2017.12.10 説教 「み国と力と栄光はあなたのもの」


聖書箇所

歴代誌上29章11節
偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。


説 教

1.神の答えをいただける根拠はどこに

 年末になるとたくさんの人が宝くじ売り場に並びます。そんな年末の風物詩となった光景がニュースで報道される季節となりました。普通の生活をしていたら手に入れることのできない大金を得るチャンスとばかりに、たくさんの人がその行列に加わります。しかし、聞くところによればこの宝くじに当たる確率は、私たちが一生で交通事故に遭遇する確率よりも低いと言われています。つまり、実際にその大金を手に入れることができる人はまれであると言う訳です。それでも夢を捨てることのできない人々が宝くじ売り場に群がるのでしょう。
 私たちが神に献げる祈りに対して、神が答えてくださる確率はどのくらいなのでしょうか。もちろんそのときの神の答えは私たちが期待した通りのものではないかもしれません。しかし聖書は私たちの献げる祈りに神は必ず答えてくださると繰り返し語っています。神は100パーセント私たちの献げる祈りに答えてくださると言うのです。
 ところが、私たちはいつの間にか自分たちの献げる祈りに神が答えてくださる確率を宝くじの確率のようにめったにないことだと勘違いしてしまうことがないでしょうか。神は私たちの献げる祈りに滅多に答えてはくれない。そう考えると私たちの祈りは空虚な独り言のようになってしまうはずです。そしていつの間にか私たちは神に熱心に祈ることもできなくなります。もし私たちの生活に神への祈りがなくなったとしたら、その信仰は運命論信仰のようなものになってしまうはずです。「神は確かにおられるが、その神は私に関心を持っておられるはずはない。私とは関係なところで、私の人生の行方を勝手に決めておられるのだ」と考えるのです。
 私たちの神は私たちに関係ないところで、私たちの人生の行方を勝手に決めてしまう方ではありません。むしろ、私たちの人生に対して私たち自身よりも深い関心を持って関わってくださる方なのです。その神が私たちの献げる祈りを無視されるはずはありません。祈りにおいてむしろ問題になるのは神の側ではなく、いつも私たち自身の側のあるのです。なぜなら、私たちはいつも神が祈りに答えてくださる保証とその根拠を自分自身の中に求めようとするからです。私たちの側に神の関心を買うことができる価値がなければ、神は自分に関わってくださらないと思うのです。ところがそこで私たち自身が見つけるものは、神の御心に反して生きている自分の姿です。だから結局、私たちは「神はこんな私の祈りに答えてはくれない」と思い込んでしまうのです。
 私たちの祈りに神が答えてくださるという保証とその根拠は私たちの側にあるものではありません。だからこそ私たちは必ず自分の献げる祈りの最後に「イエス・キリストのみ名によって祈ります」と言う言葉を付け加えるのです。私たちの祈りに神が必ず答えてくださる保証とその根拠は私たちのために十字架にかけられ、命まで棄てられた救い主イエスにあるのです。このイエスの故に神は私たちの祈りに必ず答えてくださると信じるのです。もし私たちの献げる祈りが、私たちにとってふさわしくないものであるなら、私たちの祈りのとりなし手である救い主イエスがその祈りをふさわしいものと変え、父なる神に伝えてくださるのです。だから私たちの祈りに神が答えてくださる保証とその根拠はイエス・キリストにあるのです。

