2017.1.22 説教 「永遠の命の祝福」


聖書箇所

ヨハネによる福音書10章28節
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。


説 教

1.永遠の命は神の恵み
①聖霊が与えてくださる恵み

 今日は昨年一年間、伝道礼拝で学び続けた使徒信条の最後の箇所である「からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます」と言う部分について学びます。イエスが私たち一人一人に遣わしてくださる聖霊なる神は、イエスが勝ち取ってくださった恵みのすべてを私たちに分け与えてくださる方です。そして私たちは聖霊なる神がイエスの恵みを「きよい公同の教会、聖徒の交わり」を通して与えてくださることと、その恵みの一つとして「罪のゆるし」を与えてくださることについて学んで来ました。私たちが今日学ぶ「からだのよみがえり、永遠のいのち」もこの同じ聖霊が私たちに与えてくださる恵みのこと語っています。しかもこの「からだのよみがえり」と「永遠の命」の恵みは、私たちが先に学んだ「罪のゆるし」の恵みを受け取った者にだけ与えられるものであると言えるのです。なぜならこれらの恵みはイエスによって実現した罪の赦しの恵みが、実を結んで「からだのよみがえり、永遠のいのち」と言う祝福へと繋がっていくものだからです。

②永遠の命は等価交換で得られるものではない

 聖書にはイエスに対して「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」と尋ねた一人の人物の物語が紹介されています。この物語はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して取り上げているもので大変に有名です。それぞれの福音書を読むと「金持ちの青年」(マタイ)、「金持ちの男」(マルコ)、「金持ちの議員」(ルカ)とそれぞれ少しずつ異なった紹介がこの人物に付けられています。この人物は若くしてたくさんの財産を持ち、ユダヤの宗教議会の議員という立派な地位や名声も手にしていたと考えることができます。その上で彼は「永遠の命を手にいれたい」と考えて、イエスからその答えを得ようとしたのです。ところがイエスはその人物に「もちものをすべて売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。その上で、私に従いなさい」と答えられました。残念ながらこの人物はそのイエスの言葉に従うことができずに、その場を立ち去ることがしかできなかったと言うのです(マタイ19章16〜30節、マルコ10章17〜31節、ルカ18章18〜30節)。
 この人物の誤解は「何をすれば…」と言う彼の語った言葉に隠されています。彼は永遠の命を自分が何かをすることと交換に得られるものと考えていたのです。彼は今まで自分の財産や地位を「自分が何かをする」ことによって手に入れて来たのかも知れません。だから永遠の命も自分が何かをすることによって、まるで等価交換のように手に入れられるものだと考えていたのです。しかし、永遠の命は私たち人間が何かをして得られるものではありません。永遠の命はイエスだけが私たちに与えることができる恵みだからです。その恵みをいただくために私たちが自分の力で出来ることはありません。私たちはただ、信仰を持ってその恵みを受け取るだけなのです。イエスがこの人物に「持っているものをすべて処分するように」と命じたのは、永遠の命を得るためには何も必要がないことを教えようとされるためです。永遠の命を得るためには信仰を持ってイエスに従う以外の何物も私たちには要求されていないことをこの物語は示しているのです。

2.人は身体をもって甦る
①肉体に否定てきな思想や宗教

 ところでこの使徒信条は「永遠の命」と言う祝福を語る前に「からだのよみがえり」と言う恵みが私たちに与えられることをわざわざ取り上げて告白しています。この言葉はキリスト教がギリシャやローマの文化の中に伝えられたときに、キリスト教の信じる救いについて正しく理解させるために付け加えられたものだと考えられています。
 ギリシャの有名な哲学者プラトンは「人の肉体は魂を閉じ込めている牢獄のようなものだ」と人々に教えたとされています。ギリシャ人は人間にとって大切なのは不滅の魂であって、いつかは朽ち果てるしかない肉体には何の価値もないと考えていました。ですから彼らにとって人間の肉体は魂を閉じ込めてその自由を奪っている悪者でしかなかったのです。それで彼らの信じる人の救いとはこの魂が肉体から解き放たれて自由になることだと信じられたのです。プラトンはその師であったソクラテスの死を取り上げて、ソクラテスが死を恐れず、むしろ喜んで死んで行った姿をその著書に紹介しました。ソクラテスが人間の死についてそう考えたのも不滅の魂が肉体から解き放たれると言う彼らの信仰があったからです。
 実はこのギリシャの哲学者たちとは根拠が少し違うのかもしれませんが、不思議なことに私たち日本人の祖先たちも人間の肉体について積極的な意味を考えてはいません。むしろ日本人も人の肉体はその救いにとって邪魔なもの、余計なものと考えて来たようです。ですから成仏した人間の魂が、再び体をもって甦るなどと言う思想は誰も考えてはいないのです。

