2017.11.26 説教 「手を伸ばしなさい」


聖書箇所

マルコによる福音書3章1〜6節
1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。


説 教

1.安息日に病気を治してはいけない
①休診日に病気になってはならない

 ときどき、久しぶりに会う友人から「元気?」と声をかけられることがあります。これは一種のあいさつの決まり文句なのかもしれません。しかし、いつも自分の健康の具合について心配している私は、そう聞かれると「特別によくも、悪くもない」と言った言葉を返してしまうのです。だからせっかくその言葉をかけてくれた友人たちは何ともいえない不思議そうな顔をします。幸いなことに今の私は「とても健康で、力があり余っています」とは言えませんが、「医者に診てもらうような病気はしていません」と答えることはできます。このように健康保険の保険料だけを払って、医者の厄介にはならない生活ができることはすばらしいことだと思います。
 そんな私でもときどき風邪などを引いて、売薬を飲んでもどうにもならず、医者に行かなければならなくなるときが年に一回ぐらいやって来ます。ところが、とても不思議なのですが、私が「今回は医者に行かないと」と思う時は決まって医者の休診日というケースが多いのです。特にお盆や年末など病院が長期に休むような時期に限って、私の体の具合が悪くなると言うことがよくあって、困ってしまったことがあります。もっとも病気になる人間は医者の都合に合わせて病気になる訳ではありません。いつ、具合が悪くなるかは自分では予想がつかないのです。
 子供の頃、友人と遊んでいたときに自転車で転んで手に大けがをしたことがありました。そのとき、すでに診療時間が終わっていたのですが、私の家の近くの医者に行って、傷口を消毒してもらい、糸で縫い合わせてもらったことがあります。そのとき小さい頃から顔なじみのその先生が私に「医者が休みのときにけがをするな」と怒っていたことを今でも思い出します。もしかしたら、この体験がトラウマになって、年を取った今でも決まって医者の休診日に具合が悪くなると言う不思議な現象が起こるのかもしれません。

②安息日を守れ

 今日の聖書箇所では前回に引き続いて安息日に関する論争がイエスとファリサイ派の人々との間で繰り広げられています。今回の問題のきっかけはイエスが安息日に人の病を治したと言う医療行為がもとになっています。イエスは少し前、この同じカファルナウムの会堂で汚れた霊に憑りつかれた男を癒されるという奇跡を行っていました(1章21〜28節)。このことがあったからでしょうか、イエスを敵視しているファリサイ派の人々は「イエスは今度も必ず何かをするはずだ」と考え、その会堂で待ち構えていたのです。そこには一人の片手の萎えた人が出席していました。そこでファリサイ派の人々はイエスが安息日にこの人の病気を治したら、「明らかな律法違反だ」と訴えようと計画をし、その瞬間を待ち構えていたのです。もしかしたら、この手の萎えた人は彼らが自分たちの目的を果たすためにわざわざここに連れて来ていたのかもしれません。このようにファリサイ派の人々が安息日を重要視する背景は旧約聖書の言葉に基づいています。出エジプト記の31章には次のような神の言葉が記されているからです。

 「安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる」(14〜15節)。

 ここでは安息日に仕事をする者は死をもって償わなければならない重罪とされています。ただ先週も皆さんと確認しましたように、安息日にこのように律法で労働が厳しく禁じられているのは、安息日に人が礼拝に集中するためなのです。なぜならば安息日の礼拝で神との命の関係をしっかりと保つことができなければ、たとえ労働でたくさんの財産を手に入れたとしても、その人は本当に祝福された人生を送ることはできないからです。イエスも「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ4章4節)と語られているように、私たちが生きるためには何よりも礼拝を通して神との命の関係を維持し続ける必要があるのです。

2.礼拝はだれのためにあるのか

 そのような意味で安息日の礼拝は私たちの命を支えるために決して怠ってはならない、大切なものだと言えます。私たちはこの点で少し礼拝について勘違いしているかもしれません。この礼拝は神に献げられるものです。しかし、だからと言って神は私たちの礼拝がなければ、存在できない方ではありません。私たちが礼拝を献げなければ困ってしまうような方でもないのです。神は私たちが礼拝で奉仕しなければ、私たちが献金しなければ何もできない方でもないのです。
 そのような意味で礼拝は神のためのものではありますが、その利益のすべては私たち人間のためのものであると言ってもよいのです。改革派教会の信仰問答の中には「私たち人間の生きる目的は、神を礼拝することである」と教えるものがあります。聖書はその私たちに正しい礼拝の仕方を教えていると言うのです。
 目的のない人生を生きることほど空しいことはありません。どんなに恵まれた環境に育っても、生きる目的を見出すことができなければ、その人の人生は地獄のようなものです。そして人間の人生の目的は神を礼拝することにあります。だから私たちが神に礼拝を献げること、その礼拝で様々な奉仕をすることは私たちの人生の目的に適い、人生を意味あるものとする大切な行為なのです。そのような意味で人間は本来神を礼拝することで、生きがいを感じることができる者たちなのです。
 聖書が厳しく安息日を守れと命じているのは、人間が本来の人生の目的を回復し、生きがいを持って生きることができるようにするためだと考えることができます。

