2017.11.12 説教 「誘惑と悪から守ってください」
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聖書箇所
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マタイによる福音書26章41節
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
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説 教 |
1.何も祈ってよいのか分からない私たち
この伝道礼拝では一年間、皆さんと一緒にイエスの教えてくださった「主の祈り」を学んできました。この主の祈りの本文はマタイによる福音書(6章9〜13節)だけでなくルカによる福音書(11章2〜4節)にも記録されています。そしてルカによる福音書の方では主の祈りがイエスから弟子たちに教えられるきっかけとなった出来事が次のように記しています。
「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った」(ルカ11章1節)。
弟子たちはこの時、祈るイエスの姿を目撃し、「わたしたちにも祈りを教えてください」とイエスに願ったと言うのです。ユダヤ人にとって神への祈りはその日常生活から切り離すことのできない重要な行為です。弟子たちも子どもの時から祈ることを知っていましたし、実際に今まで祈って来たのだと思います。ところがその弟子たちがここでイエスに「祈ることを教えてください」と願ったのは、自分たちが目撃したイエスの祈りの姿とその祈りの内容が自分たちの祈りの姿とその内容からあまりにもかけ離れていることを知ったからではないでしょうか。弟子たちはたぶん、この時「イエスの献げる祈りこそ真実の祈りに違いない」と確信したのでしょう。だから、弟子たちはここであたかも祈りを全く知らない初心者のような気持になってイエスに「祈りを教えてください」と願い出たのです。
信仰生活を長く続けていると誰でも祈ることに慣れて行きます。私たちは最初に教会に行って、そこに集まる人たちの祈りを必死に真似ながら、心臓をどきどきさせながら祈りを献げた、あの体験をいつの間にか忘れてしまっています。そして、「もう誰に教わらなくても祈ることぐらいできる」と思い込んでいるのです。
イエスの教えてくださった「主の祈り」を学ぶとき、私たちもイエスの祈る姿を目撃して驚いた弟子たちのような衝撃を受けるはずです。なぜなら、ここに記されている祈りは私たちの自然な願望からは生まれてこないような願いが並んでいるからです。イエスは私たちが毎日の生活で祈らなければならない事柄を「主の祈り」の言葉の中にコンパクトに納めてくださいました。だからこの主の祈りを祈れば、私たちの人生に本当の祝福が与えられはずなのです。ところが私たちはこの「主の祈り」が自分たちの人生に祝福を招く祈りであることを理解できません。なぜなら、私たちがこの主の祈りを理解するためには、私たちが今まで持っていた様々な過ちや誤解に気づかなければならないからです。
たとえば、ある人は神に祈ることを魔法使いの呪文のようなものと考え、何でも祈りさえすれば自分の願望がすべて実現すると勘違いしています。たとえばそれは、私たちがタクシーに乗った客だとすると、神はそのタクシーの運転手だと考えるような誤解です。運転手は「そっちに行け」、「あっちに行け」、「そこを曲がれ」と言うような客の指示に従って車を運転していきます。ある人々は神をこのタクシーの運転手のように考え、自分たちの言うことだけをかなえてくれればいいのだと思っているのです。
しかし、実際には私たちは運転手に指示できるような者たちではありません。なぜなら私たちは自分の人生の行き先さえ知らない者たちだからです。だから主の祈りは「御心が行われるように」と祈れと私たちに教えています。私たちは自分の人生のすべてを私たちの人生の運転手である神にお任せする必要があるのです。そうすれば神は必ず私たちを正しい道に導き、正しい目的地にも導いてくださるのです。
その他にも私たちは「日ごとの糧を与えてください」と祈れと教えられても、なぜそれを毎日神に祈り求めなければならないのかを知りません。「そんなものはすべて自分の力で得るものだ」と考えているからです。また、なぜ他人の罪を赦す必要があり、そして自分の罪を神から赦してもらうことが必要なのかと疑問に思っています。それよりも自分に害を加えた者を厳しく罰することのほうが自分の心がすっきりしますし、自分の犯した罪など忘れてしまったほうがよいと考えているからです。しかし私たちはこの主の祈りの内容に導かれて、長い間抱き続けて来た誤解から解放され、自分の人生において大切なことは何であるのかを知ることができるのです。
2.自分が弱い存在であることも知らない私たち
教会の今月の聖句は主イエスが弟子たちに語った「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26章41節)と言う言葉になっています。この言葉はイエスが十字架にかけられる直前に熱心に祈りを献げられたゲッセマネの園で、そこに同行して来ていた弟子たちに向けて語られた言葉です。実はこのゲッセマネの園での出来事を取り上げている物語を福音書(マルコ)は違いますがこの後の聖書研究会でも学びます。このときペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子はイエスに「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていないさい」(38節)と命じられていました。ところがこの三人の弟子たちは、イエスが熱心に祈っているすぐそばで眠り込んでしまうのです。やがて、イエスはすっかり眠り込んでいる三人の弟子たちを見つけて彼らにこの言葉を語られたのです。ところが、この後もすぐに三人の弟子たちはまた眠ってしまっています(43節)。
