2017.12.3 説教 「小舟に乗られるイエス」


聖書箇所

マルコによる福音書3章7〜12節
7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。


説 教

1.論争の場から立ち去られるイエス
①立ち去るイエス

 私たちはこれまでイエスとファリサイ派の人々との間に起こった論争についてマルコによる福音書の記述から学んできました。この論争はこの福音書の2章から始まっています。まず、中風の人の癒しについて、イエスがこのとき「あなたの罪は赦される」と語られたために、ファリサイ派の人々は「罪を赦すことなど、神おひとりのほかにはおられない」と言う考えから「イエスは神を冒涜する者だ」と言う判断を下しています(2章1〜12節)。続いて、イエスが徴税人のレビをご自分の弟子となされたときに、レビの家で行われた食事会に徴税人やファリサイ派の人々が普段、「罪人」と呼んで蔑んで来た人々がやって来ました。ファリサイ派の人々はイエスが彼らと同席されているのを見て、「聖さを重んじる信仰者としては相応しくない」とイエスを非難します(2章13〜17節)。次にイエスの弟子たちがファリサイ派の人々だけではなく、ヨハネの弟子たちさえも重要視して守って来た断食の習慣を行っていないのを見て、「あなたは弟子たちに何で断食を教えないのか」と言ってイエスに批判しています(2章18〜22節)。さらには安息日の日に弟子たちが麦畑で麦の穂を摘んだことが安息日の戒めに反することをしたと彼らは騒ぎ立てています(2章23〜28節)。また、3章に入っても、この安息日を巡る論争が続きます。ファリサイ派の人々はここでは安息日の日に片手の萎えた人をイエスが癒されて、安息日に禁じられている労働をするかどうかを試そうとまでしたのです(3章1〜5節)。このようにイエスのやることなすこと、ことごとく難癖をつけるファリサイ派の人々は3章6節ではついに「イエスを殺害しよう」と言う思いを抱き、その計画を実行するために当時ファリサイ派の人々とは政治的に敵対関係にあったはずのヘロデ党の人々までも仲間に引き入れようとしたのです。
 イエスが真実を語れば語るほど、ファリサイ派の人々のイエスへの憎悪が深まり、その思いがイエスに対する殺意を抱かせるようにまでなったと言うのです。このような人々の思いがやがてイエスを十字架の死へと向かわせていくことになるのですが、ここでの論争は今日の部分で一旦、終わりをつげています。なぜなら、イエスがその論争の場から立ち去られたからです。
 イエスが立ち去られた理由ははっきりしています。イエスはいつもご自分を地上に遣わしてくださった父なる神のみ旨に従って行動されました。確かに、その父なる神のみ旨ではやがてイエスが十字架にかかって命を棄てられるということが定められていました。しかし、それは今すぐに起こることではありませんでした。なぜならイエスが十字架にかかられるまで、まだ彼にはしなければならないことがこの地上に残されていたからです。だからイエスはご自分が天の父から与えられた使命を果たすために、ご自分からこの論争の場から立ち去る決心をされ、それを実行したのです。

②限られた時間と力を人生の目的を果たすために使う

 様々な人間関係の中に生きている私たちも、論争とまではいきませんが、人と言い争うというようなトラブルに数多く出会うはずです。そんなとき、私たちは「正義は自分の側にある」と言う思いを持っているためなのか、その争いからいつまでも身を引くことができません。結局、その結末では自分にも他人にも大きな傷を負わせることとなってしまいます。こんなときに私たちが忘れがちなのは、私たちは何のためにここに遣わされ、何のために生きているのかという自分の人生の目的です。
 イエスはこのあと12人の弟子を選び、彼らを伝道旅行に派遣されています。そのとき、イエスは彼らにこんなアドバイスをされています。

