2017.1.7 説教 「祈りを教えてください」
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聖書箇所
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ルカによる福音書11章1節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
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説 教 |
1.主の祈りを学ぶ理由
①主の祈りを学ぼう
今年の東川口教会の月間聖句は主の祈りの言葉に関連する箇所が選ばれています。それらの聖句を通して一年間で主の祈りについて学べるようにと計画を立てました。私の草加松原教会でのご奉仕はこの3月まで終わります。それで残念ながら皆さんと共に主の祈りの内容すべてを学ぶことはできません。できれば皆さんが私のこのお話を通して主の祈りについての学びをご自分で深めることができる機会となればよいなと思っています。また、私の毎回の説教原稿は皆さんもご存知のように小さなパンフレットとして製作されています。ですから、この後の箇所の部分を知りたいと思われる方は、私の方にご連絡くださればそのパンフレットをお送りさせていていただきたいと思っています。
さて、今日のお話ではこれから皆さんと共に主の祈りの本文を学ぶ前に、そもそもなぜ私たちにとって主の祈りを祈ることが大切なのか。私たちにとってこの主の祈りとはどのような役目を果たしているのかについて少し考えて見たいと思うのです。
②主の祈りを無意味な呪文にしてはいけない
わたしの亡くなった父は日蓮宗系の新興宗教団体の会員でした。ですから、私は子どものころから朝晩、あの「お題目」という言葉を聞きながら育ちました。「南無妙法蓮華経」と言うあの題目の言葉を父は熱心に朝晩唱えていましたが、その父が自分や私たちに分る言葉で仏壇に向かって祈りの言葉を献げる姿を見たことは一度もありませんでした。あの「お題目」には意味があるのかもしれませんが、それを理解できない私にとっては無意味な呪文の一つでしかありませんでした。
私たちキリスト者も朝に晩に、機会があるごとに主の祈りを唱えています。それが一つの習慣になっていると言ってもよいのかもしれません。しかし、もし私たちが自分の献げている主の祈りの言葉を理解していなかったら、また私たちの祈る主の祈りの言葉を毎日聞く家族たちがそれを理解していなかったとしたら、主の祈りもまた無意味な呪文になってしまう可能性があります。
主の祈りは、私たちのために命まで献げてくださった主イエスが私たちに与えてくださった祈りです。その主イエスは私たちに無意味なものを与えることは決してありません。むしろいつも最上のものを私たちに与えてくださる方なのです。そうだとすれば、主が私たちのために与えてくださった主の祈りにもすばらしい恵みが隠されているはずです。私たちはだからこそ期待を持ってこの主の祈りの学びを始めて行きたいと思うのです。
2.イエスの弟子たちのための祈り
さて今日の聖書の箇所では、主イエスがその弟子達に「主の祈り」を与えるきっかけとなった出来事が紹介されています。
「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)
主の祈りはこの「わたしたちにも祈りを教えてください」と言う弟子達の願いに応えられる形で、主イエスが弟子達に教えてくださった祈りです。それではどうして弟子達はこのときイエスに「祈りを教えてください」と願わざるを得なかったのでしょうか。彼らの多くはユダヤ人の家庭に育ち、子どものときから熱心な宗教教育を受けていた人々でした。子どものときから聖書を読む訓練を受け、また神に祈ることについても詳しく教えられて来たはずなのです。そのような弟子達があえてここで、主イエスに「祈りを教えてください」と願った訳はどこにあるのでしょうか。
まず、弟子達はここで「ヨハネが弟子たちに教えたように」と語り出しています。このヨハネとは有名な「洗礼者ヨハネ」のことです。このヨハネのもとにはかつてたくさんの弟子がいたと考えられています。実はこのヨハネの弟子達だった人々の中からかなりの部分がイエスの弟子に変わっていったとも考えられています(ヨハネ3章26節)。また、イエスの弟子のペトロとアンデレ兄弟も元々はヨハネの弟子であったことが聖書に記されています(ヨハネ1章35〜42節)。弟子たちの幾人かは、洗礼者ヨハネの元で訓練を受けていた者たちだったのです。そしてそのヨハネは自分の弟子たちに特別な祈りの言葉を教えていたと言うのです。きっとヨハネの弟子とって、自分たちの師匠であるヨハネから学んだこの祈りは、自分たちがヨハネの弟子であると言うことを自覚するために、また人々にも自分がヨハネの弟子であることを示す大切な役目を果たしていたはずです。だから彼らはイエスの弟子になったとき、イエスの弟子として自分たちが胸を張って祈れる祈りの言葉が欲しいと考えたのではないでしょうか。
