2017.11.19 説教 「安息日は誰のためにあるのか」


聖書箇所

マルコによる福音書2章23〜28節
23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。28 だから、人の子は安息日の主でもある。」


説 教

1.日曜日は何をする日か

 私はすでに洗礼を受けてキリスト者になって40年近くの歳月を過ごしています。ですから、日曜日に教会の礼拝に出席するというのは、もう長い間の習慣のようになっていて何の疑問も感じることはありません。牧師をしている、わたしだけではなく、おそらく長く信仰生活を続けて来られた皆さんもたぶん同じような感覚を持っておられると思います。そのような習慣がつくとむしろ、日曜日に教会に行けなかったりすると、その週は何か気が抜けたような、不自然な感じさえ覚えるようになるはずです。しかし、そんな私も教会に通い出す以前は日曜日と言えば、朝からゆっくりしてのんびりと一日休みを取るのが当然であったように思えます。子供の頃、普段は東京の会社に朝早く出勤していく父親も、この日だけは寝坊がゆるされるため、日曜日の朝は家の雨戸がいつまでも閉まっていて、静かであったことを思い出します。当然、朝食をとる時間もいつもの日とは違って遅くなります。日曜日だけはそんなことも許される、特別な日と言うのが今でも教会に通わない人が日曜日に関して考えていることではないでしょうか。
 「日曜日はお休みの日」と言う考え方は日本に古来からあったものではありません。近代化を進める明治政府が西洋の暦を導入して、日曜日を官公庁や学校の休日と定めたところからこの日曜日の制度は始められました。それ以前は日本国民が一斉に休みを取るのは盆と正月ぐらいのときであって、それ以外ではそれぞれが別々に休日を取っていたのです。だから明治政府は日曜日を休みとする西洋の習慣を取り入れ、日本国民にこの休日を定着させたわけです。ところが政府は「なぜ他の曜日ではなく、日曜日の日を休みにするのか」、その理由を国民に教えることはありませんでした。
 皆さんもご存知のように西洋文明の多くはキリスト教と言う宗教の影響のもとに形づくられて来たものです。そしてこの日曜日の制度もキリスト教会の習慣から広がったものと言えるのです。なぜなら、長い間に渡ってキリスト教会では日曜日を「主の日」として、わたしたちの主イエス・キリストが死から甦られた出来事を記念し、神に礼拝を献げる日として守って来たからです。ですから本当の日曜日の意味はお休みを取る日ではなく、神に礼拝を献げる日であると言えるのです。日曜日は神に礼拝を献げるために世俗の仕事を休み、その生活を礼拝に集中させるための日であると言えるのです。
 この意味を教えずに形ばかりの制度によって始められた日本の日曜日は、休むことが目的となっています。しかし本来の日曜日の意味は神に礼拝を献げるための日であると言ってよいのです。

2.安息日は余計な日か

 イエスとその弟子たちが活動していた時代のユダヤの国では神に礼拝を献げる日は日曜日ではありませんでした。その日は一週間の終わりの日である土曜日でした。正確には金曜日の日没から次の土曜日の日没までの間の丸一日を彼らは「安息日」と呼んで、大切にしていました。この安息日の起源は創世記の最初に登場する神が天地万物を創造された後、七日目に休まれたという出来事から出ています(2章1〜2節)。さらにこの安息日がユダヤ人にとって大切な日とされるのはモーセを通してイスラエルの民に与えられた律法である十戒の(出エジプト20章)の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」に定められているからです。この出エジプト記の文章はこの戒めに続いて次のような説明を付け加えています。

 「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(9〜11節)。

 この文章からも分かるように、「いかなる仕事もしてはならない」と言われているのは、安息日を大切に守るためにです。ですから「何もしない」こと自体がこの戒めの目的ではありません。何よりも大切なことはこの安息日に神に礼拝を献げることです。人が礼拝に集中するためには時間を整える必要があります。だから安息日は仕事を休めと教えられているのです。
 興味深いことに「六日の間働いて、何であれ仕事をし」と言う文章を読むと、聖書は私たちに安息日を守り、神を礼拝することができるように、その他の六日間はちゃんと働いて安息日の準備をするようにと命じていることが分かります。現代社会では忙しく働くこと自体が最も尊いものとされる価値観があります。だから時間に余裕のある人が休みを取ればよいと言う考えがはびこっています。労働者を過酷な環境で働かせ、過労死に追い込むような企業が後をたたないのも、このような価値観がまかり通っているからではないでしょうか。しかし、聖書は安息日にしっかり神を礼拝するために、六日の間働けと教えているのです。だから働くために、安息日に礼拝ができなくなるというのは本末転倒であって、決して許されるものではないと言えるのです。
 それだけではありません。安息日についてキリスト教倫理の観点から別の意味を考えることができます。私たち人間の欲望はどこまでも限りがなく、その欲望に支配され続ける人間は自分で自分を滅ぼしてしまう可能性があります。だから、神は安息日と言う制度を人間のために定められて、その欲望をストップさせよとしたとも考えられるのです。
 トルストイの記した民話集の中に「人にはどれだけの土地が必要か」と言う題名のついたお話があります。日没までに自分の足で歩いた分だけの土地を与えようと言う約束を得た主人公は、なるべくたくさんの土地を自分のものにしようと考えて懸命に歩き出します。結局この主人公は自分の体力の限界をはるかに超えて、速足で歩きまわったために最後に心臓麻痺で死んでしまいます。トルストイは彼に必要だったのは彼の遺体を埋めるわずかな土地でしかなかったとこの小説を締めくくっています。
 この主人公の愚かさを実は誰も笑うことができないほどに、私たち人間は自分の欲望に支配され、そのままでは自分自身を滅ぼしてしまうおそれがあると言えるのです。だから、神は私たちにあらかじめ安息日と言う制度を定められ、その欲望に歯止めをかける日を造られたとも言えるのです。
 このような意味で安息日は神を礼拝するための日であるとともに、私たち自身の命を守る日であるとも考えることができるのです。

