2017.12.31 説教 「イエスの真の家族とは?」


聖書箇所

マルコによる福音書3章20〜35節
20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」


説 教

1.イエスを理解できない家族
①神の御心に従う養父ヨセフとその死

 伝統的な教会のカレンダーによればクリスマスの礼拝の次の週は「聖家族の日」と名前が付けられた祝日になっています。この聖家族とはイエスとその母マリア、そしてイエスの養父でありマリアの夫であったヨセフの三人の家族を意味しています。聖書によれば、ベツレヘムの村に新しい王が誕生したと言うニュースを知った当時のユダヤの王ヘロデはすぐに部下を遣わし、ベツレヘム近郊の村々で暮らしていた二歳以下の男の子を皆殺しにしています(マタイ2章16〜18節)。幸いなことにヨセフこのことを夢の中で現れた天使から予め知らされていました。ですから、ヨセフはすぐにイエスとその母マリアを連れてヘロデの支配の及ばないエジプトに脱出して、その難を逃れることができたのです。彼らはヘロデが死ぬまでエジプトに留まり、ヘロデの死後、ガリラヤのナザレに住居を定めて、そこで暮らし始めます。教会のカレンダーは「聖家族の日」にこの小さな家族を覚えることで、その家族を私たちの信仰の模範と仰ぐようにと促しているのです。
 この家族の中で、ヨセフはイエスの誕生の物語と幼い頃にイエスが神殿で迷子になった出来事(2章41〜52節)にしか登場していません。それ以降は彼の名前は聖書のどこにも記されていないのです。そのことからおそらくヨセフはイエスが成人する前にすでに世を去っていたと考えられています。しかし、このようにヨセフが登場する場面は少なくても彼が一貫して神さまの御心に従った人物であったと言うことを聖書は私たちに示しています。なぜならヨセフは自分の知らないところで身籠っていたマリアを神の御心に従って自分の妻として迎え入れたからです。また、その後も神さまの御心に従ってこの小さな一家を守り続けたのです。今日の物語にはイエスの身内や家族が登場しています。おそらく、この中にはすでにヨセフの存在はなかったと思われます。そのような意味で神の御心を求めたヨセフがいなくなったために、その一家や身内の中に大きな混乱が生まれてしまったのかもしれません。

②イエスの身内の心配

 私たちにとって自分の家族はとても大切な存在です。お互いに相手のことを一番よく知っています。だからこそ、自分の家族はこの世の中でもっとも頼りとすべき存在であると考える人も多いはずです。しかし、同時にこの家族ほど私たちの人生に大きな問題を負わせる原因となるものはないとも言えるのです。私たちは生きている限り、人間関係でたくさんのトラブルに出会うはずです。しかし、そのトラブルの大半は他人とではなく、むしろ家族との問題であると言えるのではないでしょうか。子供は「親の育て方が悪かった」と怒り、親に対する恨みを抱くこともまれではありません。親も親で「こんなはずではなかった」と言って、自分の子どもが手に負えない存在になったと嘆きます。相手が他人であれば、距離を取ったり、その関係を解消することもできます。しかし家族の場合にはそうはいきません。だから私たちの家族に対する悩みはより深刻であると言えるのです。聖書を読むとイエスの身内と呼ばれる人々も、イエスに対して同様の悩みを抱えていたことが分かります。

 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」(21節)。

 私は学生時代に左翼運動の活動家でした。その当時、成田空港建設反対運動などに参加して家になかなか帰って来ない私に対して私の両親はとても心配していたようです。そんな私を見かねて私の父は私に説教をするのですが、ある日、説教中にあまりにも父の血圧が上がって私の前で倒れてしまったことがありました。すぐに近所の医者が呼ばれ、その上で本家の家族まで父の枕元に集まって来ました。そして皆私に向かって「心を入れ替えてまじめになるように」と説得したのです。そんな体験を持っている私にとってこのときのイエスの身内の気持ちが少しわかるような気がします。
 おそらく養父ヨセフが亡くなった後にその家を継ぎ、家計を支えていたのはイエスであったと思われます。養父ヨセフとマリアの間にはイエス誕生の後に、何人かの子供が生まれていて、それらの兄弟たちを養う大切な役目をイエスは忠実に果たしていたのです。そのイエスが突然、家を離れて帰ってこなくなってしまいます。イエスについてのうわさは当然、その身内にも伝えられていたはずです。貧しい人や病に苦しむ人を助けるイエスに対しては彼らも多少の評価することができたかもしれません。しかし、やはり身内の関心は「まず赤の他人よりも身内を大切にするべきではないか。その力を身内のために使うべきだ」と考えたとしてもおかしくありません。その上、このときイエスはファリサイ派の人々や律法学者たちと聖書解釈や信仰の理解を巡って激しく争うようになっていました。もしかしたらファリサイ派の人々がイエスの命を狙っていると言ううわさまで身内の人々は耳にしていたかもしれません。だからこそ彼らは「なんとかしてイエスの行動を改めさせないと」と思ったのです。「元のような親孝行で、家族思いのイエスに戻したい」、「変になってしまったイエスを正気に戻したい」と考え、彼らはイエスの元にやって来たのです。
 彼らはなぜイエスの行動が変わってしまったのか、そのことを正しく理解することができませんでした。むしろ、彼らは昔のような孝行息子に戻る方がイエスにとってよいのだとだけ考えていたのです。彼らはイエスが自分たちに従うべきと考えていました。そのため今のイエスの生き方を受け入れることができませんでした。つまり神の御心に従って生きようとするイエスを受け入れることができなかったのです。