主の祈りは、イエスの弟子に与えられた祈りです。その役割は今も昔も変わることがありません。だから今、私たちもこの主の祈りを祈れると言うことは、紛れもなく私たちもまた、主イエスの弟子の一人であると言うことを表してくれる祈りだと言えるのです。たとえ人種や国籍が違っていても、所属している宗派が異なったとしても、この主の祈りを祈る者たちは皆、イエスの弟子として生かされている者なのです。このような意味で主の祈りは主イエスの弟子として生きようとする私たちにとって大切な役目を果していると言うことできるのです。
3.イエスに出会うことで分った無知
①祈りを知らない
ただ、ここで先ほどの弟子たちの願いの言葉に戻ってもう一度考えて見ると、もう少し違った主の祈りについての理解が可能であると言うことができます。そもそも、このとき弟子たちはイエスに「祈ることを教えてください」と語りました。彼らは決して「祈りの言葉を教えてください」とか「適切な祈りの方法を教えてください」と主イエスに言った訳ではないのです。この言葉は弟子たちはこのとき「祈り」自体、つまり「祈りとは何なのかを教えてください」と主イエスに願っているとも読めるのです。先ほど、申しましたようにユダヤ人の家庭に育った弟子たちは祈りについて子どもの頃から学んで来たはずです。その彼らが「祈ることを教えてください」と言わざるを得なかった理由は何なのでしょうか。彼らはこのとき「自分たちは祈ることを知っていない」、あるいは「今まで当たり前のように祈って来たけれども、あれは本当の祈りではなかった」と考えるような体験をしていたと言えるのです。だから、そんな彼らの心の揺らぎがこの願いの中に隠されているとも言えるのです。
聖書は弟子たちがイエスに「祈ることを教えてください」と願ったときの状況をこう紹介しています。
「イエスはある所で祈っておられた。祈り終わると、弟子の一人がイエスに…」(1節前半)。
弟子たちはこのとき祈るイエスの姿を目前にすると言う体験をしていました。そしてその姿を目撃した弟子たちはイエスに「祈ることを教えてください」と願わざるを得なかったと言うのです。つまり、彼らは祈るイエスの姿を見たときに、そのイエスの祈りが自分たちの祈りと全く違っていることを知りました。だから同時に自分たちが祈りについて何も理解できていなかったと言うことをも理解することができたのです。そのような理由から弟子たちはイエスに「祈ることを教えてください」と願ったと考えることができるのです。
②イエスによって明らかになる私たちの無知
ギリシャの哲学者ソクラテスは「自分が本当は何も知らないことを、知りなさい。自覚しなさい」と人々に教えたと言われています。「自分は何でも知っている」と思っている人は、それで満足してしまってそれ以上学ぶことも真理を追究することもできなくなるからです。
聖書の中にはイエスに出会った人が、自分の無知を暴露されたり、また深く自覚させられたと言う出来事を伝える物語が残されています。たとえば、今日のルカ福音書11章の直前には、イエスが語った有名な「善いサマリア人」のたとえがあります(10章25〜37節)。このお話は律法学者の「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」(25節)と言うイエスへの問いに答える形で語られたものでした。この物語を通して明らかになることは、ここに登場した律法学者が永遠の命が何であるかを本当は理解していなかったこと、また律法についての理解も十分ではなかったことでした。なぜなら、彼らは律法の言葉の中で重要なキーワードとも言えるはずの「隣人」と言う言葉についてさえ全く正しい理解を持っていなかったからです。
さに、この「善いサマリア人」の後には、これも多くの人々に知られている「マルタとマリア」の姉妹の物語が記されています(10章38〜42節)。この場面でマルタは主イエスと弟子たちの一行を迎えるために忙しく働き続けています。彼女は自分の指図に従えば、すべてはうまくいくと思っていました。ところが妹マリアはその姉の指図に従おうとしません。その上、主イエスはその妹をそのままにしています。「どうしてマリアもイエスさまも自分の計画に従わないのか」と腹を立てるマルタにイエスは「人生にとって必要なことはただ一つである」と言う真理をこの時、教えてくださったのです。マリアはたくさんのことを知っていました。しかし、本当に知らなければならないことを彼女は知っていなかったのです。主イエスはそのマルタの姿をここで明らかにされたのです。
祈るイエスの姿に出会った弟子たちも、ここで始めて「自分たちは祈りを知らない」と言うことを理解したのではないでしょうか。だからどうしてもイエスに「祈ることを教えてください」と願わざるを得なかったのです。わたしたちはどうでしょうか。本当の祈りを知っているでしょうか。もし、わたしたちもまた、「祈りについて知っていない」と思えるなら、この主の祈りを学ぶことができることは何と幸いなことなのでしょうか。主イエスが祈ったように、本当に神に祈りを献げることができる、それを可能とするのがこの主の祈りだからです。そのような意味でこの主の祈りがすでに私たちに与えられていると言うことは最も大きな恵みであると言えるのです。
4.私たちに届いた招待状
聖書を読んでみると、主イエスが祈りを献げられている姿がたびたび登場します。主イエスはその公生涯で祈りを欠かすことがありませんでした。なぜなら、神のひとり子であられたイエスは、御自身の父である神との交わりを欠かすことがなかったからです。主イエスにとって祈りは父なる神とご自分との間にあった愛の交わりを表す大切な表現でした。