2.主の祈りに付け足された部分

 私たちが学んでいる主の祈りにはこの「イエス・キリストのみ名によって」と言う最後のとりなしの言葉が付け加えられていません。おそらく、その理由はこの主の祈りがイエスによって私たちに与えられた祈りであることに関係していると思います。なぜなら主の祈りはイエスの祈りと考えてもよいからです。この祈りは人間の思いつきによって作られたものではありません。私たちに何が必要であるかを一番よく知ってくださるイエスが私たちに教えてくださった祈りです。だから私は心配することなく安心してこの祈りを神に献げることができるのです。
 さて、今日はこの主の祈りの最後の部分となる「み国も力も栄光も、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」と言う言葉について学びます。ハイデルベルク信仰問答書はこの部分を 主の祈りの「結び」であると語っています(問128)。結びの部分がなければ祈りは完成したものとはなりません。その意味で今日のこの結びの言葉の部分は主の祈りにとって大切なのです。ところが聖書をよくご覧になられると分かりますが、この部分の言葉は聖書(マタイ6章9〜13節、ルカ11章2〜4節)のイエスが教えてくださった主の祈りの本文には記されていません。この文章は後代に書かれた写本のいくつかには存在するそうですが、古い有力な写本には書かれていません。つまり、ずっと後になって誰かがここに書き加えたと考えられているのです。
 興味深いことにカトリック教会で教えられている主の祈りではこの最後の結びの言葉がありません。カトリックでは「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」で主の祈りが終わってしまうのです。カトリックがなぜこの部分を祈らないのかは彼らに聞いて見ないと詳しいことは分かりません。ただ歴史的にこの結びの部分の言葉がキリスト教文章に現れるのは3世紀の頃からだと言われています。この言葉がここに書き加えられたことには様々な説明があるのですが、その一つに当時の礼拝で主の祈りが祈られた後、司会者が神を賛美する「頌栄」の言葉を語って礼拝が閉じられることが習慣となり、やがてこの主の祈りの本文とこの「頌栄」の言葉が一つになって人々に覚えられるようになったのではないかと言うのです。
 さらには、昔からユダヤ人の献げる祈りでは必ず神を賛美する「頌栄」の言葉が欠かせないものであったために、初代教会の人々はこのユダヤ人たちの影響で主の祈りにもこの「頌栄」を加えたと考える説もあります。この礼拝で読んだ、聖書のテキストは歴代誌上に記されているダビデ王の祈りの言葉です。エルサレムの神殿が息子ソロモンによって建設されることを願い、またそのソロモンの統治が祝福されることを願ったダビデは祈りを献げ、その中に神を賛美する「頌栄」の言葉を語っているのです。主の祈りにもこのような旧約聖書の祈りの習慣が影響して、この部分の言葉が付け足されたとも考えることができると言うのです。

3.なぜこの言葉で祈りを終えるのか
①神を賛美する言葉

 これらの説明はいずれも推測の範囲をでません。しかし、長い歴史の中で主の祈りが多くのクリスチャンによって祈られ続け、その主の祈りがこの結びの言葉と一組に献げられて来たことには疑う余地がありません。それではなぜ、この結びの部分の言葉は主の祈りを献げる私たちにとって大切なのでしょうか。この部分は、先ほどから語っているように、神を賛美する「頌栄」の言葉となっていて、その前の部分で書かれている願いの言葉とは違います。
 普通、私たちは自分の献げた祈りに神の答えが与えられたことが分かったとき、「素晴らしい。神さまに感謝します」と賛美の声を上げるのではないしょうか。しかし、この賛美は主の祈りの願いの言葉と共に唱えられています。あたかも今、献げた祈りの答えをその場で得たような気持になって神に賛美を献げているのです。つまり、この言葉は私たちの献げる祈りに神が必ず答えてくださるという私たちの信仰の確信を表す言葉とも言えるのです。だから祈りを献げるや否や、私たちは「神はすばらしい」と賛美の声を上げることができるのです。

②保証とその根拠

 この主の祈りがこの結びの言葉と一組となって祈られる別の理由は、ここに私たちの献げた祈りに答えが必ず与えられるという保証と根拠が示されているからだと言えます。もし、主の祈りの願いを実現させるのが私たちの信仰的努力にあるとしたらどうなるでしょうか。私たちはこの祈りに託された願いが必ず実現するという確信を持つことできるでしょうか。この主の祈りが私たち人間の決意表明のようなもので、実現するのは私たちの努力次第であるとしたら、主の祈りを献げれば、献げるほどに、それを実現できない自分の力や不完全さを知って、私たちは気落ちするしかありません。しかし、この祈りに託された願いを実現してくださるのは神なのです。この祈りに本当に答えることができるのは神だけなのです。なぜなら、「み国も力も栄光も」すべて神のものだからです。そのような神だからこそ、私たちの献げる祈りに答えを与えることがおできになるのです。私たちの祈りを聞かれる神は無力な偶像ではありません。今も生きて働く全能の神なのです。だから神は私たちの祈りに必ず答えを与えてくださることができるのです。

