2017.12.17 説教 「十二弟子の任命」
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聖書箇所
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マルコによる福音書3章13〜19節
13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
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説 教 |
1.選ばれた使徒たち
①使徒
今日も皆さんと共にマルコによる福音書の物語から学びます。今日の箇所ではイエスによって一二人の弟子が選ばれるというお話が記されています。この一二人の弟子は通常「使徒」と呼ばれ、キリスト教会の成立において大変重要な働きをした人々でした。この使徒についてパソコンのウィキペディアで少し調べてみようとしたら、大変に驚きました。「使徒」と言う項目で最初に表示されるのは『新世紀エヴァンゲリオン』と言うアニメーションで登場する使徒だったからです。この物語で宇宙から地球にやって来て大暴れする謎の存在を「使徒」と説明しているのです。つまり、日本の若者が「使徒」と言う名前を聞いた時にまず思い浮かべるのはペトロやヨハネのような聖書に登場する人物ではなく、宇宙からやって来た謎の侵略者たちになると言うのです。
誤解の内容にここで丁寧に説明しますと、聖書で登場する使徒たちとはイエス・キリストによって選ばれた特定の弟子たちのことで、最初のキリスト教会はこの使徒たちの宣教活動によって生まれたと考えられています。もし、この使徒たちがイエスの復活以後に人々に福音を宣べ伝えることがなかったら、私たちの教会も、また私たちの信仰も存在していなかったとまで言えるのです。それほどまでにこの使徒の存在は教会や私たちの信仰生活にとって大切なのです。
私たちは以前、この礼拝で「使徒信条」と言う教会の古い文書を学びました。これは使徒たちが信じ、人々に伝えた教えを簡単に示したものだと考えられているものです。そしてこの教えを受け継ぐ教会を使徒的教会と呼ぶことができます。つまり、キリスト教会は時代や場所はそれぞれ違っていても皆、この使徒信条の教えに従っているなら、使徒たちによって作られた教会であると言えるのです。これほど重要な働きをした者たちが使徒であるならば、どのような人がイエスによってこの使徒として選ばれたのでしょうか。イエスは弟子の中で最も優秀な人々を集めて使徒とされたのでしょうか。実際に聖書を読んでみるとここで選ばれた人たちは私たちの想像に反して意外なほど平凡な人たちであり、ある意味では問題を抱えていた人々であることが分かるのです。
②これと思う人々
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」(13節)。
前回はガリラヤ湖のほとりに群衆たちが押し寄せて、イエスが彼らに押しつぶされそうになったと言うところを学びました。今日の出来事の舞台は一転して湖から山に変わっています。この「山」と言う表現は場所を詳しく知らせると言うよりは、これから起こる出来事の意味を伝えるものだと言われています。なぜなら、旧約聖書の時代から、神が人間に何か大切なことを知らせるときには、この山と言う場所が物語の舞台として選ばれたからです。アブラハムが息子のイサクをささげた「モリヤの山」や、モーセが神から十戒の石板を受けた「シナイ山」などがその代表的な実例です。また、新約聖書でもイエスは山の上に昇り、大切な教えを人々に伝えました(山上の説教/マタイ5〜7章)。つまり、この箇所のようにイエスが山の上でされたことはとても重要な意味を持っていると言うのです。ここではイエスによって一二人の弟子たちが使徒として選ばれています。そしてこの出来事は神の救いの計画にとって大切な出来事であり、神の御意志がここで示されていると言うことを「山」と言う舞台は読者に知らせようとしているのです。
たくさんの群衆の中からイエスによって呼び集められた一二人がここで紹介されています。彼らはイエスによっていったいどのような基準で選ばれたのでしょうか。福音書はそのことについてイエスが「これと思う人々」とだけ簡単に説明しています。つまり、ここに集められた人々はイエスのご意思によって選ばれた人々だと言っているのです。この一二弟子はこれからイエスと共に、またイエスのために大切な使命を担わなければならない人々でした。ところがイエスによって選ばれた一二人は特別な人たちではありませんでした。なぜならもし、伝道のために聖書的知識が必要ならばその訓練を受けた律法学者を弟子として選んだほうがよかったはずだからです。また、神を礼拝する知識を必要とするなら神殿で働く祭司も適任であったはずです。しかし、イエスによって集められた人々はそのような人々ではありませんでした。たとえばペトロやヨハネと言った一二弟子の中でも特に重要な働きをするメンバーはもともとガリラヤ湖で働く漁師でした。さらにここで名前が記されているマタイは私たちが少し前に学んだ物語に登場したアルファイの子レビ(マルコ2章13〜17節)だと考えられています。つまり、彼はもともとローマ帝国のために働いていた徴税人だったのです。また一二弟子の名簿の中には「熱心党のシモン」と言う人物も記されています。熱心党は武力によってローマ帝国の軍隊をユダヤの地から追い出し、独立国家を再建しようと考えた人々でした。目的を遂行するためには手段を選ばず、当時様々な騒動を巻き起こしていたグループでした。現代で言えばテロリストの一味と言ってもよい人々です。
