2017.10.1 説教 「罪をゆるす権威を持たれる方」


聖書箇所

マルコによる福音書2章1〜12節
1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


説 教

1.教会と共におられるイエス
①みんなで助け合いながら歩く教会生活

 私たちの教会では現在、毎月第二週の伝道礼拝で改革派の発行するリジョイス誌に掲載されている新しい讃美歌を歌い続けています。もう何回も歌ったので皆さんも覚えておられるはずです。「あなたの歩き方」でと言う題名の讃美歌があります。「あなたの歩き方で、着いて行こう、主の後を」とこの讃美歌は歌っています。私たちの信仰生活を「歩くこと」と言う動作を通して表現している讃美歌です。確かに人それぞれの歩き方は違っています。歩く姿勢も、スピードも違います。信仰生活のスタイルもこの歩き方と同じようにそれぞれ違うと言えるのです。しかし歩き方は違っていても信仰生活では皆、同じ道を通っていくことには変わりがありません。なぜなら、私たちの信仰生活はイエスに従って歩むと言うことでは同じだからです。その際、よそ見をして他人と自分を比べていたら、私たちはいつの間にか主イエスを見失い、道に迷ってしまうかもしれません。だから、大切なのは私たちがいつも私たちの前を歩んでくださる主イエスから目を離さないで、その後をついていくことだとこの讃美歌は歌っているのです。
 確かに信仰生活でよそ見をすることは禁物です。しかし、同時に私たちの教会生活では自分以外の兄弟姉妹にも目を向けることは大切なのかもしれません。なぜなら自分一人がどんどん先に行ってしまうだけでは健全な教会生活とは言えないからです。時には周囲を見渡して歩みが遅れてしまっている兄弟姉妹があれば、その人を励ましたりすることも教会生活では大切なのだと思います。できればそんな視点も盛り込んだ新しい讃美歌ができればよいなと思うのです。
 今日の物語の中には自分の力では歩くことができない人が登場します。また、その人を懸命に励まして、主イエスの元に連れて行った人たちも登場しています。今日はこれらの人々の物語を通して私たちの信仰生活、教会生活について少し考えて見たいと思います。

②イエスがおられるところに、人も集まる

 今日の物語の舞台は以前にも登場したカファルナウムの町です。おそらく、今日の出来事が起こった家は1章29節以下で取り上げたシモン・ペトロの家であったと考えられています。イエスはこの家でシモンのしゅうとめの病を癒し、その噂が町中に広まって、たくさんの人々がこの家に押し掛けて来たと言う出来事を私たちは既に学びました(1章29〜34節)。その家に再びイエスが戻ったと言う知らせが町中に伝わると、「戸口のあたりまですきまもないほど」大勢の人がこの家に集まって来たのです(2節)。黙っていてもイエスがそこに居ると分かれば、たくさんの人が集まるのです。これは「どうしたら教会にたくさんの人が集まってくれるのか」と言う悩みを抱く私たちに大きなヒントを与えるものだと言えます。イエスがそこにいると言うことが分かれば自然とたくさんの人がその場所に集まって来るはずだからです。そうなると私たちの伝道活動において最も大切なのは、私たちの教会の中にイエスが共におられると言うことを誰にでも分かるように伝えることだと言うことになります。それではそのことが分かるにはどうしたらよいのでしょうか。どうしたら私たちはイエスが私たちの教会におられると言うことを人々に伝えることができるのでしょうか。

③御言葉が正しく語られるところ

 イエスはシモンの家で集まった多くの人々に御言葉を語られました。御言葉が語られると言うことは、聖書の言葉が正しく教えられること意味しています。御言葉が正しく語られるところに主イエスは共におられるのです。もちろん、どの教会でもイエスの御言葉である聖書が語られているかもしれません。しかし、イエスの御言葉の権威がその教会で本当に認められているかどうかは別の問題であるかもしれません。ある人は「聖書の御言葉だけでは現代人には説得力がない」と言って、人間の思想や自分の勝手な考え方を聖書の言葉を使って語るかもしれません。しかし、その言葉には重い皮膚病の人を癒し、歩けない人を歩けるようにしたイエスの御言葉の権威が伴うことはありません。確かに、私たちが聖書の時代に起こったような奇跡を今、体験することは稀かもしれません。しかし、イエスの御言葉が正しく語られるところでは、昔と同じように神の御業は必ず実現するのです。私たちはその信仰を持って、聖書の御言葉を語り、またその御言葉に耳を傾けています。そしてイエスはその御言葉の権威を認める教会の礼拝を通して今も豊かに働き、ご自身がそこに共にいてくださることを明らかにしてくださるのです。

