2017.1.22 説教 「絶えず祈りなさい」


聖書箇所

テサロニケの信徒への手紙一5章17節
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。


説 教

1.主イエスの再臨を待つ教会
①主の日は必ずやって来る

 今朝の礼拝では午後の会員総会に備えて今年の年間聖句として選ばれているテサロニケの信徒への手紙一の5章17節の「絶えず祈りなさい」と言う使徒パウロの言葉から学びたいと思います。そして、この言葉を私たちがこの一年間、心に覚えながら教会の様々な活動に携わることができればと思っています。

 実はこのパウロの言葉は17節だけではなく16節から18節を一纏まりにして読んだ方が分かり易いと思います。パウロはここで「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と語っているからです。ここに語られている「喜ぶこと、祈ること、感謝すること」、これらの勧めは一見それぞれがバラバラに語られているように見えるかもしれませんが。しかし、この三つの勧めは切っても切り離せない関係にあると言ってもよいのです。なぜなら、私たちがいつも喜ぶためには、絶えず神に祈りを献げる必要があるからです。そして絶えず祈る者だけが自分たちの祈りに答えてくださる神の豊かな働きかけを知ることができ、心から神に感謝を献げることができるようになるからです。つまり、絶えず祈る者こそ、いつも喜ぶことができますし、神に感謝を献げる生活を送ることが可能となるのです。
 ところで「絶えず祈りなさい」と言う言葉を含めたこのパウロの薦めは最初どのような人々に、またどのような状況下で語られていたのでしょうか。まず私たちがこのパウロの言葉を正しく理解するためにはそれらの事情を詳しく知っておくこと必要があります。
 この言葉はパウロの記したテサロニケの信徒への手紙一の中に記されています。この手紙は新約聖書の中では比較的後ろの方に収録されていますが、パウロの手紙の中では最も古い時期に書かれたものと考えられています。パウロはこの手紙の宛先であるテサロニケに最初に伝道した人物であり、テサロニケの教会の生みの親とも考えることができる人物でした。この手紙は、それからしばらくして今は別のところで伝道していたパウロが、このテサロニケの教会のその後の状況を耳にして、その教会の人々を指導するために書いた手紙とされています。そして、この手紙の最大の特徴は、この5章の最初の言葉にも記されていますが、この手紙の著者であるパウロも、また手紙の受け取り人であるテサロニケの教会の人々もキリストの再臨について大きな期待を持っていたと言うことです。だからパウロは次のような言葉でこの5章を始めています。

 「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(1〜2節)。

 ここで「主の日」と呼ばれているものは主イエスの再臨される日のことを言っています。パウロはテサロニケの教会の人々に主イエスが再臨される日が近づいており、その日は確実やって来ることをこの手紙でも強調しているのです。そして、パウロはテサロニケの教会の人々に主イエスの再臨を覚えつつ毎日、確かな信仰生活を送ることができるように手紙を送り、助言を行なったのです。

②主の前に生きる

 何か大変なことが起こると聞くと、人々は浮き足だって、何もできなくなってしまうことがあります。パニックに陥って日常の生活を維持することが困難になってしまうのです。しかし、主イエスの再臨の時、主の日を覚えて生きる信仰者の生活はそのようなことにはなりません。なぜなら、主の日は私たち信仰者にとって単なる終わりのとき、恐怖のときではないからです。むしろ主の日とは私たちの救いが完成する日のことであり、その喜びを味わうことができる日なのです。それではこの主の日を覚えて生きる信仰者の生き方はどのような意味で確かなものとされていると言えるのでしょうか。
 まず、主の日を覚えると言う生き方は、主イエスがいつ来られても大丈夫なように生きることだと言えます。主の日がいつになるか、それは誰にも明らかにはされていません。しかし、主が再び来られると言うことは聖書が証言する確かなことなのです。それならば、その日を待つ私たちはその日が今日やって来たとしても大丈夫なように信仰生活を送る必要があります。パウロは「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(8節)と呼びかけているように、私たちは主の日のために神の言葉に従う生活を心がけ必要があるのです。そしてこの神の言葉に従う生活をイエスは「岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」(ルカ6章48節)と語っています。ですから主の日に備える者は揺るぐことのない確かな人生を送ることができるのです。

