2017.11.5 説教 「花婿が一緒にいる」
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聖書箇所
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マルコよる福音書2章18〜22節
18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
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説 教 |
1.断食について
皆さんは今までに断食をされたことがおありでしょうか。「食べ過ぎちゃったので、一食ご飯を抜いたことがある」。「病院の検査のために、食事をすることができなかったことがある」。そう言う場合は断食とは言いません。それは「断食」ではなく「禁食」と言ったらよいでしょうか。断食は何らかの理由で食事を制限されることをいうのではなく、自分の意思で進んで行うものです。現代では健康のためと言う理由で断食が勧められ、そのような施設が特別に作られているようです。しかし、断食は本来、宗教や信仰と深い結び付きをもって行われてきたものだと言えます。ですから聖書の中でも、断食と言う行為は何度も登場しています。昔らから神さまを求める熱心な心を表すために信仰者は断食を行って来たのです。
私たちが生きるためにはいろいろなものが必要です。その中でも食べると言う行為は人間だけではなく、すべての生物にとって最も大切で必要なものであると言えます。以前、水族館で飼育されている大王グソクムシが何年間も捕食行為を行わないまま生きていると言うニュースがテレビで話題になっていました。何も食べなくても生きることができる。それだけでテレビのニュースになるほど、生物にとってものを食べると言うことは絶対に必要なことだと言えるのです。そのような行為を一時的に自分の意思で断つことが断食です。食べる行為をやめると言うことは死を選ぶと言ってもよいことです。それではなぜ、信仰者たちはこのような断食をしたのでしょうか。おそらく、普段は様々なところに向けられている私たちの心を神さまに向ける、それが断食の役目であったのかもしれません。信仰者が自分を本当に生かしてくださる方こそ神さまであることを認める行為が断食であったと言えるのです。だから信仰者は自分の悔い改めの気持ち、また神さまに対する願いを断食と言う行為を通して度々表そうとして来たのです。
以前、何かの集会である改革派教会の一人の長老が「ウエストミンスター信仰告白には神聖な断食を神さまを礼拝する方法の一つだと教えているのに、私は教会の牧師からこの断食についての話を今まで一度も聞いたことがない…」と言う話していました。確かに私たちの教会の憲法の一つであるウエストミンスター信仰告白の「第21章 宗教的礼拝および安息日について」の部分で信仰者が「神聖な断食」をなすことで神さまを礼拝することは好ましいことだと教えているのです。実は新約聖書の時代の教会の中でもこの断食という習慣は守られていたことが使徒言行録の記事からも分かります。ところが今日のマルコによる福音書の聖書箇所ではイエスの弟子たちが断食をしなかったと言うことが騒ぎとなり、そのことで論争が起こったという報告が記されています。イエスの弟子たちはなぜ断食をしなかったのでしょうか。そもそもイエスはこの断食と言う信仰的な行為をどのように考えておられたのでしょうか。
2.ヨハネの弟子とファリサイ派の人々
前回は税金取りのレビの家で開かれた盛大な宴会が問題となって、ファリサイ派の律法学者とイエスのとの間で論争が生じたことを学びました。イエスがファリサイ派の習慣に反して、徴税人や罪人たちと一緒に食事の席についたことが問題となったのです。今回は、同じ食事に関する話題が取り上げられています。しかし、ここでは食事を食べることでなく、それをしない断食と言う行為が問題となっているのです。
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」」(18節)。
ここにはファリサイ派の人々だけではなく、「ヨハネの弟子たち」と言う人々が登場します。彼らは福音書の最初にも登場した洗礼者ヨハネの弟子たちです(1章1〜8節)。このヨハネは「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と言われていて、荒れ野で禁欲的な生活をしていたことが分かります。ですから、その弟子たちもヨハネと同じように断食を繰り返し、禁欲的な生活をしていたとも推測することができます。また、ここではヨハネの弟子たちだけでヨハネ自身の存在は取り扱われていないことから、このときヨハネはすでに獄中に捕らわれていたか、あるいはすでにヘロデ王によって殺されていたとも考えられています(マルコ6章14〜29節)。そうなるとヨハネの弟子たちが行っていた断食は自分たちの師を奪われた悲しみを表現する行為であったとも考えることができるのです。