3.してはいけないこと?

 今日の聖書箇所ではイエスとファリサイ派の人々の論争が続けて繰り広げられています。ここでの論争の主題は「安息日」についてです。そしてこの安息日についての論争は次の「手の萎えた人をいやす」(3章1〜6節)と言うお話にも続いています。今日の箇所では「安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」と言う出来事がきっかけになって論争が起こったと記されています。いったいこの時の弟子たちの行為の何が問題なのでしょうか。
 まず、他人の麦畑から麦の穂を勝手に摘むと言う行為は聖書では何の問題にもならない合法的な行為とされます。私たちが他人の畑から勝手に作物を取ってきたら盗難の罪を犯すことになるかもしれません。しかし、イスラエルでは他人の麦畑の穂を手で積むことは許されていました。律法では他人の麦畑の穂を鎌で刈り取ることは違法であるとされていますが、食べ物に事欠く人が空腹を満たすために自分の手で穂を摘んで食べることは許されているのです(申命記23章25節)。むしろ、畑の持ち主は貧しい人のために畑の作物を全部刈り取ってはならず、少し残しておくことさえ求められているのです。この習慣を背景にして旧約聖書のルツ記は貧しい女性ルツと麦畑の持ち主であったボアズの出会いの物語を記しています。
 それではファリサイ派の人々は弟子たちの行為の何を問題にしたのでしょうか。彼らはイエスに次のように問いかけています。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と。ファリサイ派の論理に従えば、イエスの弟子たちは「安息日にしてはならない」と考えられている労働をしたと言っているのです。そして「それがけしからん」、「あなたは弟子たちに何を教え、どのように指導しているのか」と、弟子たちの責任者であるイエスを攻撃したのです。当時のファリサイ派の人々は安息日にしてはならないことについてのマニュアルを持っていて、そこには1521項目の禁止事項が記されていたと伝えられています。
 私の知人の一人が昔、日本にあるユダヤ教の礼拝堂に行って安息日の礼拝を見学していました。その礼拝で説教者が英語で話しているメッセージを友人がメモしようとしたら、他のユダヤ人の出席者から「安息日に労働はやめてください」と言われたと言っていました。メモなどしないでお話に集中することが大切だと言うことでしょうか。
 確かに安息日を大切にすると言うことは聖書的に言って誤りではありません。しかし、この当時のファリサイ派の人々は「安息日に何をすべきか」と言うことよりも、「何をしてはならないか」と言うことの方が大切だと考えていたような傾向があります。だからイエスは彼らに「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)と反論されたのです。このイエスの言葉は「安息日は人間の考え次第で自由に行動していいのだ」と言うことを語っているのではありません。むしろ、この安息日を人間のために定めてくださった神の御心を知り、その御心に従った行動をすべきだと言うことを教えているのです。
 私が神学生時代に夏期伝道のためにお世話になったある長老は、高知県の出身者で親の代から信仰を守りぬく熱心な一家でした。その長老のお宅の食卓で昔のクリスチャンはどのような生活していたかという話をよく聞かされたことがありました。いままで代々大切に受け継がれていたものでも偶像に関係するものは一切、焼き払って捨てたことや、日曜日の礼拝を守るために、家事の一切は土曜日の内にやり終えてしまうことなどいろいろなことを私は長老から聞きました。その行動は今日の物語に登場するファリサイ派の人々の熱心にも似ているようにも聞こえますが、実はそうではありません。彼らは日曜日にしなければならない大切な奉仕をするために、そして神を礼拝するために万全の準備をしたのです。それが昔のクリスチャンの生活だったと言うのです。
 大切なのは安息日、つまり今のわたしたちで言えば日曜日の「主の日」と言うことになります。この日に私たちは何をすることが大切かと言うことです。そしてこの日曜日を守るために私たちは月曜日から土曜日まで何をして準備することが大切なのかと言うことです。そのことを私たちは聖書に記された神の御言葉を通して知り、実践していく必要があるのです。そうすれば、安息日の規定は必ず私たち人間に本当の祝福をもたらすものとなるはずだからです。そのような意味でこの安息日の規定はわたしたちから自由を奪ってしまうものではないことをイエスはここで教えてくださっているのです。

