2017.10.8 説教 「わたしたちの罪をゆるしてください」
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聖書箇所
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マルコによる福音書2章5節
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた」。
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説 教 |
1.どうして罪のゆるしを求めるのか
①教会には問題のある人が集まる
教会の玄関に毎週の礼拝の説教題がきれいに筆書きされて貼られています。今日はその看板に「わたしたちの罪をゆるしてください」と言う主の祈りの言葉の一部が記されています。この文章を聖書やキリスト教のことを全く知らない人が読んだらどう思うのだろうと少し考えてみました。普段、教会に通い慣れている私たちは「罪のゆるし」と言う言葉についてあまり疑問を感じることはないはずです。しかし、この言葉に馴染みのない人が読めば、「教会って、罪をゆるしてもらわなくてはならない犯罪者たちがたくさん集まるところなのかな…」。そんなふうに考える人がいるかもしれません。幸いなことには私は教会の牧師をしていて、今まで「あなたは前科何犯ですか?」と言うような質問を受けたことはありませんが…。
「教会は、何か問題のある人だけが集まるところだ…」。教会をよく知らない人の中で、そう考える人も多いようです。そんな人が今日の看板の文字を読んだら「やはりここは自分が犯した重大な罪について悩んでいる人が集まるところだ」と自分の持っている確信を深めるかもしれません。
確かに教会には人生についての様々な問題を持った人が集まります。私たちは問題があるからこそ神さまに助けていただきたいと願うはずだからです。しかし、誤解してはならないことは、聖書はすべての人が深刻な問題を持っていると指摘している点です。聖書によれば問題のない人などこの世には一人も存在しないのです。そのような意味で教会は問題を持った普通の人が集まるところであると言えるかもしれません。
②罪によって分断された関係
それでは聖書が「すべての人は重大な問題を抱えている」と語るとき、その問題とはいったいどんなことを言っているのでしょうか。実はこの問題に深く関わって来るのが「罪」と言う言葉です。なぜなら、聖書は人間の罪こそが私たちの人生にとって最大の、そして根本的な問題だと教えているからです。
しかし、聖書が語る罪はこの世の人々が考える罪と違っていることをまず理解する必要があります。この世に存在するすべての国は法律があります。私たち一人一人がこの法律に従うことによって社会の秩序は守られ、私たちの安全も確保されるからです。この世が「罪」と言う場合にはこの法律に違反するような反社会的な行為を指していると言えます。このような「罪」の問題を取り扱うためにこの世には警察があり、裁判所が存在するのです。そして教会がこのような法律違反の「罪」を取り扱うことはほとんどありません。
それでは教会が取り扱う「罪」とはどのようなものなのでしょうか。実は教会が取り扱う罪は人と人との間に起こる反社会的な行為とは違い、神さまと私たちとの関係の中に起こる問題について語っているのです。聖書の語る罪は私たち人間が神さまに従わないで、逆らいながら生きている状態を指しているのです。ですから、人間はこの罪が解決されないかぎり、神さまと共に生きることができません。聖書の教えによればこの神さまは私たちの命の源のような方ですから、私たちにこの罪が解決されない限り、神さまから命をいただくことができず、死を待つほかないのです。
先日テレビで日本軍が太平洋戦争中にインドで行ったインパール作戦についての記録が放送されていました。無謀な作戦の指導者は食料や弾薬の補給路を十分に確保することなく、大量の兵士をジャングルのような厳しい戦場に送り込みました。しかし、補給路がないために日本兵の大半は戦わずして餓死したり、病気になって死んで行くしかなかったのです。神さまとの関係が断たれた人間の人生も同じようなものです。厳しい人生の中で、豊かな社会の姿とは裏腹に私たちの心は空虚な思いに支配されています。たくさんの人々の中に生きていても、深刻な孤独と言う寂しさの中で生きざるを得ず、やがて私たちは一人死んで行かなければなりません。
ですから「わたしたちの罪をおゆるしください」という願いは、「神さまとの命の関係を回復させ、その関係の中で生きることができるようにしてください」と言う願いでもあるとも言えるのです。もし、私たちが持っている罪の問題が解決されれば、私たちと神さまとの関係が回復し、私たちの人生は死から命へと移されるからです。
2.ゆるしの根拠をどこに求めるのか
①どうしたら罪はゆるされるのか