 「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(マルコ6章6〜13節)。

 イエスが弟子たちを派遣される目的ははっきりしています。人々に神の国についての善き知らせ、つまり福音を伝えるためです。しかし、だからと言ってすべての人々が彼らの伝える福音をこころよく喜んで受け入れてくれる訳ではありません。むしろ、弟子たちは人々からの反感を買ったり、冷たくあしらわれることも多かったはずです。そんなときには「足の裏の埃を払い落して、そこを去りなさい」とイエスは弟子たちに命じました。この指示の意味は「決して争うようなことをせずに、次に場所に行きなさい」と言うことです。弟子たちに与えられた時間は限られていました。だからその限られた時間を有効に使うためには、目的とは違ったことに大切な時間を使い果たしてしまったり、そのために労力を払うことは決して許されものではないのです。
 私たちの地上での命の時間も限られています。私たちに与えられている時間は無限ではありません。それなら私たちも自分に与えられた人生の目的を遂行するために、自分に今与えられている時間と力を大切に使うべきなのです。イエスがファリサイ派の人々との論争から「立ち去られた」と言う行動は、私たちが従う模範でもあるのです。

2.群衆に押しつぶされそうになるイエス
①群衆の心理

 ファリサイ派の人々はイエスに論争を挑み、何とかしてイエスをやっつけてしまおうと考えました。ところが、イエスの人気は彼らの思いに反して国中で広まって行ったと福音書記者は記録します。そしてマルコはそのイエスの人気が大変な盛り上がりとなっていたことを次のように記しています。

「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」(7〜8節)

 聖書の巻末に載せられている新約時代のパレスチナの地図を見るとここに記されている地名がどこにあるかが分かります。イエスの元にこのとき集まった群衆はたいへん広い範囲から集まって来ていたことがわかるのです。その中でもティルス、シドンと言う地名はこの地図によればフェニキアの港町で、集まった人々がユダヤの国境の範囲を超えていたことが分かります。彼らはそれぞれイエスがどんな方で何をされているかという噂を聞いていました。そしてその噂を確かめるために、わざわざイエスの元に集まって来ていたのです。マルコはイエスの元に恐るべき勢いで押し掛ける群衆の姿をここで描写しています。

 「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」(9節)。

 そのままでいればイエスが群衆に押しつぶされるような状況がここで起こっていたと言うのです。先日、テレビで70年代の日本で起こったオイルショックのときにトイレットペーパーが町中から無くなって大騒ぎした事件を取り上げていました。最初は団地の婦人たちから流れ出した「トイレットペーパーが無くなってしまう」と言う噂が次第に群衆の心理を捉えました。ですから次から次へと群衆がスーパーに集まって、血眼になってトイレットペーパーを捜し、手に入れようとしたのです。この騒動は原因は「トイレットペーパーが無くなってしまう」と誤解した主婦たちの噂が作り出したものだと言うのです。その意味でこれは群集心理が巻き起こした典型的事件であると言えます。確かにこのときイエスの元に集まった群衆は70年代にトイレットペーパーを求めてスーパーに押し掛けた人々とは違っています。しかし、本当にこの群衆たちはイエスに対する正しい理解を持って、イエスの元に集まって来ていたのでしょうか。そこには疑問が残ります。

②イエスの弟子となるために

 実は聖書はこのあとイエスによって十二人の弟子たちが選ばれると言う出来事を記しています(3章13〜19節)。マルコはイエスの元に集まる人々を明らかにいくつかのグループに分けてこの福音書で報告しようとしています。第一のグループは前回の箇所まで頻繁に登場したファリサイ派のような人々です。彼らは明らかにイエスを自分たちの敵と考え、そのイエスを陥れるためにやって来た人々です。もう一つのグループはここに登場する群衆です。彼らはファリサイ派の人々と違ってイエスに敵対するために集まって来た訳ではありません。むしろ、イエスを通して何らかの利益を受けたいと願い、大きな期待を持って集まって来た人々なのです。彼らがファリサイ派の人々と違う点は、ファリサイ派の人々はイエスの存在を自分たちとって邪魔だと考ていましたが、この群衆はイエスの力を自分たちに役に立つものとして考え、利用しようとした点です。しかし、彼らには共通している点もあります。それはいずれのグループもイエスに対する正しい知識を持っていないと言うことです。イエスの元に集まった群衆の関心は自分の願望をイエスの力で実現したいと言うところにありました。だから、やがてこの群衆はイエスが自分たちに役に立たない存在だと悟ることになります。すると彼らはファリサイ派の人々と一緒になってイエスを十字架にかけようとしたのです。
 第三に登場するグループはイエスの弟子たちです。彼らも確かに元々はこの群衆と同じようにイエスの力を使って自分の願望を実現させようと考えていた人たちだったかもしれません。しかし、彼らが他のグループの人々と違う点は、イエスに従い、イエスの本当の姿を理解しようとしたことです。
 ある説教家はここの部分のお話で興味深いことを語っています。群衆はイエスを押しつぶしてしまうような勢いでここに集まって来ていました。しかし、肝心なのはイエスが用意した小舟に自分たちも一緒に乗ることなのだと言うのです。舟は昔からキリスト教会を表すシンボルでした。だから舟に乗ることは、イエスと共に舟のような教会に加わることだと言うのです。そしてそこで熱心に信仰生活を送ることで私たちはイエスと共に生き、イエスを正しく理解していくことができるのです。だから大切なのは私たちもイエスの招きに応じて、教会生活を送ることだと言うのです。

