2017.10.29 説教 「罪人を招くために来られた方」


聖書箇所

マルコよる福音書2章13〜17節
13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


説 教

1.信仰とはイエスとの出会いから始まる
①イエスに出会ったレビ

 キリスト教信仰とは何かと言う質問に対して、様々な答えを考えることができるかもしれません。キリスト教信仰について、哲学のような学問と同じように一つの思想の体系のようなものと考える人がいます。信仰者はその思想体系を学び、それを自分の人生に応用して生きる、それが信仰生活だと考えるのです。しかし、聖書が示すキリスト教信仰はそのようなものではありません。なぜなら、私たちの信仰の対象は今も生きて働いてくださる神さまだからです。ですからキリスト教信仰とはこの生ける神と出会い、そしてその神に従って行く生活であると言えるのです。そのような意味でこの信仰生活の出発点は出会いから始まると言ってよいのだと思います。今日の聖書の物語にはアルファイの子レビと言う人物とイエスとの出会いが記されています。レビはイエスとの出会いによって彼の弟子となりました。この「弟子」と言う言葉の本来の意味は「師匠に従う者」と言う意味ですから、レビはイエスとの出会いによってイエスに従う弟子としての生活を始めたのです。私たちはこのレビとイエスの出会いから、私たちと神様との出会いのすばらしさを知ることができます。

②自分たちの価値観で人を見ることの誤り

 また、この物語はレビとイエスとの出会いを記すだけではなく、さらにその出来事を通して発生したもう一つのお話を伝えています。それはイエスとファリサイ派の律法学者との間に起こった論争です。少し前に私たちはイエスが中風の人を癒されたという物語を学びました(1〜11節)。そこでも律法学者たちはイエスの「子よ、あなたの罪は赦される」と言う言葉を聞いて「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と心の中でつぶやいたと記されています。ファリサイ派の律法学者たちはどうもイエスの言葉や行動が気になって仕方がなかったようです。もちろん、良い意味でイエスのことをもっと知りたいと言う好奇心であるならば、文句はありません。しかし彼らの関心はそのようなものではありませんでした。彼らは自分たちの持っている価値観に縛られていました。だからその価値観から外れるような行動をするイエスが気になり、邪魔者のように感じていたのです。
 人との出会いにおいて、もっとも私たちが最も避けなければならないことは何かと言えば、それは自分の持っている価値観、自分の持っている枠組みに照らし合わせて人を見ようとする傾向です。結局はこのように自分の価値観を通して人を見るなら、ほとんどの人は自分の眼鏡には合わない、不適切な人物と言うことになってしまうはずです。ですから、このような生き方には新たな出会いは生まれることがありません。周りにいる人は友人であるように見えながら、実はその人の要求に必死に合わせているだけの人々でしかなく、それは本当の友人とは呼べないのです。
 これは神さまとの出会いでも同じことが言えます。私たちの持っている価値観を基準に神さまを理解しようとするなら、本当の神さまとの出会うチャンスは生まれて来ません。聖書に登場するファリサイ派の律法学者はこのような誤りを犯したために、イエスを理解できず、そのイエスが提供する福音も拒否せざるを得なかったのです。

2.弟子として召されたアルファイの子バルナバ

 イエスは少し前にガリラヤ湖のほとりで、四人の漁師を弟子にされました。シモンとシモンの兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの四人です(1章16〜20節)。そして今日の箇所では新たに五人目の弟子が選ばれています。アルファイの子レビ、彼は教会の伝承によれば後にマタイの福音書を記した人物だとされています。彼の職業は徴税人であったようです。当時、ユダヤの地を支配していたローマ帝国はその支配地域の住民から様々な形で税金を徴収していました。徴税人はその税金を直接人々から集める仕事をしていました。ローマ帝国はこの徴税人に決められた額の金額を国家に納めるように要求しました。徴税人はローマのために働く下級役人のような人々であるといえましたが、ローマは彼らに給与を支払っていた訳ではありませんでした。その代わり、ローマは徴税人がそれぞれに人々から要求する税金の額を自由に決めてよい権利を与えていました。つまり、人々から過酷に税金を取り立てれば取り立てるほど、徴税人の懐は潤っていくのです。このため同じユダヤ人でありながら、ローマの権威を盾に、人々から税金を取り立てる徴税人は誰からも嫌われる存在であったようです。レビもそのような徴税人の一人であったと言うのです。

 「そして(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(14節)