②主に信頼して生きる

 また、主の日を覚えて生きる者の特徴は、「主イエスが私たちの救いのみ業を必ず完成してくださる」と言う信仰を持って毎日を送ることだとも言えるのです。神の計画に従って始められた業を最後まで導いて完成させるのは私たち人間の業ではなく、神のみ業なのです。そして神の始められた業は、未完成で終わることはありません。必ずその業は完成を迎えることができるのです。その神のみ業とは対象的に、私たちの働きはいつも不完全であり、自らが始めた業も未完成のままこの世を離れざるを得ないことも起こってきます。しかし、私たちが始めた業がもし、神の計画に従うものであるならば、神はその事業を私たちがいなくなった後でも最後まで導いて完成させてくださるのです。私たちの教会の二十年、三十年先のことを考えてみましょう。私たちはそのときこの教会にいないかもしれません。しかし、私たちはその時を先取りして今、不安を抱く必要はありません。大切なのは、私たちが今、神の言葉に従って、忠実に教会生活を送っていくことなのです。午後の会員総会では今年の一年の教会の計画を皆さんと共に話し合います。私たちは今年一年、神の御心にかなう計画を建て、その計画が実現できるように祈る必要があります。そして私たちがこの計画に従って神に忠実に仕えていくなら、必ず神は私たちが始めた業を祝福して、完成にまで導いてくださるのです。それが主の日を待つ信仰者の確かな生き方であると言えるのです。

2.絶えず祈れ
①なぜ祈るのか

 さて、このようなテサロニケの教会の人々の状況を考えるとパウロの語った「絶えず祈りなさい」と言う言葉は主の日を待つ者の信仰生活のために欠かせない秘訣を語っていると考えることができます。パウロはこの勧めの最後に「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(18節)と語っています。留守番をする子どもに細かい指示を送っても、その指示を忘れてしまう恐れがあります。だから親は「戸締まりと火の元だけには気をつけなさい」と、一番大切なことだけを子どもたちに伝えようとするのです。パウロは主イエスがいつ来られてもいいように「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とテサロニケの教会の人々に勧めているのです。そして私たちもこの言葉を守るなら、テサロニケの教会の人々の信仰生活と同じように主の日を待ち望む確かな信仰生活を送ることができるのです。
 さて、それではなぜ私たちはパウロが語るように「絶えず、祈る」必要があるのでしょうか。その答えは単純です。祈らなければ、私たちは信仰者として一時たりとも生きていくことができないからです。「祈りは呼吸である」と例える人がいます。人間は呼吸を止めてしまえば、死んでしまいます。だから呼吸をしない者は死んだ者と言えるのです。同じように祈らない信仰者は死んだ信仰者であり、信仰者ではないと言えるのです。
 最初に私たちが「いつも喜んでいる」ためには祈りが必要であると言うことに触れました。実はパウロがここで語っている「喜び」とは神さまに従うことによって与えられる喜びであると考えることができます。私たちはこの世で様々な喜びを体験することができます。しかし、その喜びの中でも最も大切な喜びは、私たちが心から「生きていてよかった」と感じることのできる喜び、生き甲斐を感じるときに与えられる喜びであると言えるのです。
 聖書は私たち人間が、この生き甲斐を感じることができる方法を教えています。それは私たちが神さまに従うことを通して与えられます。なぜなら、私たち人間は本来、神に従うために創造された存在だからです。だから神に従うことこそ私たちが喜びに生きることのできる秘訣なのです。そして、この世で神に従って生きるためには、絶対に神の助けと導きが必要なのです。私たちはその助けと導きを、祈りを通して神からいただくことができるのです。救い主としてこの地上の生涯を歩まれた主イエスがその生涯で祈りを欠かすことがなかった理由もここにあるのです。

②どうして祈れないのか

 それでは私たちはなぜ祈ることができないのでしょうか。私たちが祈ることに困難を覚えるのはどうしてなのでしょうか。その理由の第一は自分が無力な存在であるということに気づいていないと言うことにあります。昔、八木重吉と言う信仰者はこんな詩を書き残しました。
 「さてあかんぼは、なぜ、あん、あん、あん、あん、なくのだろうか。ほんとにうるせいよ。あん、あん、あん、あん。あん、あん、あん、あん。うるさかないよ、うるさかないよ。よんでいるんだよ。かみさまをよんでるんだよ。みんなもよびな。あんなに、しつっこくよびな」。
 赤ん坊は自分では泣く以外に何もすることができません。だから親を求めて赤ん坊は泣き続けるのです。私たちも実は神の前では無力な赤ん坊の一人に過ぎないのです。神の助けがなければ生きていけないのが本当の私たちの姿なのです。だから私たちは「絶えず祈る」必要があるのです。
 そして私たちが祈れない理由の第二は、自分が祈ってもその祈りに神が答えてくださるかどうか確信がない、わからないと言うことから起こります。しかし、このことは先日、私たちが主の祈りを学ぶことでも確認しています。私たちの主イエスは私たちのために神の家の扉を開いてくださった方なのです。主イエスは御自身の命を犠牲にして、私たちの祈りが必ず神に届けられように、神の答えを得られるようにしてくださったのです。だから私たちは恐れることなく「絶えず祈る」ことができるのです。