2.イエスを理解できない律法学者
①エルサレムからの調査団

 マルコによる福音書を記した著者は神の御心が何であるかを考えようとしない人物はイエスの身内以外もいたことを続けて語っています。それがエルサレムから下って来た律法学者たちです。そしてむしろ彼らのほうがイエスの身内よりも深刻な過ちに犯していたと告げています。

 「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた」(22節)。

 エルサレムからやって来た律法学者たちとは、おそらく当時のユダヤの宗教界を治めていたエルサレムの宗教議会から派遣されていた調査団であると考えられています。彼らは自分たちの支配のもとにある地域で問題が起こるとそれを調査し、解決する役目を担っていました。当時、イエスの元に集まる人々が多かったことはこの物語の最初の部分にも記されています(20節)。だからこそエルサレムの調査団がイエスを調べるためにやって来ていたのです。彼らはイエスが不思議な力を使って病人の病を癒していることを確認することができました。しかし、彼らはどうしてイエスにそのようなことができるのか、その理由を正しく理解することができませんでした。なぜなら、彼らはその出来事の意味を自分の持っている知識によってのみ解釈して、自分たちの持っている権威を守ろうと必死だったからです。彼らがもしイエスの持っている力が神の元から出たものであると言うことを認めてしまえば、同時にファリサイ派や律法学者たちに悔い改めを迫るイエスのメッセージも受け入れなくてならないからです。結局彼らは自分を正当化するために、イエスを受け入れることができず、イエスを遣わされた神の御心を正しく理解することができなかったのです。

②聖霊を冒涜する罪

 彼らはよりによって人々を助けるために使われるイエスの力を「悪霊の頭の力で霊を追い出している」と解釈しています。これはイエスを「気が変になっている」と理解した彼の身内よりも悪意に満ちたイエスに対する評価でした。そこでイエスは彼らの解釈が論理的にも矛盾に満ちていることを見抜いて、すぐに反論を語っています。
 悪魔が悪魔を追い出すと言うような内輪もめが起こることを決して悪魔は喜ぶことはありません。むしろ、悪魔は一致団結していつも神とその御心に従う者たちを妨害し、また滅ぼそうとするのです。だからむしろ、悪魔はいつも神と神の御心に従おうとする者たちに働きかけ、その交わりの中に内輪もめを起こそうと狙っているのです。なぜなら、悪魔は私たちが神の御心のために一つとなることを最も恐れているからです。そのような意味でこの時、悪魔の力に利用されていたのは、イエスの方ではなくむしろエルサレムからやって来た律法学者であったとも考えることができるのです。
 イエスはここで彼らの犯した罪が深刻であることを次のような言葉で説明しています。

 「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28〜29節)

 「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」とイエスは語っています。この部分を他の日本語翻訳で読んでみるとこうなります。「人の子らの犯すすべての罪と、神に対する冒涜はことごとくゆるされる」(フランシスコ会訳)。人間の犯す罪で最も重大な罪は神を冒涜する言葉を語ることです。ですからその罪さえ神が赦してくださるとしたら、神がその他のすべての罪を赦してくださることは当然のことだと言えます。だから結果的にイエスは人が犯すすべての罪を神は赦してくださると言っているのです。ところがイエスは「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と語っています。彼は「聖霊を冒涜する罪だけは例外だ」と言っているのです。それはどうしてなのでしょうか…。
 聖霊の働きはイエスが十字架の上で成し遂げてくださった罪の赦しの恵みを私たち一人一人の信仰者に分け与えることです。そのために、聖霊は私たちに一人一人の人生に働きかけて、私たちに自らの罪を悟らせ、イエスを信じて救いを得るように導いてくださるのです。ですから「聖霊を冒涜する罪」とは結果的にはイエスを信じないで自分に与えられるはずの神からの罪の赦しの恵みを拒否すると言う行為を言っているのです。イエスを拒むらならイエスの与える罪の赦しの恵みとその人は無関係になってしまうはずです。そうなると当然、その人の犯した罪の責任はそのまま残り、神の厳しい裁きを受けなければなりません。つまり聖霊を冒涜する罪とは、イエスを信じない罪だと言えるのです。だから律法学者たちの罪はそれほど深刻であるとイエスは言っているのです。