主イエスは私たちに毎日祈るようにと教えてくださった「主の祈り」、その祈りの中には「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください」と言う願いが含まれています。イエスは「あなたたちの罪がゆるされるように、神さまに祈りなさい」とこの「主の祈り」を教えてくださったのです。確かに私たちが誰かに罪を犯し、その犯した罪のゆるしを求めるなら、私たちが罪を犯した相手にゆるしを求めなければなりません。ですから神さまに対して私たちが犯した罪をゆるすことができるのは神さまだけしかおられないのです。しかし、ここで問題になるのは「どうしたら私たちの罪を神さまからゆるしていただけるのか」と言うことです。何もしないでも自分が犯した罪がゆるされるならそれに越したことはありませんが、そんな都合のよいことはまずあり得ません。この世でも罪を犯した者は必ず法律に基づいて裁きを受け、その法律に従って何らかの償いを支払う必要が生まれます。実はこの主の祈りの「わたしたちが犯した罪」と言われているところはもともとの原文の意味では「私たちの負債」と言う言葉になっています。誰かに対して負債を負っているなら、それその人に返さなければ私たちは負債から解放されることはできないのです。
主の祈りの「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください」と言う祈りの言葉を聞くと、私たちは「神さまは私たちの犯した罪をゆるしてもらいたいなら、まずあなたたちが先に人の罪をゆるすべきだ」と言っていると考えてしまうかもしれません。つまり、人の犯した罪をゆるすことが神さまから私たちに求められているゆるしの条件だと考えるのです。しかし、主の祈りの文章は正しく訳すと「私たちの犯した罪をおゆるしください。私たちが私たちに罪を犯した人のゆるしたように」となっています。原文の意味から考えるならこの私たちが人の罪をゆるすのは、私たちがゆるしてもらうための交換条件ではなく、むしろ、神さまにどんなふうに自分がゆるしてほしいのかを説明している文章となっているのです。だからこの祈りはわたしがしたように神さまも同じようにしてくださいと願っているのです。
聖書には天文学的な借金を王様から負っている家来が、その王様の好意で返済をゆるしてもらったと言うお話が記されています。しかしこの家来はせっかく自分の借金を王様からゆるしていただきながら、自分に対してわずかな借金を負っている仲間をゆるすことができなかったのです。そのため彼は王様からせっかくいただくことのできたゆるしを失ってしまいます。仲間をゆるさなかった家来の行動を聞いた王様が心を痛めたからです(マタイ18章21〜31節)。この王様は家来がその仲間に対してしたことと同じことをしたのです。つまり、主の祈りはこの王様と同じ取り扱いを私たちにするように神さまに求めていることになります。
②イエスによって私たちの罪はゆるされる
実はこのイエスのたとえ話の中で最も大切なのは莫大な借金を背負った家来がゆるされる根拠はどこにあったかと言う問題です。イエスはこのたとえ話の中でその理由を次のように説明しています。「この家来の主君は憐れに思って、その借金を帳消しにしてやった」(マタイ18章27節)。この借金のゆるしは王様の側の一方的な憐れみの行為によって行われているのです。家来が何かをしたから、王様はその交換条件で家来の罪をゆるしたと言う訳ではないのです。
神さまに対して犯した罪を解決する方法を私たち人間は持っていません。ですからその解決方法は神さまだけが知っており、またそれを行うことができるのです。そして聖書が私たちに教える福音の中心はこの解決方法が救い主イエスによって私たちに示されたと言うことなのです。救い主イエスがこの地上に遣わされたのは神さまの憐れみによるのです。神さまはこの救い主イエスによって私たちが負っている負債、つまり私たちの罪を解決して、私たちと神様との関係を回復しようとされたのです。そして私たちの人生を死から永遠の命の祝福へと導いてくださるのです。神さまは天文学的な負債を神さまに負っている私たちを救うためにイエスを遣わしてくださったのです。
救い主イエスは十字架にかけられました。この十字架は当時のユダヤでは国家反逆罪と言うような最も重い罪を犯した人に下された処刑方法です。イエスはどうしてこのような方法で死ななければならなかったのでしょうか。それは神さまに対して反逆の罪を犯した私たちの代わりにその負債を償ってくださるためです。そしてイエスが私たちの負債を十字架の死を通して完全に支払ってくださったので、私たちの犯した罪はゆるされるのです。
そのイエスが私たちに「私たちの犯した罪をおゆるしください。私たちが私たちに罪を犯した人のゆるしたように」と祈るようにと主の祈りを教えてくださったのです。もし私たちの犯した罪がゆるされる条件が、私たちが人の罪をゆるすことにあると考えるなら、私たちの犯した罪が完全にゆるされる日はやって来ることはないでしょう。おそらく、私たちはその日を迎えることができないまま、この地上での生涯を終えなければならないはずです。そのままでは神の厳しい裁きの座の前に立つことは決してできません。
もしこの主の祈りへの神の答えが私たちの態度次第で変わってしまうと言うならば、これほど頼りにならない祈りはないと思います。しかし、この主の祈りが私たちを助ける祈りとなるのは、この祈りを私たちに教えてくださった主イエスの側に私たちの罪がゆるされる根拠が置かれているからです。主イエスが十字架の上で私たちの負債を完全に支払ってくださったからこそ「私たちの犯した罪をおゆるしください」と祈ることができるのです。