一方、ファリサイ派の人々は断食を普段から習慣的に行っていたことが聖書の記録で分かります。ルカによる福音書に登場するファリサイ派の人は神殿での祈りの言葉の中で「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と語っています。旧約聖書では年に数回の祭りのときに断食をすることが求められていました。しかし、ファリサイ派の人々は聖書の求めている断食の回数よりももっと数多く断食をすることで、自分たちは他の人々とは違うと言うことを示し、自分たちの信仰の熱心を表そうとしたのです。そのようなファリサイ派の人々にとってイエスの弟子たちが断食をしていないと言うことは、その信仰が疑われる行動だと考えられたのでしょう。またヨハネの弟子たちとっては、イエス自身もこのヨハネから洗礼を受けた(1章9〜11節)関係があることから、「大切なヨハネ先生を失ってしまった悲しみをイエスやその弟子たちは感じていないのか」という疑問があったのかもしれません。
3.今はどのようなときか
イエスはこのような人々の問いに次のように答えています。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」(19〜20節)。
このイエスの言葉から分かることは、イエスは断食という行為自体を否定してはいないと言うことです。イエスはここで「今は断食をするときではない」と言うことを言っているだけなのです。それではイエスはなぜ、今は断食をするときではないと言っているのでしょうか。イエスはその点について、今は婚礼のとき、結婚式の宴会の席で花婿と共に集ってお祝いをしているときであり、断食をするときではないと説明するのです。ここで語られる「花婿」とは神の元から遣わされた救い主イエスを指し示す言葉です。人々は長い間、聖書に約束されていた救い主が自分たちのもとに遣わされることを待ち望んでいました。そしてその救い主を待ち望む真剣な姿勢が断食と言う行為を通しても表されて来たのです。たとえばルカによる福音書は幼子イエスと神殿で出会うことのできた女預言者アンナの物語を次のように語っています。
「アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(2章36〜38節)。
神の約束が実現することを断食しながら待ち望んだアンナは、その約束の救い主イエスに出会って喜びに満たされて神を賛美することができたと聖書は語っています。神の約束に望みを置き、断食をしてきた者はその約束がイエスを通して実現したことを彼女のように喜ぶべきなのです。洗礼者ヨハネもこのアンナと同じような預言者であったと考えることができます。ヨハネは人々の心を救い主に向けるために最大限の努力をして生きた人でした。だからもし、ヨハネが今ここにいて、イエスの元に集まる人々を見たなら、喜びに満たされて、その祝宴に彼自身も真っ先に加わったはずです。それなのになお、断食をし続けることは、神さまが私たちの献げる切実な祈りを聞き入れて、答えを与えてくださっているのに、その答えを無視して祈り続けるような行為であるとも言えるのです。だからイエスは「今は断食をするとき」ではない、今はイエスと共に喜び祝う時だと語られたのです。
4.新しい時代に求められる、新しい生き方
①今は古い習慣や言い伝えを守るときではない
私の母は洋裁学校を出ていましたので、子どもの頃よく、私の破れたズボンに布をあてて上手に継ぎあてをしてくれたものです。今は、来ていた服が破けたからと言って、わざわざ布をあてて継ぎあてをすることはめったになくなりました。破けたら新しい服を買うと言うのが当たり前の時代ですから、ここに語られているイエスのたとえ話は今の人にはピンとこないかもしれません。
イエスの生きていた時代は新しい服を買うなどと言うことはめったになかったはずです。貧しい人は何度も何度も継ぎあてをして服を着るしかなかったのです。その継ぎあてをするときに大切なことは古い着物を新しい布切れを使って継ぎあてをしてはならないことだとう言うのです。新しい布は伸縮性があります。しかし、長い間使われている古い服はすっかり伸び切っていて、伸縮性がありません。だから古い着物に新しい布切れを縫い付ければ、伸縮する新しい布が古い服の布を引っ張て、破けてしまうと言うのです。
革袋というのは私たちにとっては継ぎあて以上に馴染みのない代物です。当時の人々は山羊の皮で作った袋を用いて、水やぶどう酒を入れて持ち歩いたようです。新しいぶどう酒はまだ発酵の途中で二酸化炭素を排出しています。だから当然、それを入れた革袋は膨張して膨らみます。だから伸び切って膨張性のない古い革袋はこの膨張に耐え切れず爆発してしまうはずです。そのため新しいぶどう酒を入れるには膨張性がある新しい革袋を用いなければならないのです。
この二つのたとえはいずれも、新しい時代に古い習慣を守りぬくことは意味がないこと、むしろそれは逆効果であることを教えています。そして新しい時代には新しい生き方が要求されることを教えているのです。そのような意味でこのたとえは先祖たちからの言い伝えや習慣を守り抜くことだけに熱心なファリサイ派の人々の信仰の姿勢を批判していると言ってよいのです。