なぜ、このような人々をイエスは「呼び集められた」のでしょうか。それはイエスの思いの中に理由があると福音書は語るのです。私たちにわかりませんが、イエスの心の中には彼らを集めた理由がちゃんとあったと言うのです。つまり、彼らはすべてイエスの救いの御業が実現するために何らかの役割を果たす重要な人々として集められたのです。これは一二弟子たちだけに限られるものではありません。今、教会に集められている私たち一人一人もイエスの思いによって選ばれた者たちなのです。それでは私たちはなぜ、ここに集められているのでしょうか。聖書は私たちをイエスが呼び集めてくださったのですから、必ず私たち一人一人にもここに集められた確かな理由があると言っているのです。
2.私たちを呼び集めるイエス
①人間を通して
ところで今、私たちはイエスによってここに集められたと語ったとき、自分は「イエスに呼ばれた記憶はない」と考えたり、「いつ、自分はイエスに呼ばれただろうか」と疑問に感じられた方もいるかもしれません。それでは私たちにとってのイエスの呼びかけとはどのようなもので、どのように私たちの人生に実現したと考えることができるのでしょうか。
まず、第一に私たちへのイエスの呼びかけは「天から突然、イエス様の声が聞こえた」と言うものではありません。むしろその呼びかけは私たちに福音を伝え、私たちを教会に導いた人々から聞くことができるものなのです。私たちは誰も突然、聖書を読んだり、教会に行くことになったのではありません。誰かが私たちに聖書の内容を紹介してくれたり、私たちを教会の集まりに誘ってくれたからこそ、私たちは教会で求道生活を始めることができたのです。このように私たちに福音を伝え、教会に導いてくれた人々はそれぞれ違っていても、その人々を用いて私たちに福音を伝え、私たちを教会に導いてくださったのはイエスご自身であると言えるのです。だから私たちは彼らの働きを通して確かにイエスに呼び集められた者たちであると言うことができるのです。
②聖霊によって
さらにイエスの私たちに対する呼びかけの第二の点の特徴は、私たち自身の心に聖霊を送ってくださり、私たちに信仰を与えてくださることで実現します。その理由は、かつて罪の奴隷として生きて来た私たちの霊的機能はすべて壊されていて使い物にはならなくなっているからです。このままではいくら人から福音を聞いても、また私たちを教会に導こうとする人が現れても、私たちはその語り掛けや招きに真剣に答えることはできないのです。むしろ、霊的機能が破壊されたままの者たちはせっかく福音や神の招きを聞いても、その重大さに気づくことがなく、むしろこの世の事柄にだけ心を支配されて生きてしまうのです。だからそのような罪人が福音に耳を傾け、教会への招きに応えることができるのは奇跡と言ってよいのです。それではなぜ、私たちが福音に耳を傾け、教会への招きに応えることができたのはなぜでしょうか。私たちには優れた才能があり他の人々よりも優れているからでしょうか。そうではありません。私たちにそれを可能してくださったのは私たちを選んでくださったイエスなのです。そのイエスが天から私たちに聖霊を送り、私たちの心に神を信じる信仰を与えてくださったのです。このように私たちがイエスを救い主と信じることができるのは、私たちがイエスによって選ばれ、呼び集められた者たちだと言うことを証明しているのです。
私たちは自分が勇気を出して教会に行き、そこで求道生活をして、自分の力で信仰を得たと考えてはならないのです。イエスはそのような誤解を私たちが抱かないようにと福音書の中で次のように語っています。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)。
私たちがイエスを選んだのではありません。私たちがイエスによって選ばれ、呼び集められたからこそ今ここに私たちはいることができ、神を礼拝する恵みにあずかることできるのです。
3.自分のそばにおくために
それではイエスは何のために私たちを呼び集めてくださったのでしょうか。福音書は次のように続けて説明しています。
「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(14〜15節)。
イエスが私たちを呼び集めてくださった第一の理由はわたしたちを「自分のそばに置くため」であったと福音書は説明しています。それではなぜ、私たちはイエスのそばにいなければならないのでしょうか。もっとも大切なことはそこで私たちはイエスからの訓練を受けることができるからです。イエスは私たちを「そばに置いて」イエスの弟子として生きることができるように信仰の訓練をしてくださるのです。先ほども申しましたようにこのときイエスの元に集められた人々の中にはプロの宗教家は一人としていませんでした。皆、平凡な人と言ってもよいのです。だからイエスはその人たちが福音を伝える使徒としてふさわしい者となるように訓練してくださるのです。