 聖書はイエスとレビとの出会いをこのように記しています。ここから分かる点は、この出会いはイエスからの一方的な働きかけによって起こったと言うことです。レビは収税所に座っていただけでした、ここにはレビが「イエスを見た」と言う言葉さえ記されていません。おそらく、レビは毎日繰り返される日常生活を送っていたはずです。レビは誰かとの出会いを期待してそこに座っていたのではないのです。彼はいつものように税金を取り立てることのできる相手を探すためにそこに座っていたからです。
 この出会いのきっかけはイエスが収税所に座っているレビを見かけたことでした。イエスのレビに向けられたまなざしが、大切な出会いを生み、レビの人生を変えるきっかけとなって行ったのです。イエスとの出会いはイエスの一方的な行為によって始められます。それでは私たちにとって、このイエスのまなざし、イエスの一方的な働きかけとは何を意味するのでしょうか。それは私たちに福音が伝えられるという出来事を通して起こります。それまで私たちはレビと同じように繰り返さる日常の中で神さまのことも忘れて生活していました。ある説教者は収税所に座っているレビを床に寝たまま立つことができかった中風の患者と同じだと語っています。レビもまた自分の力で新しい人生のために立ち上がる力を持っていませでした。生きている喜びも感じることなく、日常の生活の中に縛られて自由を失っていたのです。しかし、そのレビの人生を変える出会いがイエスの側の働きかけから始まるのです。私たちに伝えられた福音は私たちの人生を変えようとするイエスの側の働きかけそのものなのです。なによりも私たちに伝えられる聖書の福音は、救い主イエスが私をどのような目でご覧になられているかを明らかに示しています。私たちに向けられたイエスの目は、私たちを裁くような冷たい目ではありません。むしろ、長い間探し訪ねていた我が子を見つけ出した父親のような喜びと愛に満ちたまなざしなのです。
 レビはイエスの「わたしに従いなさい」と言う言葉にすぐに従って立ち上がります。それは自分に向けられたイエスの愛に満ちたまなざしに気づく者が取るべき自然な反応と言っていいでしょう。先に弟子とされた四人に比べ、このレビの召命は彼の人生に重大な影響を与える決断だったとも言えます。なぜなら、ガリラヤ湖の漁師であった四人は、たとえ網を棄ててイエスに従っても、再びガリラヤ湖に戻り漁師の生活を再開することができたはずだからです。しかし、レビの場合は違います。ローマの役人として持っている地位や利権は一度手離してしまえばそれを取り戻すことはほとんど困難です。しかし、彼はそんなことはお構いなしのように、すぐにイエスに従います。イエスはあるところで「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(8章36節)と語っています。レビはこのとき、自分が失ったものとは比べることのできない「自分の命」をイエスの弟子となることで得ることができたのです。

3.イエスに出会うことができない人々

 以前、アメリカ人の宣教師からこんなお話を聞いたことがあります。ある男性が地上の生涯を終えて天国に凱旋しました。すると慣れない彼のためにペトロが天国のあちこち案内してくれることになりました。一通り天国を案内された後、ある一つのドアの前に立ったペトロは「この部屋の前は静かに通り過ぎてください」と言いました。そのことが不思議に思った男性はその理由はペトロに尋ねました。するとペトロはこう答えたと言うのです。「この部屋の中にはバプテスト教会の人たちが集まっています。彼らは天国には自分たちしかいないと思っているので…」。
 このお話には他にも様々なバージョンがあるようです。私も同じ話をバプテスト教会ではなく正統長老教会という名前で聞いたことがあります。これはあくまで笑い話です。実話に基づくものではありません。
 聖書に登場するファリサイ派の律法学者たちは自分たちの確信として、天国には自分たちしか入れない、自分たちのほかはいないと考えていました。もともと「ファリサイ」と言う言葉は「別れた者」と言う意味で、普通の人と自分たちは違うと言う意味を強調する言葉なのです。彼らは聖書に記された律法、神さまの定めてくださった掟を厳格に守る人々でした。そのような考えを持ったファリサイ派の人々はここでもイエスの行動に異を唱えています。

 「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。

 徴税人は先ほども申しましたようにユダヤ人でありながらローマ帝国の手先となって同胞を苦しめる裏切り者たちと人々から考えられていました。次にここで「罪人」と言う言葉が登場します。これは別に何かの重大な犯罪を犯した人を指しているのではなく、ファリサイ派の人々から見て、神さまの掟を熱心に守ろうとしない不真面目な人々を指す言葉です。ですからファリサイ派の人々は自分たち以外の人々を「罪人」と呼び、差別し、軽蔑していたのです。
 「一緒に食事をする」と言う行為は天国の祝福を象徴する行為としてもよく聖書の中で用いられています。ファリサイ派の人々にとって「一緒に食事をする」と言う行為は、やがて実現する天国の状況をこの地上に再現するような重要な行為だったのです。だから彼らは自分と一緒に食事をする人々を徹底的に選別しました。ところがイエスはこのファリサイ派の人々が絶対に食事の席に呼ぶことはないような人々と一緒に食事をしたのです。なぜこんなことをするのか。彼らは自分たちの考えと全く違った行動をとるイエスを受け入れることができず、非難したのです。