2.中風の人と四人の男
①自分の足で歩けない人

 さて、イエスの後に従う信仰生活を私たちが送るためには、まず私たちが自分の足で立って、歩くことができなければなりません。ところが今日の物語に登場する「中風の人」(3節)は、自分の足で歩くことができないのです。中風と言う病気は脳血管障害で手足が動かなくなる症状を総称していると言われています。そして、この物語では主イエスによってこの中風で自分の足で歩くことができないと言う症状が「罪の赦し」と関連付けて語られています。なぜなら、罪に支配される人間は、自由に身動きができないからです。確かに罪を犯し続けることはそのままでも可能かもしれません。しかし、罪人には神を信じ、イエスの後に従って歩む信仰生活を送ることはできません。そのような意味でこの中風の人は、私たち罪人の姿を象徴してここに登場していると考えられるのです。

②中風の人をイエスの元に運んだ四人の男

 幸いなことにこの中風の人には彼の病を心配し、その癒しを心から願う「四人の男」(3節)と言う存在がありました。この四人と中風の人の関係は聖書には詳しく語られていません。家族であったのか、それとも友人であったのかよく分からないのです。この聖書から推測して分かることは、四人の男は中風の人と違って自分の足で歩くことができたと言うことです。そして、彼らは「イエスの元にこの中風の人を連れて行けば必ず病を癒していただけるに違いない」と考えていた点です。それはこの中風の人を床に乗せてイエスの元に連れて来た彼らの行動から推測できるからです。
 この四人の男はイエスによって既に救われ、自分の足でイエスに従うことができるようになった私たちに信仰者の姿を象徴していると考えることができます。かつては私たちもこの中風の人と同じように罪に支配される不自由な生活を送っていました。しかし、イエスによって救われ、罪を赦された私たちは自由に神に従う信仰生活を送ることが可能となったのです。そしてこの救いの体験を持つ私たちはかつての自分たちと同じように罪に支配され動けなくなっている家族や友人もイエスの元に連れて行けば、救いを受けることができると信じることができるのです。そのような意味で聖書はこの四人こそイエスによって救われた私たちであり、彼らが中風の人をイエスの元に運んだように、私たちにも同じ伝道の使命が与えられていると教えるのです。

3.今日、この時の出会い

 今も昔も、伝道活動は決して容易なものではありません。イエスの元に中風の人を連れて行きたいと考えたこの四人の男たちの前にも障害が出現しています。イエスのおられた家の周りを群衆が取り囲んでいて、床ごと病人をイエスの元に運ぼうとする彼らの計画が阻まれてしまったのです。このままイエスに会うことができなければ、中風の人の病も癒されずに終わります。ところがここで四人の男は自分たちの計画を実現させるために非常識とも言える行動を実行します。イエスのいる家の屋根に上って、その家の屋根をはがし、中風の人を床ごとイエスのいる場所につり下ろしたと言うのです。きっとこの家の持ち主のはずだったシモン・ペトロは特別に驚いたはずです。「あの時は自分の家が壊されるのではなかと驚いた。しかし、そこでもっと驚くことを私は体験したのだ」。ペトロはこの福音書の記者マルコにそのように語ったはずです。
 「伝道のためには手段は選ばない」、「時には非常識と思われることをしても人々を教会に導くべきだ…」、この物語はそのようなことを私たちに教えているのではありません。むしろ、この物語は私たちがイエスに出会うチャンスは今を逃してはないと言うことを教えようとしているのです。もし彼らが、「これではだめだ。今日は諦めて、また今度にしよう」と考えていたら、今日のこの物語の続きは実現していませんでした。「今日、イエスに是非お会いしたい。そして、この人の病を癒してもらえるようお願いしよう。この機会を逃したら、絶対だめだ」と彼らが強く思ったからこそ、彼らは他人の家の屋根を壊すという非常識な行動を選んだのです。
 このように「今日、イエスにお会いしたい」、「礼拝で語られる聖書のメッセージを通して、イエスに出会いたい」、「イエスに癒していただきたい」と考えることは大切です。なぜならば、私たちの信仰生活はこの貴重なイエスとの出会いが実現する「今日」と言うを体験することだからです。私たちは自分の信仰生活この「今日」と言う日を体験すうことで感動と喜びに満たされて生きることができるのです。もし私たちが「今日でなくても、明日がある。いつか近いうちに」と考えているなら、せっかくのイエスとの出会いの機会を失ってしまい、形ばかりの信仰生活を送らなければならなくなるはずです。イエスは中風の人を連れてきた四人の男の信仰を見て、それに答えるように「子よ、あなたの罪は赦される」と中風の人に語りかけ、彼の病を癒してくださったのです。同じように、イエスは「今日、イエスに出会いたい、今日イエスの恵みに与りたい」と願う私たちに必ず答えてくださるはずです。