3.片手の萎えた人

 今日の物語の部分に登場する「片手の萎えた人」とは、具体的にどのような病であったのかは詳しくはわかりません。「萎えた」とは「動かない」と言う意味ですから、何らかの理由でこの人の片手が麻痺していたと言うことが分かります。この物語のはるか後に記された新約聖書外典の一つ「ヘブライ人福音書」にはこの片手の萎えた人が「石工」であったと記され、彼がこのときにイエスに語った言葉まで記されています。
 「私は私の手で生計を立てて来た者です。どうかもとの健康な手に治してください。私がみすぼらしい物乞いの生活をしないですむように」。
 このとき、イエスは自分を訴えようとしている人々の魂胆を知っていました。だから彼らに次のように語られたのです。

 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4節)。

 実はファリサイ派の人々の間でも「安息日に命を救うこと」は律法の例外規定として認められていました。安息日でも救命救急だけはできるように律法に例外行為を定めていたのです。しかし、その定めがあったとしても、この箇所に出てくる「手の萎えた人」の病が救命救急に該当するかというところには疑問が残るはずです。おそらく現代でも手の不自由な人がいきなり電話で救急車を呼んで、病院に向かうということは許されないことかもしれません。このような人は自分でタクシーに乗って、病院へ普通の外来患者として受診しに行くべきだと消防署から指導されるかも知れません。
 しかし、世の常識や規則の面から考えるならば、「この行為には緊急性がない」と判断できるかもしれませんが、病で苦しむ本人の立場に立ってみれば、そうは言いきれないところもあります。さっきの外典の記述をこの片手の萎えた人に当てはめることがいいかどうかわかりませんが、いずれにしても本人にとって自分の手が動かないことは、自分の人生に関わる重大な事柄であったはずです。人間はそれぞれ様々な問題を抱えて生きています。その問題は客観的に見れば、深刻さと言う点で人々の間でそれぞれ違いがあるかもしれません。しかし、問題を抱える本人にとっては、たとえそれが他人から「大した問題ではない」と言われたとしても、自分の人生に関わる、あるいは自分の生死にも関わる重大な問題であることに変わりはないのです。そのような意味で、イエスはここでこの病人について客観的な判断をされたと言うよりは、この人の心の痛みに耳を傾けられたのです。そして「どうしても今、癒してあげなければならない」と思われて、この人のために行動されたのではないでしょうか。イエスはたとえ人々からは「大した問題ではない。気持ちの問題だ…」と言われるようなものであったとしても、私たちが自分の人生で抱える悩みや問題に真剣に耳を傾け、それを理解し、すぐに行動してくださる方なのです。

4.イエスの言葉に従って癒される
①律法の限界

 この部分を解説するある説教者は「手の萎えた」と言う病気について象徴的な意味があると語っています。手が萎える、手が不自由であると言うことは、そのままでは神の恵みを受け取れない状態にある人を表していると彼は言うのです。安息日の礼拝で神が豊かな恵みを与え、私たちの命を生き返らせようとしても、手の萎えた人はその肝心な恵みを受け取ることができないのです。これでは、礼拝に出席しても無意味です。むしろ礼拝に出席してもますます欠乏を覚えることしかできず、苦しむだけとなってしまいます。そしてこの病はこの人だけのものではなく、罪人である私たちすべてが感染している病だと言うのです。私たちは皆、自分の手が萎えているために、そのままでは神の恵みを受け取ることができないのです。どんなに礼拝に出席しても、この萎えた手が癒されなければ神の恵みを受けて、生きて行くことはできません。
 ここに律法の限界が示されています。律法は確かに私たちが神からの命を受けて、生き生きとした人生を送るための方法を教えています。そのために安息日には神を礼拝することだけを考え、神に私たちの心を集中して向けていくべきだと教えるのです。そのため礼拝行為以外のすべての行為を停止しなさいとも命じます。なぜなら、私たちの心が中途半端でこの世の様々な思いを持ったままで礼拝に出ても、その心には神の言葉が入り込む余裕がないからです。両手に握りしめているものをすべて手放して、空の手にならなければ、その手で神の恵みを受け取ることができないからです。
 しかし、だからと言って私たちは自分が抱えている思い煩いを自分の力で棄てることができるでしょうか。自分がしっかり握りしめているものを自分の力で手放すことができるでしょうか。それは私たちにはできないのです。なぜなら、私たちの手は萎えていて、自分ではどうすることもできないからです