このとき、イエスの弟子たちはこれから自分たちにとって重大な出来事が起ころうとしていることをイエスから教えられて知っていました。イエスは弟子たちに彼らがその出来事に何もすることができずに、ただどこかに逃げてしまうことしかできないだろうとも語りました。ところがこのことをイエスから聞かされたペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(33節)と自信たっぷりに言い張って見せたのです。そのペトロたちがここではイエスの祈りに付き合うことさえできずに、深い眠りに陥ってしまったと言うのです。
このときイエスの弟子たちは自分の力を過信していました。しかし、その弟子たちにイエスが明らかにしようとしたのは、実は彼らは弱い存在であって、神に助けを祈り求めなければ、誘惑に勝つことさえできない者たちであると言うことでした。このときイエスが弟子たちに指摘した弱さは、彼らだけに限られたものではありません。なぜなら私たちも自分の力に過信して生きている者の一人だからです。その証拠に私たちは神に助けを求めて祈る必要があるのに、それをしようとはしないからです。そんな私たちに主の祈りは「あなたたちは神に助けを祈り求めなければならない存在なのだ」と教えているのです。
ハイデルベルク信仰問答はこの主の祈りの「わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救い下さい」と言う言葉を解説してこう語っています。
「わたしたちは自分自身あまりにも弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります」(問127)。私たちに対して悪魔やこの世、さらにここで語られている「自分自身の肉」と言うのは私たちが神を信じる前に身に着けていた古い性格や習慣のことを言っています。これらの敵がまるで連合軍のようになって私たちを取り囲み絶え間なく私たちを攻撃し続けていると言うのです。ところが私たちはそのことに気づいていません。だから神に祈る必要も感じていないのです。
3.神に助けていただかなければ誘惑に勝つことはできない
①誘惑の原因は人間の欲望
「私たちを誘惑から導き出してください」と主の祈りは祈ります。以前の日本語訳ではこの部分は「試みに会わせずに」と言う文章になっていたはずです。この古い訳だと「私たちを試練に会わせないでください」と祈っているようにも聞こえます。しかし、私たちが少し前にこの礼拝で学んだヤコブの手紙の中には「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1章2節)と言う言葉が語られています。つまり信仰者にとって試練に出会うことは大切であり、喜びであると語っているのです。そしてむしろその試練を避けて、波風の無い信仰生活を送ろうと願う者の信仰は成長しないと教えているのです。
交通事故を起こすことを恐れて車の運転をしなければ、いつまでも運転は上達することができません。結局、その人は免許を持っていても、全く運転のできないペーパードライバーになってしまいます。試練は私たちの信仰を育てるために神が与えてくださるものだとヤコブは教えています。だから「試練に会わせないようにしてください」と願うのは信仰者としてふさわしくないと言えるのです。一方、誘惑は試練とは違います。この点についてもヤコブの手紙も続けて次のように解説しています。
「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」(1章13〜14節)。
誘惑は神から出るものではないとヤコブははっきりと語ります。そしてヤコブは誘惑の原因は私たち人間が抱いている欲望にあると言っているのです。旧約聖書の創世記の3章には有名な誘惑の物語が記されています。神に創造されてエデンの園で幸福に暮らしていた最初の人間が蛇の姿になって現れた悪魔に唆されて罪を犯してしまいます。神から「食べてはならない」と言われていた木の実を食べてしまったからです。この物語もでも分かるように蛇がいくら人間を誘惑しても、それだけで人が罪を犯す訳ではありません。人間の側に「自分も神さまのようになりたい」と言う隠れた欲望があったからこそ、彼らは蛇の誘惑の罠にまんまと嵌ってしまったのです。
②自分の欲望に支配される現実の人間
トルストイの記した小説に「イワンのばか」と言う作品があります。イワンは「気のいい御人好し」で「馬鹿者」と人から見られています。純朴なイワンは今の自分のありのままの生活を受け入れているため、余計な欲望を抱くことはありません。物語ではこのイワンを誘惑しようとする悪魔の苦労話が語られています。イワンの周りの人々は少しでもお金が欲しい、少しでも生活をよくしたいと言う様々な欲望を抱いて生きています。だから、彼らは簡単に悪魔の誘惑に引っかかってしますのです。ところがイワンの場合はそうはいきません。たとえ自分が不幸になるような出来事を経験してもイワンはそれを簡単に受け入れてからです。そんなイワンに悪魔は結局、音を上げざるを得ないのです。