3.汚れた霊ども厳しく戒めるイエス

 私たちが本当のイエスの姿を理解し、そのイエスが与えてくださる祝福を受けるためには私たち一人一人がイエスの弟子となる必要があります。マルコは私たちが積極的にイエスの弟子として生きて行くことが大切であることをさらに強調します。そしてそのためにここではどのグループにも属することのない「汚れた霊ども」のことも取り上げています。

 「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ」(11節)。

 ここで汚れた霊たちは一見すると正しいことを行っているように見えます。なぜなら彼らはイエスを礼拝していますし、さらに「あなたは神の子だ」と言うような正しい信仰理解まで語っているからです。この時点で、これほどまでにイエスに対する正しい理解を示した者は他にいなかったかもしれません。しかし、悪霊がやっていることは一見、正しそうに見えても、また彼らが語っていることばが正しそうに聞こえても、これは真実の行動でも言葉でもありません。
 この後のマルコによる福音書の5章にイエスが悪霊に取りつかれた人をいやすと言う出来事が記録されています。このとき悪霊はイエスを発見するとすぐに駆け寄って、ひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(7節)と叫んだとされています。悪霊はイエスが自分を滅ぼしに来た方であることを知っているので、それを恐れてイエスにひれ伏すしかなかったのです。
 ここの部分を取り上げる説教家の多くは人間の知識の限界を語ります。なぜならばどんなにイエスに対する正し知識を知っていても、それだけではその人は救われることができないからです。共産主義の思想家であったカール・マルクスは「哲学者たちは世界について様々な解釈を行っている。しかし、大切なのはその世界を変えることだ」とその著書の中で言っています。マルクスはどんなに人が正しい知識を持っていても、それだけでは何の役にも立たないと言っているのです。そしてマルクスのこの批判はキリスト教のような宗教にも向けられているのです。
 しかし、このマルクスの批判はイエスに対しては間違っていると私は思います。なぜなら、聖書が教える神はいつでも世界を変えようとしておられる方だからです。神は私たちの人生を変えようとしておられる方なのです。そしてむしろ罪人である人間こそが、神が起こそうとする変化に抵抗し、いつまでも自分を変えようとしないのです。
 ここに登場する悪魔のように神に対する正しい知識を持っているだけでは、それは何の役にも立ちません。大切なのはこの世界と私たち自身を変えようとしてくださる神の変化に私たちが従って生きることです。イエスの弟子となって、イエスの御言葉に従うことが、私たちの人生を大きく変える機会とされていることを私たちはもう一度ここで覚えたいと思います。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちを弟子として召してくださり、教会の交わり入れてくださった幸いを感謝いたします。あなたは神のご計画に従いこの世界と私たちの人生を新たにしてくださる方です。私たちの人生の上にあなたの御業が現れるように、私たちを御言葉を持ってこれからも導いてください
 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときイエスは弟子たちと共にどこから立ち去られたのですか(7節)。イエスがそのようにされた理由を考えてみましょう。
2.このときイエスの後に従って来た群衆は、どこから集まって来た人々でしたか。彼らはどうしてイエスの元に集まってきたのですか(8節)。
3.イエスは弟子たちに何をしてほしいと言われましたか。イエスがそうしてほしいと願われた理由についても考えてみましょう(9節)。
4.このときイエスの元に押し寄せた群衆たちの持っていた関心はどのようなものでしたか(10節)。
5.汚れた霊どもはイエスを見るとどうしましたか。彼らはイエスについて何を知っていましたか(11節)。
6.イエスはこの汚れた霊どもに何と戒められましたか。イエスが汚れた霊どもを戒められた理由も考えてみましょう(12節)。