4.イエスの御言葉の権威
①人の言葉を語った律法学者

 さてこの物語はイエスの奇跡を伝えるだけではなく、イエスの持つ「権威」という問題についても取り上げて語っています。そこに居合わせた律法学者たちがイエスの言葉を聞いて、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」とつぶやいたからです(7節)。この律法学者たちの問いはある意味で正しいものでした。なぜなら罪を赦すことができるのは「神おひとりのほか」おられないからです。しかし、彼らはここで罪の赦しを宣言されているイエスがその神から遣わされた方であり、神の独り子であることを理解することも、信じることができなかったのです。
 この律法学者たちは当時のユダヤ人社会では最も優れた聖書の知識を持っていたエリートたちでした。しかし、彼らは聖書の言葉を学びながら、聖書の教える救い主イエスとその権威を認めることができなかったのです。その意味で彼らは聖書を学び、人々に語りながら、聖書の教えるメッセージではなく、彼らの考えた「律法主義」という思想を語ったに過ぎなかったのです。彼らのようにどんなに聖書の言葉を数多く引用しても、そこで語られる言葉が人間の側から生まれた思想ならば、その言葉には人を救う権威も力もないのです。

②罪を赦すことのできる権威はどこから

 「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(8〜10節)。

 律法学者たちは「あなたの罪は赦される」などと言ういい加減で、でまかせな言葉をイエスは語っただけだと考えていたのでしょう。しかし、イエスの言葉は決していい加減でも、でまかせな言葉でもありませんでした。その事実を示すようにイエスが中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と語ると、その人は「起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」と言う奇跡が起こります。これは実際にイエスの言葉が語られるときに、この人の上に罪の赦しが実現し、この人が罪から自由にされて、神に従う人生を始めることができたことを表す出来事となったのです。
 人の語る言葉や、この世の思想には私たちの罪を赦す権威も力もありません。罪を赦すことができるのは神から遣わされた真の神の子イエスお一人であり、この赦しはイエスの御言葉である福音のメッセージが伝えられるところで実現するのです。そして教会はこの生けるイエスの御言葉が語られる場所なのです。
 それではどうしてイエスの語る言葉には権威があり、私たちの罪を赦す力があるのでしょうか。それはこの方だけが私たちの罪を赦すために十字架で命を捨て、私たちのために甦ってくださった方だからです。確かに私たちは伝道するときに、「聖書の言葉など時代遅れだ。そんな非科学的な教えなどに魅力も力もない」と言う言葉を聞くことがあります。しかし、聖書の言葉の権威は科学や人間の力で裏付けられるものではありません。むしろ今も生ける主イエスご自身が実際にその御言葉を信じる私たちに罪の赦しを与え、私たちの人生を新たなものとしてくださることによってその権威を私たちに明らかにしてくださるのです。
 このイエスの御言葉の権威を信じて、イエスの御言葉が教会の礼拝で語り続けられるとき、その礼拝はこのカファルナウムのシモンの家と同じように主イエスの恵みに満たされた場所となることを私たちは信じて行きたいと思います。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちにイエス・キリストの御言葉を与え、その言葉を通して私たちを罪から自由にしてくださるあなたの御業に心から感謝します。私たちはこの聖書の言葉の権威と確かさを証明してくださるのがあなた自身であることを信じています。どうか私たちがそのあなたに出会う機会を真剣に求め、今日と言うこのときをあなたとの出会いを通して喜びと感謝の時とすることできるようにしてください。願わくは、中風の人をイエスの元に運んだ四人の男たちと同じように、私たちもまた、私たちの友や家族をあなたのもとに連れていくことができるようにしてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがカファルナウムの家に戻られたというニュースが知れ渡ると、そこでどんなことが起こりましたか(1〜2節)
2.四人の男は中風の人を床のまま運んできて、そこで何をしようと考えましたか。彼らは障害のために自分たちの計画がこのままでは実現できないと知ったとき、何をしましたか(3〜4節)。
3.イエスは中風の人に何と語り掛けられましたか(5節)。この言葉を聞いた律法学者たちは心の中でどんなことを考えましたか(6〜7節)。
4.イエスは律法学者たちの考えを知られると、彼らに何とかたられましたか(8〜10節)。
5.どうして人の子(救い主イエス)だけが地上で罪を赦す権威を持っておられるのでしょうか(10節)。
6.イエスの語られた御言葉によってどんな驚くべきことがここで起こりましたか(12節)。
5.この出来事を目撃した町の人の反応はどのようなものでしたか(12節)。