しかし、このイエスの訓練はこの世の訓練とは違っているところがあります。この世の訓練はその人が一人で独立して生きて行くことができるようにするものです。しかし、イエスの訓練はそうではありません。イエスは自分の弟子を独り立ちさせることを決してなさいません。むしろ、どこまでもイエスを頼る者として弟子を訓練してくださるのです。ですからこの訓練で最も大切なことは私たち一人一人の魂がまず打ち砕かれて、謙遜にさせられると言うことです。だからイエスは「自分は大丈夫だ」と勘違いしている人々に、本当の自分の弱さを教え、その弱さの故にイエスの救いが必要であることを教えるのです。イエスの周りに集められた一二弟子たちは最初、自分の力を頼りにしていました。だから彼らはイエスが自分たちの持つ能力を認め、自分たちの価値を高く評価してくれることを望んだのです。しかし、イエスが彼らにしたことは十字架の出来事を通して、彼らの無力さを自らに悟らせることだったのです。なぜなら、彼らはイエスの十字架の出来事を前に怖くなって逃げ去ることしかできなかったからです。だから、そのような彼らが知ったのは自分にどこまでもイエスが必要であると言うことでした。
私たちはこの点で大きな誤解を抱くことがあります。たとえば私たちは「信仰生活を長く続けているのに、自分は少しも進歩していない」と嘆くことがあります。しかし、そんなとき私たちはどのような信仰者になることを望んでいるのでしょうか。私たちは神の助けなどなくても立派に独り立ちできる信仰者になるべきなのでしょうか。そうではありません。私たちはどこまでもイエスなしでは生きていきけない者であることを知る必要があるのです。イエスはそれを私たちが悟るためにご自分のそばに置いて訓練してくださるのです。そして、イエスはそのような私たちから決して離れることはなさらないのです。このようにイエスのそばで訓練を受けた者たちは次のように語るパウロの言葉を自分の確信として語ることができるようになるのです。
「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント二12章9節)。
4.宣教をさせるために
さてイエスが私たちをご自分の元に呼び集めてくださった理由は、ご自分のそばに私たち置くためだけではありません。私たちを「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と聖書は語っています。
先ほどイエスが私たちを選んでくださった理由は私たちには分からないと申しました。しかし、その理由が分かる方法が一つあります。私たちがイエスに従って、イエスのために働くことを通して、私たちがイエスに呼び集められた理由が分かって来るはずだからです。イエスに呼び集められた一二人の弟子たちは様々な異なった性格や才能を持っていました。私たちには初代教会の発展のために働いた使徒パウロの活動を聖書の様々な記述を通して知らされています。しかし、教会はパウロ一人の働きでできたのではありません。イエスによって呼び集められた人々がイエスのために働くことによって、キリスト教会は建て上げられていったのです。イエスによって呼び集められた者がそれぞれ他の人には代わることができないユニークな働きを担うことによって教会は立てられて行くのです。そして私たちのユニークな働きは、イエスのために働くことを通して私たちにも分かって来るのです。何もしない者は、自分がイエスによって呼び集められた意味を理解できないまま生きるしかありません。
イエスは弟子たちに「悪霊を追い出す権能を持たせた」と語られています。誤解してはならないのは、この権能は弟子たちに与えられた特別な才能や技術ではないと言うことです。なぜなら悪霊を追い出すことができるのはイエスだけだからです。つまり「悪霊を追い出す権能を持たせた」と言う意味はイエスが共にいてくださると言うことを示しているのです。私たちを呼び集めたイエスが私たちにゆだねられた使命はたいへんに重要なものです。しかし、私たちがこの使命に答えて生きようとするとき、私たちはイエスによって自分が集められた理由を知り、イエスが今でも私たちと共にいて、豊かに働いてくださることを知ることができるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
一二使徒たちを呼び集められた出来事から、私たちが同じように教会に呼び集められていることを教えてくださりありがとうございます。あたなは私たちをご自身のそばにおき、私たちを訓練してくださる方です。私たちがその訓練を喜んで受け、あなたと共にどこまでも生きる者としてください。私たち一人一人に与えられた使命を忠実に果たすことで、私たちが信仰の喜びと確信を受けることができるようにしてください。そのためも私たちがあなたの福音を携えて多くの人に伝えることができるように助けてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスは山に登られて何をされましたか(13節)
2.ここに集められた一二人の弟子たちは、特別に何と呼ばれる人々でしたか。彼らは何をするためにイエスのそばに集められたのですか(14〜15節)。
3.シモンとゼベダイの子ヤコブとヨハネにはそれぞれイエスからどのような新しい名前が付けられましたか(16〜17節)。
4.ここに集められた一二人の弟子たちは特別に選ばれたエリートたちだったと思いますか。
5.あなたは自分がイエスによって呼び寄せられた一二人のように自分もイエスによって呼び寄せられた者の一人だと思っていますか。もしそう確信できるなら、あなたは信仰者としてこのイエスの招きにどう応えることが大切だと思いますか。
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