3.毎日、ゆるしを祈り求めるのか
しかし、それではなぜ主の祈りは「私たちに罪を犯した者をゆるしましたから」と言う文章をわざわざ付け加えているのでしょうか。「イエスさまが十字架にかかって死んでくださったので、私たちの犯した罪をおゆるしください」と祈ってはいけないのでしょうか。さらに、私たちの罪がイエスの十字架によってゆるされるとしたら、どうして私たちは自分のためにこれからも続けて「罪のゆるし」を求め続けて行かなければいけないのでしょうか。
まず、「私たちに罪を犯した者をゆるしましたから」と言うことについて考えてみましょう。そもそも、私たちが人をゆるすことが自分のゆるしを受けるための条件でないとしたら、なぜ私たちは人の罪をゆるす必要があるのでしょうか。その答えは先ほどお話したイエスのたとえ話に載っています。王様はここで「わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18章33節)と語っています。王はこの家来に自分の負債がゆるされた喜びを、仲間の負債をゆるすことで表すようにと願われたのです。つまり人の罪をゆるすことは、私たちが神さまからゆるされた喜びを表す手段なのです。ですから、私たちがもし人の罪をゆるせないとしたら、それはまだ自分が神さまからゆるされたことを喜んでいないと言うことになります。それでは私たちが人の罪を喜んでゆるすことはできないからです。つまり、人をゆるすことは私たちが神さまからのいただいたゆるしを喜んでいるかどうかを表すバロメーターの役割を示しているのです。
主の祈りは「私たちに今日もこの日の糧を与えてください」と祈るようにと勧めています。私たちが毎日、この祈りの必要を感じるのは実際に私たちの肉体が空腹を覚えることができるからです。だから毎日熱心に食物を祈り求めることができるのです。罪の赦しに関してはどうでしょうか、私たちはどれだけこのことが自分にとって必要なのかを十分に理解していでしょうか。またどれだけ神さまからゆるされることが素晴らしいことなのかも分かっているでしょうか。イエスは私たちに「私たちに罪を犯した者をゆるしましたから」と祈りなさいと教えてくださいました。それは私たちがこの祈りを祈るたびに、忘れていたもの、鈍感になっていた感覚が再び甦り、私たちに向けられた神のゆるしのすばらしさを感じることができるようになるためなのです。
「なぜ、自分はこんなに人をゆるすことができないのだろう」。そう思ったときに私たちは自分のためにイエスが十字架にかかってくださったこと、自分の罪をゆるされるためにイエスが命をささげてくださったことを忘れてしまっていたことに気づきます。そのうえで、私たちをもう一度、私たちの心をイエスに向ける再決心をすることができるのです。
イエスは十字架の上で私たちの罪の負債を完全に支払ってくださいました。私たちの罪は確かにゆるされたのです。しかし、主イエスはそれでもなお私たちに主の祈りを毎日祈り続けなさいと命じています。
「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください」。
この祈りは私たちが神さまによって赦されたという恵みの中に留まり続け、私たちの毎日を罪ゆるされた者の喜びで生きることができるようにするために神さまから与えられたプレゼントであると言えるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちの憐れみ、私たちを罪から救い、私たちがあなたの命にあずかるために、私たちに救い主イエスを遣わしてくださった恵みを心から感謝いたします。私たちの犯した罪はこのイエスの十字架の贖いによってすべて解決されたことを覚えて心から感謝します。それゆえ、私たちは今日も「私たちに罪を犯した人をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください」と祈ることができます。どうか、私たちがこの祈りを祈ることを通して、あなたに赦された喜びと感謝を覚えることができるようにしていください。聖霊の助けを持って、私たちが人の罪をゆるすことができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.聖書が教える罪は、この世の人々が考える罪とどこがどう違っていますか
2.どうして主イエスはどうして私たちに自分の犯した罪がゆるされるように神さまに祈るべきだと教えられたのですか。
3.神さまは私たちの罪をゆるされるために私たちの側に何かの条件を求めていますか。
4.マタイによる福音書18章21〜31節の物語を読んでみましょう。この王様(主君)が神さまだと考えると、神さまは罪をゆるされた私たちに何を望まれていることがわかりますか。
5.十字架にかかって死んでくださったイエスの内に私たちがゆるさえる根拠があるとしたら、私たちはそこからどのような信仰の確信を受けることができますか。
6.もし私たちが主の祈りを祈るときに「人をゆるすことができていない」と気づいたなら、私たちはどうしたらよいと思いますか。
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