②安息日に働かれる父なる神とイエス

 イエスはこの時、ご自分を罠にかけようとする人々の計画をすべてご存知の上で、この片手の萎えた人を呼び出されました。彼に「真ん中に立ちなさい」と言われたのです。「神など頼りにならない」。「礼拝に出てもどうにもならない」。そう考えているような人にも、イエスは再び自分の前に出なさい呼びかけています。私の前に来なさい、教会に来なさい、礼拝に出席しなさいとイエスは私たちに命じられるのです。そして、イエスは続けてこの手の萎えた人に語り掛けます。「手を伸ばしなさい」(5節)と。
 ここでもある説教者は語っています。「彼は癒されたから手を伸ばすことができたのではない。」彼は自分の萎えた手をイエスの言葉に従って伸ばそうとしたのです。するとたちどころにその手は元通りになり、癒されたと聖書は語っています。私たちが自分ではどうにもならない問題を持っていても、そのままでイエスの言葉に従う時に、私たちの萎えた手も癒されるのです。私たちの萎えた手が礼拝の中で神の恵みを豊かに受けることのできる手に変えられるのです。
 安息日を本当に意味あるものとするのは私たちの力ではありません。イエスが私たちに働いて私たちを癒し、私たちが神の恵みを受けて生きることができるようにしてくださるのです。ヨハネによる福音書ではイエスがエルサレムのベトザタと言う池で38年間も病で苦しんでいた人を癒したと言う物語が記されています(5章1〜18節)。実はこの出来事も今日の物語と同じように安息日に行われたものでした。だからユダヤ人たちはイエスをそのことを理由に非難し、迫害しようとしたのです。そこでイエスはユダヤ人たちに対して次のように語られたのです。

 「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(5章17節)。

 神の御業に休診日はないとイエスは語っています。そしてその独り子であるイエスも同じように安息日でも働き続けてくださる方だと言っているのです。神は確かに日曜日の礼拝を通して私たちのために働いてくださるのです。神の御子であるイエスも昔と同じように、この礼拝で私たちに御言葉を語り、その御言葉を通して私たちを癒してくださるのです。私たちが日曜日に礼拝に集まるのはこの神の御業を体験するためであり、イエスの癒しを体験するためであることを今日、もう一度覚えたいと思います。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちをこの世から呼び出し、聖なる主の日に礼拝へと導いてくださるあなたの御業に心から感謝いたします。私たちはこの礼拝であなたの恵みにあずかるにはふさわしくない罪人です。天にある祝福ではなく、いつかは朽ち果てる地上の宝を思い、あなたからいただく永遠の命ではなく、この世の繁栄に心奪われるものです。しかし、あなたはそのような私たちを癒し、あなたの恵みを受けるにふさわしい者たちとして造り変えてくださる方です。私たちがそのあなたの御業を覚え、主の日の礼拝に喜びを持って出席することができるようにしてください。そしてこの祝福の内に自分ばかりでなく、私たちの友や家族を招くことができるようにしてください。
 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが会堂にお入りになられたときに、そこに誰がいましたか(1節)。
2.「人々」はそこで何が起こることを「注目して」待っていましたか。この「人々」とは誰のことを言っていますか(2節)。
3.イエスは「手の萎えた人」に何と言われましたか(3節)。このイエスの行為はファリサイ派の人々からどのように非難さえる可能性がありましたか。
4.イエスは彼を訴えようとして待ち構えていた人々に何と語らましたか。また彼らに対してどのような感情を抱かれましたか(4〜5節)。
5.手の萎えた人はイエスによってどのように癒されましたか。順を追って整理して考えてみましょう(1〜5節)。
6.この出来事の結果、ファリサイ派の人々は新たに何をしようとしましたか。(「ヘロデ党」の人々はローマの傀儡政権であるヘロデ王を支持する人々でした。一方、ファイリサ派の人々はヘロデやローマの権力に形の上では従う姿勢を見せていましたか、異邦人の支配を決して心よく思ってはいませんでした。ファリサイ派の人々にとって「ヘロデ党」は敵対勢力であったはずなのです)