4.安息日の主イエス
①律法の主権者であるイエス

 今日の箇所の最後の部分でイエスは「だから、人の子は安息日の主でもある」(28節)と語られています。ここで言われている「人の子」とは単に「人間の子」と言う意味ではありません。この言葉は旧約聖書のダニエル書(7章13節)に記されている神の元から遣わされる救い主を表す言葉であると考えられています。つまり、この言葉は「救い主イエスこそ安息日の主」であると言うことを教えているのです。
 それでは「イエスが安息日の主」と言う言葉は何を意味しているのでしょうか。すべての法律にはそれを作り、それを変えることのできる者が存在します。日本国憲法であれば「主権在民」つまり、この憲法の権威は国民の総意によって裏付けられているのです。それでは神の律法はどうでしょうか。その律法を決め、わたしたちのためにその律法を与えてくださったのは神ご自身です。つまり律法の主権者は神であると言えるのです。イエス・キリストは神の子であり、神ご自身です。ですから、律法のすべての権威はこのイエス・キリストに基づいています。そのイエス・キリストから切り離して律法を解釈することは無意味であり、それでは律法ではなく人間の言い伝えや考えになってしまうことになります。ファリサイ派の人々は「律法」を大切しているように見せかけていましたが、本当は律法ではなく、自分たちの言い伝えや考えに固執しているだけだったのです。だから本当に安息日の律法を理解し、行うおうと考えるならこのイエスから正しい教えを聞き、その言葉に従わなければならないのです。その意味で「イエス・キリストこそ安息日の主」と呼ぶことができるのです。

②安息日の主人公であるイエス・キリスト

 また「イエス・キリストこそ安息日の主」と言う言葉から私たちはもう一つのことを考えることができるかもしれません。つまり、「真の安息日はイエス・キリストなしには成り立たない」と言うことです。この安息日の主役はイエス・キリストなのです。神は何のために私たち人間にこの安息日を与えてくださったのでしょうか。創世記によれば神は創造の業をすべて終えた後、この安息日を過ごされました。そこには天地万物を創造された神の喜びが表現されていると言ってよいのかもしれません。つまり、安息日とはこの神の喜びに私たちがあずかる日であると言えるのです。
 イエス・キリストはこの神の喜びに私たちが共にあずかることができるために、この地上に救い主として遣わされた方です。そしてわたしたちを本当の安息に入れるために、その救いの御業をすでに成し遂げてくださったのです。だから、このイエスを信じる者は今、すでに神と共に喜ぶことができる安息に入ることができるのです。私たちの教会が大切にするハイデルベルク信仰問答は私たちの生涯のすべての日がこの救い主イエスの御業によって「安息日」とされていると教えています(問103)。そのために今のわたしたちは日曜日を「安息日」と言う呼び方で呼ぶのではなく「主の日」と呼ぶ習慣を持っています。それはこの日に「安息日の主」であるイエス・キリストの御業を思い起こし、その御業に感謝と喜びを献げるためです。
 この主の日を大切にする私たちにとって、必要なことは「何をしてはならないか」ではなく、「何をすることが大切なのか」と言うことです。私たちが主の日を正しく守るためにイエス・キリストの示してくださった模範に従うことが必要なことを今日の箇所の物語は私たちに教えているのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 わたしたちがあなたの喜びにあずかるために聖なる安息日を与えてくださったことを心から感謝します。そしてわたしたちの救い主イエスはその救いの御業を通して、わたしたちの人生のすべての日を神の安息にあずかる喜びの日としてくださったことを覚えて感謝いたします。なお、この地上では古き習慣と性質に影響を受け、その祝福を見失ってしまうわたしたちです。どうか聖霊を遣わして私たちの信仰生活を導き、わたしたちが真の礼拝を献げることができるように助けてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.ある安息日にイエスの弟子たちはどこでどのようなことをしましたか。ファリサイ派の人々は彼らの行為の何を問題としたのですか(23〜24節)。
2.イエスはファリサイ派の人々の抗議に対して旧約聖書からどのような話を引用されましたか(25〜26節)。イエスがこの話をここで話された理由はどこにあると思いますか。あなたも考えてみてください。
3.安息日にしてはならないことをだけを特別強調して、問題にしようとしたファリサイ派の人々に対してイエスが語った言葉は何でしたか(27節)。この言葉はファリサイ派の人々の律法についての考え方をどのように批判していますか。
4.イエスが語られた「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言う言葉は、イエスと安息日との関係をどのように説明していますか。あなたの言葉で説明してください。