3.イエスの真の家族とは

 このとき、イエスの母や兄弟たちがイエスのいる家の外までやって来ていたと聖書は記します(31節)。彼らは人をやってイエスを呼んだと言うのです。彼らが何のためにそうしようとしたのかは明らかではありません。ただ、彼らはイエスの招きに応えてイエスの元に行こうとしたのではなく。イエスを招いて自分たちの元に来させようとした点では、イエスに従う人たちの取った行動とは対照的なものだと言えます。この点では最初に登場したイエスの身内の者たちと同じような過ちをイエスの家族たちも犯していたと考えることができます。つまりイエスの家族もまたこのときイエスのことを正しく理解することがでず、神の御心を理解することができなかったのです。イエスはこのとき周りにいた人々に次のように語りました。

 「イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」」(33〜35節)

 イエスはここで自分の本当の家族は血を分けた肉親ではなく、「神の御心を行う人」だと語っているのです。つまり、神の御心を行う人は誰でもイエスの家族となることができると言っているのです。神の独り子イエスの家族となると言うことは、その人もまた神の子、神の家族となれると言うことでもあります。
 それでは「神の御心を行う人」とはどういう人のことを言っているのでしょうか。もしあなたが、今イエスから「あなたは神の御心を行っていますか」と聞かれたらどう答えるでしょうか。「行おうと思っていますが、実際に行っているかどうかははっきり分かりません」。そんな曖昧な返事をしてしまうかもしれません。しかし、ここで語られている「神の御心」はそんな曖昧な答えになるようなものではありません。なぜなら聖書が言う神の御心とはヨハネによる福音書3章16節が明らかにしているように、はっきりとしたものだからです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 神は私たちがイエスを信じて救われることを望まれているのです。ですから神の御心を行うと言うことは、このイエスを信じて、神の救いを受け入れることを言うのです。私たちはこの救いを自分のものとするために、まず自分が自分の力では解決することのできない罪人であることを認めなければなりません。そして、その罪から救ってくださるためにイエスが十字架に掛けられたことを信じることです。その上で、私たちはこのイエスにすべての罪を赦されて神の子とされていることを感謝して生きることができるようになるのです。これが聖書の語る「神の御心を行う人」であると言えるのです。もちろん、このように私たちが生きることは人間の力では不可能です。イエスが私たちに一人一人に遣わしてくださる聖霊の働きによってのみ私たちは「神の御心に生きる者」とされるのです。
 そのような意味でこの時にはイエスの一家はイエスを十分に理解することができませんでした。しかし、この一家にもやがて大きな変化が起こります。やがてマリアはイエスの十字架を目撃したのち、イエスの弟子たちと共に生きることとなりました。また新約聖書に収録されるヤコブの手紙を書いたヤコブやユダの手紙を記したユダはイエスの兄弟であったと考えられています。つまり、彼らもイエスの招きに答えて、イエスに従う者に変えられて行ったのです。そしてそれを可能にしたのは彼らの上にイエスが聖霊を送ってくださったからです。そのような意味で、今イエスを信じことができるようになった私たちも聖霊の働きかけによってこのイエスの家族の一員にされていることを心から感謝したいと思うのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言ってくださるイエスに心からの感謝をささげます。あなたは私たちが御心を行う人となるために聖霊を遣わして、私たちに信仰を与え、私たちの罪を赦し、私たちを救ってくださいました。そのうえで私たちを神の家族としてくださる幸いを心から感謝します。どうか、さらに多くの人々の上に聖霊を遣わしてくださり、あなたと信じる者を起こしてください。そしてあなたに召された私たちが一致して、あなたにさらに仕えていくことができるように導いてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの身内はなんのためにイエスの元にやって来たのですか(21節)。
2.エルサレムから下って来た律法学者たちはイエスが行っていることを見て、それをどのように解釈しましたか(22節)。
3.イエスは彼らのこの解釈が論理的にも破綻していることをどのように説明されましたか(23〜25節)。
4.イエスはどのような人が「私の母であり、私の兄弟だ」と言っていますか。あなたは今、イエスの家族の一員とされていると思っていますか。よかったら、その理由も説明して見てください。