主の祈りの冒頭に登場する「父よ」と言う呼びかけの言葉は、幼児がその父親を呼ぶような言葉が用いられています。小さな子どもは親に全面的に依存して生きています。親の保護を離れは一時たりとも生きてはいけないのが小さな子どもの置かれた状況です。だから小さな子どもはいつも信頼を持って親に呼びかけます。イエスはそのような言葉を使って、天におられる父なる神を呼びました。なぜなら、イエスと父なる神との間には愛に裏付けられた揺らぐことのない信頼関係が存在していたからです。そのイエスが主の祈りを私たちに教えてくださったのは、私たちにもイエスと父なる神との愛の関係の中に入るようにと促してくださっていると言うことができるのです。ですから、この主の祈りを祈れるということは、私たちと神との間に確かな愛の関係、信頼関係が生まれたことを表しているとも言えます。そうだとしたら、主の祈りは主イエスからわたしたちに届けられた、愛の交わりへの招待状であるとも言えるのです。
5.主イエスによって開かれた天の家の戸
祈りを献げようとするとき、わたしたちが抱く不安の一つは「私の祈りは本当に、神に届いているのか」と言うことであり、また「私の祈りは結局、独り言のようなものになっていないのか」と言うものではないでしょうか。この主の祈りを教えられたイエスはそのすぐ後で、真夜中に訪れた友人をもてなすために、他の友人の家に行って、「パンを三つ貸してほしい」と執拗に願った人物の話を紹介しています。
たとえ話の主人公が訪れた友人の家はすでに夜になり、一家は床に入ってしまって、固くその戸が閉ざされていました。しかし、執拗な主人公の願いによって、この家の主人は寝床から起き上がり、ついにその戸を開いて、主人公を自分の家に招き入れたのです。イエスはこのたとえ話を語りながら、私たちに「求め続ける」ことの大切さを教えてくださいました。しかし、わたしたちはもしかしたら、このたとえを読む度に、勇気づけられるよりは「自分は本当にそんなことができるのか」と言う疑問を感じるかもしれません。「自分には神の家の戸を開くことのできるような執拗な信仰があるだろうか」と、考えてしまう人もいるはずです。
このたとえ話が主の祈りの言葉に続けられて聖書に紹介されていることは大変興味深いことではあると思います。もしかしたらそれは、誰も開くことができない神の家の扉を開く力をこの主の祈りは持っていると教えているのかもしれません。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。なぜなら、わたしたちの救いのために神に執拗に祈り続けて下さった方こそ、わたしたちの主イエスだからです。イエスは御自身の命を献げるほどまでに、わたしたちを愛され、わたしたちの救いが成就するようにと願われた方なのです。だからこのイエスによって天の家の、神の家の戸は確実に開かれたと言えるのです。このイエスのみ業があるからこそ、わたしたちの祈りは無意味な独り言では終わることがないと言えるのです。わたしたちの祈りを神は必ず聞いてくださり、その祈りにふさわしい答えを与えてくださるのです。
このような意味で主の祈りは天にある神の家の戸を開けることができる主イエスの力を持った祈りの言葉だと言うこともできます。だからわたしたちは、毎日、この主の祈りの言葉を祈り続けるのです。そしてこの主の祈りによって招き入れられた神との愛の関係の中に生きるわたしたちは、自分の言葉で語るすべての祈りにおいて、この主の祈りの言葉と同じように、神の耳に必ず届けられていることを確信することができるのです。私たちはこのような主の祈りの果す重要な役割を覚えつつ主の祈りの学びを続けて行きたいと思います。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
「祈りを教えてください」。私たちも弟子たちと同じように、あなたの前ではその無知をさらすしかない者たちです。しかし、あなたはその私たちに主の祈りを教えてくださいました。私たちはこの祈りによって主イエスと父なる神の愛の交わりに招かれています。また、この祈りを通して、私たちのためにいつも神の家の扉が開かれており、私たちの祈りがあなたに聞かれていることを確信することができます。私たちがこの祈りを大切にしながら、祈り続けることができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.あなたは主の祈りをどのようなときに祈っていますか。あなたはこの主の祈りを自分に信仰生活にとって大切なものだと思って祈っていますか。
2.あなたは主の祈りの文章を今まで、詳しく学んだことがありますか。あなたがその学びの中で一番覚えているものは何ですか。疑問に思ったものはなんですか。
3.「祈ることを教えて下さい」。あなたは神の前でイエスの弟子たちと同じ気持ちになったことがありますか。
4.あなたは、友人に「パンを三つ貸して欲しい」と願った物語の主人公のように神に執拗に祈り続けることが可能だと自分で思いますか。もし、あなたがそう思えないとしたら、そのあなたにとって主の祈りが与えられていると言うことはどんな意味があると思いますか。
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