4.私の名前は「罪人」=聖書の正しい読み方

 イエスはこのファリサイ派の律法学者たちの非難に次のように答え、ご自分が救い主としてこの地上に何のために来られたのか、その目的を明らかにしてくださっています。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)

 このイエスの言葉から分かることは、イエスは深刻な病で苦しむ私たちを癒し救うためにやって来てくださった救い主であると言うことです。もちろんこの病はがんや脳卒中と言ったようなこの世の医学が取り扱う病気ではありません。イエスが取り扱うのは人間すべてが犯されている罪と言う魂の病であり、その罪によって死の呪いの下にある人々です。聖書が語る「罪人」とはこの病に犯された人を言っているのです。しかも聖書は「正しい人は一人もいない」(ローマ3章10節)と言っています。つまりこの世に正しい人は一人も存在せず、皆、罪人であって、魂の医者であるイエスの助けを必要としていると言うのです。そのような意味でイエスは救い主としてすべての人々を招くためにこの地上に来られた方と言ってもよいのです。
 ところがファリサイ派の律法学者たちはこのイエスの招きに答えることができません。自分たちがイエスに招かれていると言う事実にすら気づくことがないのです。それはどうしてでしょうか。彼らは自分たちを「正しい人」だと勘違いしていたからです。だからイエスの招きを聞いても、そこで自分たちが呼ばれているとは気づけなかったのです。この勘違いは深刻です。なぜならこの勘違いによって彼らはイエスを拒み、イエスを殺そうとまでするようになったからです。彼らは聖書を熱心に学びながら、その聖書を正しく理解することができなかったのです。
 私たちが聖書を読む際に大切なことは、聖書は私のために書かれていると言う観点から学ぶと言うことです。聖書を読む読み方は様々です。中には聖書の言葉を使って人を裁いたり、社会を批判する人もいます。しかし、聖書を正しく読むためには、この書物は自分のために書かれたものと言う視点が必要なのです。そしてそのように聖書を読む人こそ、自分に向けられたイエスのまなざしに気づくことができ、イエスの後に従う信仰生活を始めることができるのです。
 まだアメリカに奴隷制度が残っていたときのお話です。一人の白人の農園主が馬車に乗って自分の農園を視察していました。すると彼は道の片隅に腰を下ろし、一冊の書物に目を通している一人の黒人奴隷を見つけました。彼はすぐにその奴隷に声を掛けます。「おい、お前、そんなところで仕事もせずに何をしているのだ」。すると奴隷は答えました「ご主人様、聖書を読んでいるのでございます」。農園主は言いました。「その本はお前のようなものたちのために書かれたものではないぞ…」。すると奴隷は次のように答えます。「ですがご主人様。この本の中には私の名前が何度も出てくるのです」。その言葉を不思議に思った農園主は奴隷が指さす聖書の言葉を捜しました。するとそこには「罪人」と言う言葉が記されていたと言うのです。
 イエスは魂の名医として私たち一人一人を招いてくださっています。この方は私たちと出会い、私たちと新しい人生を始めたいと願っておられるのです。そして聖書に記されている「罪人」と言う言葉を、自分への呼びかけの言葉だと信じる人には、この出会いが生まれるのです。私たちもこのイエスの招きに答えて、イエスの弟子としてこれからも歩んで行きたいと思います。


祈 祷

天の父なる神さま
 罪と死に支配される私たちを癒し、私たちに命を与えるためにイエス・キリストが私たちを招き、私たちをイエスに従って生きる弟子としてくださったあなたの御業に心から感謝します。どうか私たちが信仰生活の中で、自らの業を誇って傲慢になり、あなたの恵みの御業を忘れることがないようにしてください。願わくは私たちに自らの犯した罪が示されるとき、それを悔い改めて、あなたの招きに答え喜びをもって答えることができるようにしてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはどこに行かれましたか。そこに何をするために行かれたのですか(13節)
2.イエスは通りがかりに誰が何をしているのをご覧になられましたか(14節)
3.イエスはアルファイの子レビに何と語られましたか。イエスのこの言葉はどのような意味をもっているものでしたか。レビはこのイエスの言葉にどのように反応しましたか(14節)
4.イエスはレビの家で何をされていましたか。そこにはどのような人が集まっていましか(15節)
5.ファリサイ派の律法学者たちはイエスのどのような姿を目撃して、弟子たちに何を語りましたか(16節)
6.イエスはファリサイ派の人々の思いを聞いてどのように答えられましたか(17節)。このイエスの言葉から彼が何をするためにこの世に来られたことがわかりますか。