③「絶えず」とは

 さてパウロはここで「絶えず」と言う言葉を「祈りなさい」と言う勧めの前に語っています。つまり、パウロは私たちに「時々祈りなさい」、「困ったときだけ祈りなさい」と言っているのではなく、「祈り続けなさい」、「祈ることを止めてはいけない」と語っているのです。以前、私は「無名の巡礼者」と題したロシアの信仰者が残した手記を読んだことがあります。この信仰者はパウロがテサロニケの信徒への手紙で語る「絶えず祈りなさい」と言う言葉の本当の意味を捜して、信仰の旅を続けました。そして彼はやがて、呼吸と同じように祈りの言葉を口にする方法を会得していくことがこの本には紹介されています。この方法は私たちが良く知る日本の念仏のようなものに似ています。「絶えず祈りなさい」と言う言葉を、そのまま実行するなら念仏と同じようになってしまうと考える人もいます。しかし、この言葉はむしろ私たちが神の助けを求め続ける姿勢を示すものではないかと考えることができるのです。私たちが「いつも自分には神の助けが必要である」、そのことを心に覚えて生きるなら、当然、神に祈りを献げ続ける者となるからです。
 イエスの語られたたとえ話の中に「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえと言う物語があります(ルカ18章9〜14節)。神殿で二人の人が祈りを献げました。ファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈りました。しかしもう一人の徴税人は心からの悔い改めの姿勢を示しながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけ祈ったのです。このファリサイ派の人の祈りは神に感謝を献げているように聞こえますが実はそうではありません。彼は自分のしたことを自慢しているだけなのです。だから彼はここで自分には神の助けなど必要ないと言っているだけなのです。しかし、もう一方の徴税人の祈りは違います。彼は神の憐れみ、神の助けを心から願い求めています。たとえ、私たちの献げる祈りが巧みな言葉を使うものでなかったとしても、声にならないものであっても、神を求める祈りこそ本当の祈りであると言うことができます。そしてこの神を求める心を持つ者こそ、いつでも神に助けを祈り求めることができるのです。

3.共に祈ることの大切さ

 さてここで皆さんに最後に覚えて欲しいのは、この祈りの勧めがパウロによってテサロニケの教会の人々に語られていると言う点です。パウロは誰か特定の人の信仰生活を向上させるためにこの勧めを語っているのではありません。彼は信仰者が共に集る教会の人々のためにこの言葉を語っているのです。つまり、この「絶えず祈りなさい」と言う勧めは、「一人で祈りなさい」と言っているのではなく、教会の人々に「一緒になって、共に絶えず祈り合いなさい」と言っていると考えることができるのです。
 私たちは信仰生活について勘違いしているところがあるかもしれません。たとえば、まずそれぞれの個人の信仰生活が向上することで、教会の活動も向上すると考える人がいるかもしれません。そのような人はまず一人で祈り、一人で聖書を読む習慣を作ることが大切だと教えるのです。しかし、これは明らかに間違っていると思います。なぜなら私たちの信仰は教会生活を通して向上していくものだからです。教会の礼拝を守ることの出来ない人は、個人で神を礼拝することはできません。教会の祈祷会に出席して、兄弟姉妹と共に祈りを献げることが出来ない人は、一人になって家で祈ることに困難を感じるはずです。教会の聖書研究会に来て、共に聖書を読み合い、語り合うことができなければ、どんなにその人が一人で聖書を読むことが出来ても、勝手な読み方しかできず、本当に聖書を理解することはできなくなるのです。
 その反対に教会の礼拝を心から大切にする者は、家にいても神に心からの礼拝を献げることができます。祈祷会に出て、兄弟姉妹と共に祈る者は、一人になっても神に近づいて祈りを献げることができるのです。聖書研究会で兄弟姉妹と共に聖書を読む者は、その聖書の言葉からたくさんの励ましを受けることで、一人になっても続けて聖書を読み続ける勇気が与えられるのです。
 教会を離れて私たちの信仰生活は成立しません。だから教会を離れてしまっては「絶えず祈りなさい」と言うパウロの言葉に従うことも不可能なのです。私たちは主イエスが再びやって来てくださる日が必ず訪れることを信じながら、確かな人生を送る必要があります。そしてそのために私たちはキリストの身体である教会での生活を送りながら信仰の歩みを続けて行きたいのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 主の日を待ち望んで確かな信仰生活を歩んだテサロニケの教会の人々と同じように、私たちの信仰生活を導いてください。私たちはこの日の午後に会員総会を開催します。私たちの教会の計画が主の御旨にそうものであるように、私たちの話し合いを導いてください。そして私たちが「絶えず祈る」ことによって、あなたの助けを願い求め、私たちが始めた業をあなたが完成に導いてくださることを期待して生きることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.あなたは確実に訪れる「主の日」のためにどんな準備をしようと思いますか。
2.あなたはどんなときに、自分は祈る必要あると感じますか。その反対に、祈ることが疎かになってしまう原因はどこにあると思いますか。
3.あなた「主の日」に備える信仰生活を私たちが送るために、神はどのような助けを与えてくださっていると思いますか。
4.あなたが今年一年、教会生活の中でどのように神に仕えることができるかを考えて見ましょう。また、そのあなたの願いが実現されるように神に祈りを献げてみましょう。