②神によって創造された人間

 それでは聖書はなぜ死んだ者がやがて身体をもって甦ると言う恵みをわざわざ強調するのでしょうか。このことは人間の救いにとって決して疎かにしてはならない、大切なことであると教えるのでしょう。その理由は、神が人間を創造されたときに人間を肉体あるものとして造ってくださったと言うところに根拠が置かれるのです。つまり、神に造られた人間は肉体と魂が一つになってこそ人間であると言えるのです。魂だけ、肉体だけの人間はいずれも不完全な存在となってしまうのです。だから私たちは、人間の救いを考える場合にも必ず身体をもって甦らなければ、それは完全な救いとは言えないと考えているのです。
 このことを証明するのがイエス・キリストの復活の出来事であると言えます。ご存知の通り、主イエスは十字架上での死の後、三日目に甦られました。そのとき弟子たちは最初、「自分たちは亡霊を見ているのではないか」と怪しみました。しかし、イエスはこの時弟子たちに復活した自分にはちゃんと体があることを説明して、弟子たちの前で食事までして見て、そのことを信じさせようとしたのです(ルカ24章36〜43節)。パウロはコリントの信徒への手紙一の中で「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリ一15章20節)と語っています。聖書はこのようにキリストを信じて死んだ者たちがやがてそのキリストと同じように体をもって甦ることを教えているのです。

3.死と永遠の命
①罪こそ死の原因

 ここまで私たちはなぜ「からだのよみがえり」を信じるかと言う理由を、神の創造の御業にその根拠があることと、またキリストの復活がそれを証明していること通して学んで来ました。ところで、私たちが人の命についてこの神の創造の業までさかのぼって考えるとき、私たちがもっと驚きをもって知ることは、神に造られた最初人間は死を知らなかった、死ぬべき存在ではなかったということです。つまり、人間の死は神の創造の御業とは相容れない、異常で、不自然な出来事であると言うことになるのです。
 私たちは普段、この人間の死についてどのように考えているでしょうか。誰もその死から逃れることはできません。死はどんな人間にも平等に訪れるものです。だから私たちはそれを当たり前の現象、また自然の現象だと考えているのではないでしょうか。しかし、聖書の教えに基づけば人間の死は異常な現象、不自然な現象であり、神の創造の業に基づかない出来事なのです。それでは、どうして人間は死ぬべき存在となったのでしょうか。死の原因はどこに求められるのでしょうか。聖書は人間の罪がその原因であると語っています。ローマの信徒への手紙の中でパウロも「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6章23節)と説明しています。
 聖書が語るように死の原因が罪にあるとしたら、この罪が解決されれば人間は同時に死からも解放されることになるはずです。使徒信条が「からだのよみがえり、永遠のいのち」の祝福の前に「罪のゆるし」と言う恵みを取り上げているのは、このことを明らかにしようとているからです。主イエスは私たちを支配する罪を解決し、その罪の支配から自由にするためにこの地上に来てくださった救い主です。だからそのキリストによって罪赦された私たちには「永遠の命」の祝福が約束されているのです。

 「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ10章28節)。

 私たちを罪の支配から解放し、永遠の命を与えることができるのは主イエス以外にはおられないのです。

②永遠の命=神と共に生きる命

 ところで、なぜ人間の罪は死の原因となるのでしょうか。そしてなぜ、キリストによって罪赦された者には永遠の命が約束されているのでしょうか。そのことをもう少しここで考えて見たいと思うのです。

 なぜ、人間の罪が人間の死の原因となるのでしょうか。それは人間の罪が人間をその命の源であるはずの神から引き離すこととなるからです。こんこんと尽きることなく水が湧き出る泉のもとに住む者は、いつでもその水を飲んで潤うことができます。しかし、その泉から離れてしまった者は渇きを覚えながら、枯れ果てるしかありません。神から離れた者もこれと同じであると言えるのです。命の源である神から離れてしまった人間の命も枯れ果てて、死を迎えるしかないのです。
 ですから私たちの主イエスは私たちの罪を解決することによって、私たちが命の源である神と共に生きることができるようにしてくださるのです。「永遠の命」の「永遠」と言う言葉は神だけがもっておられる性質です。ですから、永遠の命は「神と共に生きる命」とも言うことができるのです。イエスはこの永遠の命について次のようにも語っています。

 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4章14節)。

 私たちは主イエスによって命の源である神と共に生きることがでるようされます。だから私たちはこのイエスによって永遠の命の祝福にあずかることができるのです。

③今の命が永遠に続く?