確かにファリサイ派の人々の信仰姿勢は約束の救い主が来られる前までは意味がありました。なぜなら、彼らは聖書に記された真の神への信仰を人々に伝え、またその神さまが彼らの先祖たちに与えてくださった約束を忘れることがないようにと人々に教えたからです。しかし、彼らはその約束が今、イエス・キリストが来てくださったことを通して実現していることを理解できなかったのです。本当は喜びをもってイエスの元に真っ先に集まるべきなのに、彼らはそれができずにいたのです。そして相変わらず古い言い伝えや習慣に支配され続けていたのです。イエスはこのようなファリサイ派の間違いをこのたとえで指摘されているのです。
②今はイエスに救われた喜びと感謝を表すとき
私たちにとって今はどのようなときなのでしょうか。それを考えることは私たちが正しい信仰生活を送るために大切なことであると言えます。イエス・キリストが救い主として私たちのために十字架にかかり、復活されて私たちを救ってくださいました。聖書の教える福音のメッセージを通して私たちはそのことをすでに知らされています。だから私たちがファリサイ派の律法主義のように、自分の優れた行いを通して神さまの救いを得ようとすることは誤りであり、無意味なことであると言うことが分かります。それは救い主イエスとその救いの御業を疑い、無視することになってしまうからです。
私たちの救いは100パーセントこのイエスの救いの御業によって保証されています。だからそれに私たちが自分の信仰生活で何かを付け足す必要は何一つないのです。イエスによってもたらされた新しい時代とは、救いを待ち望む時代ではなく、救われた者の時代です。だから私たちはこのイエスに救われた者として、日々の信仰生活で感謝をささげ、喜びをもって神さまに仕える者となる必要があります。その私たちにとって聖書が教える律法は全く新しい役割を果たしていています。なぜなら、私たちが聖書の教える律法に従うことは、私たちの神さまへの感謝を表し、喜びを表現する最善の方法となるからです。
私たちの教会の憲法であるウエストミンスター信仰告白はこの私たちの神への感謝と喜びを表す礼拝生活の中で、「神聖な断食」をすることも一つの方法だと教えています。宗教改革者はそれまでカトリック教会が信徒のすべてに義務として求めてきた「断食」の習慣を廃止しました。カトリック教会では年に二回定められた日に断食をし、また毎週の金曜日にも簡単な断食をすることを信徒に求めていました。宗教改革者たちがこの断食の習慣を否定した理由の一つは、カトリック教会がこの断食を自分の犯した罪を償う業だと教えていたからです。しかし、宗教改革者たちも信仰的な断食を完全に否定している訳ではありません。自分の罪のために十字架にかかってくださったイエスの救いの御業を心に刻み、自分たちの信仰の確信を深め、喜びと感謝を表すためには断食もまた、素晴らしい行為であると言えるのです。しかし、それは誰かに強いられてすることでも、またすべての人がすべきことでもありません。私は今から30数年前に韓国の祈祷院に行って三日間断食祈祷をしたことがあります。しかし、残念なことに私はこのとき、おなかがすいてどうにもならず、祈ることさえできませんでした。神さまへの喜びと感謝を表す方法として、私はそのとき自分には断食がむいていないと言うことを知りました。もちろん、これは私だけの体験で、皆さんに共通するものではありません。
私たちの信仰生活に大切なことは、日々、イエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業に心を向け、感謝と喜びを様々な形で表していくことです。このように新しい救いの時代に生きる私たちには、その時代に生きる者としてふさわしい生き方が求められていることを今日聖書の箇所は教えているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
旧約聖書の民が長い間、待ち望んできた救い主を私たちに送ってくださったあなたの御業に今日も心を向けることができて感謝します。この救い主にイエスの到来によって旧約聖書の時代が終わり、新約聖書の時代、イエス・キリストによって実現した完全な救いの時代に生きることができる幸いを感謝します。その救いに私たち一人一人もイエスの招きに答えることで、入ることができました。私たちがこの喜びと感謝をあなたにますます熱心にささげて生きることができるようにしてください。聖霊を遣わして私たちの信仰生活を導いてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は何もしていました(18節)。
2.彼らはイエスのところに来て、どのような質問をしましたか(18節)。
3.イエスは彼らにどのような答えを語りましたか(19節)。このイエスの言葉からイエスの弟子たちが断食をしなかった訳がわかりますか?その理由を説明してください。
4.イエスの言葉を読むとき、イエスは断食全般を否定しているのではないことが分かります(20節)。それではイエスは断食についてどのような考えを持っておられることが分かりますか。
5.織りたての布で古い服に継ぎあてをあてるとどうなるとイエスは言っていますか(21節)。
6.新しいぶどう酒を古い革袋に入れたらどのようになるとイエスは言っていますか(22節)。
7.このイエスの言葉は古い言い伝えや風習を守ることに熱心であった人々にどのような警告を与えていると考えることができますか。
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