。
このようにパウロは私たちに繰り返して「喜びなさい」と語っています。私たちがこの喜びをパウロとともに分かち合うためには、この喜びの根拠であるイエス・キリストに信仰の眼を向け続ける必要があります。そして、そのイエス・キリストが私たち一人一人の人生に深く関わってくださっていることを覚えながら、私たちの人生に起こる出来事の一つ一つを心に留め、思い巡らしていくなら、私たちはキリストにおいて常に喜ぶことができるのです。
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祈 祷 |
天の神さま。
新しい年をあなたの礼拝することから始めることができた幸いを心から感謝いたします。私たちが主イエス・キリストにおいて喜ぶ事ができるように、私たちに聖霊を遣わして、私たちの信仰生活を励ましたてください。そして私たちが同じ思いを抱いてあなたに仕えていくいことできるように助け導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.パウロはフィリピの信徒への手紙4章4章4〜7節で私たちにどのようなことを勧めていますか。
2.パウロはここで私たちに「常に喜びなさい」と語っています。この喜びの根拠についてパウロの言葉からあなたも説明して見ましょう。
3,パウロが語る「広いこころ」とはどのようなことを意味していると思いますか。どうしたら私たちはその広いこころを持つことができますか(5節前半)。
4.「主はすぐ近くにおられます」と言う言葉は私たちに何を教えていると思いますか(5節後半)。
5.「思い煩いをやめなさい」(6節)と言うパウロの勧めに私たちが従うためにはどうしたらよいと思いますか。
6.私たちが「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(6節)と言うパウロの言葉に従うなら、私たちの人生でどのようなことが起こると思いますか。
7.「人知を超える神の平和」(7節)とは私たちの考える平和な状態とどのように違っていますか。
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