確かに私たちもこのイワンのように余計な欲を持たずに、今の自分に満足して生きるならば、悪魔の誘惑の餌食になることはないかもしれません。しかし、イワンはあくまでもトルストイが描いた小説上の人物であって、この世に生きる現実の人間ではありません。現実の人間はハイデルベルク信仰問答が教えるように「恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃を」しかけて来る状態で生きなければならないのです。だから、そのような人間の姿をよく知っているイエスは「わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救いください」と神に祈れと教えてくださったのです。そしてこの主の祈りは、私たちが自己過信を棄て、自分の弱さを悟り、神に助けを祈り求めるようにと教えているのです。
4.弱い私たちでも誘惑と悪に勝利することができる
①幽霊より悪魔が怖い
先日、テレビで世界の怪談を調べるという面白いバラエティ番組が放送されていました。日本の四谷怪談のような怖い話が外国にも存在しているのかということを現地に行って調べると言う番組です。確かに世界のどこの国に行っても怪談のような怖い話は存在しているようです。しかし、その怖い話も国によって微妙にその性格が違うことが分かります。たとえばロシアの怖い話は、子どもを危険から守るために、人から「やってはいけない」と言われたことをするとどんな怖い目に会うのかを知らせるような教訓的なお話が多いと言います。さらに私がもっと興味をそそられたのは、イギリスのようなヨーロッパの国では死んだ人間が化けてでるような幽霊はあまり怖がられてはいないと言う報告でした。だからヨーロッパでインタビューに答える人たちは「幽霊はもともと人間なのだから、そんなに悪いことはできない」と言うのです。そして彼らは「怖いのは悪魔で、幽霊ではない」とも語るのです。番組ではこれはキリスト教の影響だろうと言うことを解説していました。確かに聖書にも悪魔が登場しますが、死んだ人の幽霊に祟られたとか、苦しめられたというような話は書かれていません。
私たちは悪魔と言うとオカルト映画に登場する怪奇な現象だけを想像しがちです。しかし、聖書に登場する悪魔は映画とは違います。聖書に登場する悪魔はとても自然に、そして親しげに人間に近づき、人間に役立つようなアドバイザーさえしてくるのです。しかし、彼らがどんなに善良そうな仮面をかぶっていても彼らの目的はいつも同じです。私たちから神に対する信頼を奪い、私たちを神から引き離すこと、その上で私たちを自分たちの手下とすることが目的なのです。オカルト映画なら彼らの力に対抗するために悪魔祓いのような行為が有効ですが、実際の悪魔は人間の力ではどうすることもできない力を持っていると聖書は教えるのです。
②悪魔とすべての悪に勝利されたイエス
ある神学者は悪魔について、それがどのような形をしているか、また実際にどのように存在するものなのかを証明することはできないと語っています。しかし、彼はその一方で、この世界には人間の力ではどうにもならないたくさんの悪が存在し続けていると言うことは証明できると語っています。人間の科学がどんなに進んでも、戦争がなくならないのはそのよい例です。むしろ、人間は高度に発達した科学を使ってより残忍に戦いを繰り広げ、多くの人々の人命を奪い続けているのです。そして争い会うことは愚かだと知っていながらも、私たちの心から憎しみの心は消え去ることはありません。だから私たちの周りでも実際に争ごとが絶えないのです。この世界にも、また私たちの住む社会でも、そして私たちの小さな家庭にさえも私たちの力ではどうすることもできない悪が存在しています。
しかし、聖書はその一方でこの悪が完全に滅ぼされる日がやって来ることを私たちに教えています。イエス・キリストの勝利が完全な形でこの世界に実現するとき、悪魔もすべての悪も滅ぼされるのです。主の祈りは私たちを苦しめる悪に唯一勝利することができる方が教えてくださった祈りです。だから私たちはこの祈りを通して主イエスの勝利にあずかることができるのです。誤解してはならないのはこの祈りは私たちの人生から問題がすべてなくなるようにと祈っているのではないと言うことです。確かにそれらの問題は私たちを苦しめるかもしれません。しかし、私たちを誘惑から導き出してくださるイエスは、その問題をかえって私たちの信仰を成長させる試練と変え、その試練に打ち勝つ者としてくださるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
悪魔と悪の力に対して全く無力な存在でありながら、そのことを忘れて、祈りを怠ってしまようなわたしたちです。しかし、主はそのような私たちを見捨てることなく、わたしたちに主の祈りの言葉を教えて、あなたの勝ち取ってくださった勝利にあずかるようにとしてくださいました。この主の祈りを祈り続ける私たちに聖霊を送り、助けを与えてください。そしてわたしたちがあなたの力によってわたしたちを取り巻く悪と戦うことができるように導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.私たちが「主の祈り」を祈るときに、気をつけなければならないことは何だと思いますか。
2.聖書は私たちを襲う誘惑の原因がどこにあると教えていますか。
3.試練と誘惑はどのように違っていますか。
4.あなたは自分の信仰生活の中でどのような誘惑を感じたことがありますか。あなたはその誘惑にどのように対処しましたか。
5.悪に対して無力な私たちは、どのようにすれば悪に勝利することができるのですか。
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