③この世の力にさらされている信仰者を励ます

 この祈りの言葉が歴史的文書に現れるのは3世紀の頃だと先ほど申しました。実はこの時代キリスト教会はまだ厳しい迫害の中にありました。そして教会を迫害の張本人は当時の地中海世界一帯を治めるローマ帝国の皇帝でした。この時代に実際に「国と力と栄光」をほしいままにしていたのはこのローマの皇帝であったと言えるのです。この時代のクリスチャンたちはこのローマの権力によって迫害され、苦しめられ続けながら信仰生活を送っていました。このローマの力に悩まされ続けた彼らはそれでも、「国と力と栄光はローマ皇帝にあるのではなく、私たちの神にある」と祈り続けたのです。そのような意味でこの祈りの言葉は迫害の中に生きるクリスチャンたちを慰め、励ます役目を持っていたとも考えることができるのです。
 私たちはいつも、私たちを支配するこの世の力の前に悩まされ続けています。私たちの人生を支配しようとする様々な問題、その中には私たちの病や死も含まれます。これらのものはすべてこの世の力に属するものです。なぜなら、それらは神から出て来たものではないからです。私たちもこの世の力が私たちの身近に迫っていることを知るとき、不安になり、生きる希望さえ失ってしまうことがあります。しかし、私たちを支配できるのはこの世の力ではないと主の祈りのこの言葉は私たちに教えるのです。神がすべてを支配してくださっています。だから私たちは厳しい現実の中でも希望を失うことがないのです。私たちの神が私たちの献げる祈りに最もふさわしい答えを与えてくださることを信じて、忍耐を持って待ち望むことができるのです。

4.国と力と栄とは

 「国と力と栄光も、とこしえにあなたのものだからです」。旧約聖書の時代の聖徒たちはこの栄光を確かに「国と力」と言う現実を通して実感しようとしました。神が選ばれた国イスラエルが神によって盤石となり、やがては世界を支配するとき神の栄光は豊かに表されると彼らは考えたのです。だから、イエスを取り巻く群衆たちもイエスをイスラエルの王として「国と力」を回復させ、その栄光を見ようとしたのです。しかし、イエスはそのような群衆の願いを完全に拒否されました。それは神のみ旨とは違っていたからです。
 それでは救い主イエスはどのような形でこの国と力を実現し、神の栄光をあらわされたのでしょうか。パウロの手紙には救い主イエスが実際に「国と力と栄光」を表された事情を次のように説明しています。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピの信徒への手紙2章6〜11節)。

 初代教会の人々は実際にこのキリストの救いの御業によって、この世のあらゆる力が打ち砕かれて、神の国の支配が自分たちの上に実現したことを信じていました。だから、ローマの迫害の中でも彼らは屈することなく信仰を持ち続けることができたのです。
 このようにすでに救い主イエスは私たちの献げる祈りに神が必ず答えてくださると言う保証と根拠をその御業によって獲得してくださったのです。だから私たちは主の祈りを祈るたびに、キリストによってもたらされた勝利を確信し、その勝利が完全にこの地上に実現する最後の審判の時を希望を持って待ち望むことができるのです。そしてこの祈りの最後は「アーメン」つまり「確かにそうです」と言う言葉で終わります。だからキリストが明らかにしてくださった勝利を私たちも確信して「アーメン」と言う言葉をもって主の祈りを閉じるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 長いキリスト教会の歴史の中で祈り続けられた主の祈りを私たちも祈ることができる幸いを心から感謝いたします。この祈りを祈るとき、迫害の中でも希望を失うことなく生き続けた私たちの信仰の先輩たちが受けた祝福を私たちも受け取ることができるようにしてください。主の祈りを確信をもって祈り続けることができるように、私たちが救い主イエスの上にこの祈りに対する保証と根拠を求めることができるようにしてください。
 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.あなたは自分の祈りに神が必ず答えてくださると言いことをどこで確信することができますか。
2.どうして私たちは自分の祈りの言葉の最後に「イエス・キリストのみ名によって祈ります」と言う言葉を付ける必要があるのですか。
3.主の祈りが神を賛美する「頌栄」の言葉で結ばれる意味はどこにありますか。
4.イエス・キリストはどのような御業を通してその力を表し、私たちのために神の国を実現されましたか。また栄光をあらわされましたか。
5.どうして私たちはこの祈りの最後に「アーメン」と言うのですか。