 私がまだ聖書についてあまり知らなかったときのお話です。あるとき私の家にエホバの証人が尋ねて来ました。そのとき、私は「エホバを信じれば永遠の命がいただける」と言う彼らの話を聞いて、「こんな苦しい人生がいつまでも終わらないなんて耐えられない」と反論したことがありました。そのとき、私は永遠の命について、単に「いつまでも終わらない命」と言うようなものだと誤解していたのです。もし永遠の命がいつまでも終わらない命であり、私たちの今の人生がそのまま終わりなく続くとしたら、それは祝福ではなく呪いとなってしまうはずです。しかし、永遠の命は呪われた命ではなく、神が与えてくださる祝福された命なのです。
 「神は天地を創造される前に何をされていたのか」と言う質問を出した人に、「神はそのような愚かな質問をする人のために地獄を創造されていた」と答えた神学者がいるそうです。これはそんな愚かなことを考えていても、無駄に人生の時間を過ごすだけだと警告する言葉だと言えます。私たちが知っている時間は神が天地を創造される際に神が造ってくださった被造物の一つでしかありません。ですから、神の創造の前の時間を考えることは無意味なのです。そう考えると聖書が語る「永遠の命」とは時間を超えた命を語っていると言ってもよいかもしれません。先ほども触れましたように「永遠」とは唯一神だけが持っておられる性質を指す言葉です。ですから、「永遠の命」は「神からの命」と読み替えることもできます。つまり「永遠の命」は私たちが今、生きている命とは全く性質が異なる神の命、神からの命のことを指していると言ってよいはずです。ですから永遠の命は、自分の今の人生がそのまま終わり無く続くと言うことを言っているのではありません。むしろ私たちは神から永遠の命を受けることによってまったく新しい人生を、神に祝福された人生を始めることができるのです。私たちの主イエスはその新しい人生を私たちに与えてくださるために地上に来て下さった方だからです。

4.死と戦い、勝利されたイエス

 私たち人間は私たちを支配する死と言う現実の前に無力な存在でしかありません。どんなに医学の技術が進歩してもその技術は私たちの地上での命をほんのわずか引き延ばすことぐらいしかできません。誰もこの死と言う現実から逃れることができないのです。だから、私たちは自分の死を恐れて生きています。また、親しい人々の死に直面してもうろたえたり、悲しむしむことしかできない者たちなのです。
 ところが聖書を読んで見ると、私たちの主イエスは人間の死と言う現実を前にして意外な感情を抱かれたことが記録されています。あるとき、イエスは自分が愛していたラザロと言う人物、彼は有名なマルタとマリア姉妹の弟でしたが、そのラザロが病気で死んでしまうと言う出来事に直面します。この時イエスは、ラザロの死を悲しむ人々の姿を見て、またラザロが葬られている墓を前にして「心に憤りを覚え」られたと聖書は記録しています(ヨハネ11章33節、38節)。この「憤り」は強い怒りの感情を表す言葉だと考えられています。それではイエスはこのとき何に強い怒りを感じられたのでしょうか。それは人を恐怖と悲惨に陥れている人間の死と言う現実に対してです。そしてイエスはこの死と戦うためにやって来られた方だからこそ、このときその敵である死に強い憤りに感じられたのです。
 イエスの怒りの感情は死に戦いを挑む者のみが抱くことのできる当然の感情でした。そしてイエスは実際にこの死と戦い、勝利されたのです。イエスの復活と言う出来事こそこの勝利を私たちに明らかにするものだからです。聖書が語る通りイエスは「最後の敵として、死を滅ぼされる」(25節)方なのです。そしてイエスを信じる者は誰でもこの勝利にあずかることができます。このイエスによって死に勝利した私たちは、たとえこの地上で一度は死ぬことになっていたとしても、「からだのよみがえりと永遠のいのち」が与えられることを信じて、希望を持ってこの地上の生涯を生きることができるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 かつて私たちは自らの犯した罪により、命の源であるあなたから離れて、死を免れ得ない者でしたが、あなたはその私たち主イエスを遣わしてくえさり、からだのよみがえりと永遠の命の希望を与えてくださったことを心より感謝いたします。どうか聖霊を私たちに遣わして、この希望を日々新たにしていただき、私たちの信仰の先輩たちが確信を持って信仰生活を歩んだように、私たちをもその確信で満たしてください。願わくはこの希望を与えられた私たちがあたなを喜び、感謝をささげて生きることができるようにしてください
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.聖霊なる神が私たちに与えてくださる恵みは「罪のゆるし」と何であると使徒信条は教えていますか。
2.人間の身体についてギリシャ人たちと聖書の考え方はどのように違っていますか。聖書はどうして、人間の救いとって「からだのよみがえり」が重要だと教えているのですか。
3.最初に神に創造された人間は死を知らず、死ぬべき存在でなかったとしたら。どうして人間は死ぬべき存在となってしまったのでしょうか。
4.聖霊が私たちに与えてくださるキリストによる罪のゆるしは、人間を死の問題から解放させることどのように深い関係を持っていますか。
5.「永遠のいのち」を終わらない命とだけ考えてしまうと、私たちにはどのような誤解が生じてしまうでしょうか。私たちがその誤解に陥られないために、永遠の命をどのように考えるべきでしょうか。