2017.2.19 説教 「神からの知恵」
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聖書箇所
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ヤコブの手紙3章13〜18節
13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
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説 教 |
1.ヤコブの手紙は何を教えるのか
①救われた者はどのように生きるべきか
今日の礼拝では久しぶりにヤコブの手紙に戻り、皆さんと共に学ぼうとしています。そこでまず、私たちがどのような姿勢でこのヤコブの手紙を読むべきなのかについて少し、考えてみたいと思います。宗教改革者マルチン・ルターはこのヤコブの手紙を「わらの書簡」と呼んで、パウロの書いた手紙などに比べてその価値はぐっと下がると考えました。ルターの指摘の通り、ヤコブの手紙は信仰よりも、人の行いを強調しているところがあります。もちろんヤコブは信仰と行いを対立的に捉えているのではありません。彼は正しい信仰に基づく行いについてこの手紙で論じようとしているのです。そのような意味でヤコブの手紙は人が救われるためにはどうしたらよいのかと言った問題を取り扱ったパウロの手紙と違い、キリストによって救われた人間はどのように生きるべきかと言うことを教えている点で、その執筆の目的自体がパウロの手紙とは違っていると言うことができます。
私たちの救いはイエス・キリストを信じることによって実現します。その点で信仰だけが私たちの救いの根拠であり、そこに「何か善い行いをしなければだめだ」と言うようなことを付け加えることは聖書の教えに反することとなります。それでは、キリストによって救われた者はその後、いったいどのように生きればよいのでしょうか。救われる前と同じように私たちはそれぞれ好き勝手な生き方をすればよいのでしょうか。そうではありません。キリストによって救われた者には新しい生き方が求められているのです。なぜなら、キリストは私たちが救われる前の希望の無い生活から離れて、希望に満ちた人生を生きるようにと望んでおられるからです。キリストは私たちがそのような希望に満ちた人生を送れるようにと、私たちを救ってくださったのです。ですからヤコブはこの手紙の中で、キリストに救われた私たちが、希望に満たされて、生き生きと生きることができる人生の秘訣を語っているとも言えるのです。
②私たちは見捨てられていない
ある説教者はヤコブの手紙について次のように説明しています。このヤコブの手紙の中には私たちに対する数々の命令が記されています。そしてこの命令こそが、私たちが神と共に生きていることを表す証拠だと言うのです。激戦の中、前線で闘う兵士たちには司令部から様々な命令が届きます。しかしもし、その命令が届かなくなってしまったら、それは前線の兵士にとってどのような意味を持つのでしょうか。それは彼らがもはや司令部から見放されてしまったことを意味しています。つまりこの命令がある限り、前線の兵士は司令部から見放されていないことが分かるのです。この説教者はそのよい例が旧約聖書に登場するイスラエルの最初の王サウルであると語っています。サウルは神の命令に背き、自分の考えや思いを優先させました。その結果、彼がどんなに助けを求めても神の命令は彼の元に届かなくなりました。なぜなら、神はサウルを捨て、新たにイスラエルの王としてダビデを選ばれたからです。
ヤコブの手紙はうるさいほどに私たちに神の命令を伝えます。それは私たちが神から見放されていないこと、神がわたしと共に戦ってくださっていることを表す証拠だと言えるのです。
2.あなたの知恵はどこから来たものか
ヤコブは今日の箇所の直前(3章1〜12節)で、私たちの語る言葉の問題を取り上げました。人を傷つける言葉を語ること、進んで人を非難する言葉を語り、また呪いの言葉まで口にしてしまうこと、それはキリストを信じる信仰からは決して生まれてこないことをヤコブは私たちに教えたのです。それではどうして私たちは兄弟姉妹に対してそのような言葉を語る過ちを犯してしまうのでしょうか。ヤコブはその原因を人間が持つ「知恵」に求め、その関係を説明しています。
「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」(13節)。
その人がもし正しい「知恵」を持っていたなら、その知恵に伴って「ふさわしい柔和な行い」することができるし、立派な生き方を示すことができます。ましてや言葉で持って人を傷つけることは決してないとヤコブは語るのです。それではなぜ私たちは、人を傷つけたり、非難したり、また人を呪う言葉まで語ってしまうのでしょうか。ヤコブは続けて語ります。
「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません」(14節)。
ヤコブは人を言葉で傷つける者の心が「ねたみ深く利己的である」ところに原因があると説明しています。そのような心からは必ず自分を自慢したり、真理に逆らってうそをつくような言葉を語るようになると警告するのです。この部分に関してカルヴァンは人を非難する人が抱える最大の問題は、「自分は正しい」と思い込みをしているところにあると語っています。だからそのような人は自分の持っている判断基準に合わない人を、厳しく裁こうとするのです。そして、そのような人は自分が一番でなければならないといつも思っています。だからそうでないような事実に出会うと自慢をすることで自分の立場を高めようとしたり、逆に他人を非難することで相手の立場を低めようとするのです。そして自分の立場を守るためにはうそを平気でつくことにもなるのです。
ヤコブはこのような人は自分の持っている知恵についてよく反省してみるべきだと語ります。彼らは自分の持っている知恵は誰よりも優れていると思っています。しかし、実際はそうではないのです。
「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです」(15〜16節)。
問題はその知恵が神からのものではなく、「地上の者、この世のもの、悪魔から出た」ものであると言うところにあるのです。つまり、私たちは自分が最も頼りにしている、自分の言動を判断する基準として持っている自分の知恵がどこから来ているものかを注意深く見極める必要があるのです。そうでなければ、言葉尻だけに気をつけて、表面上はいくら丁寧な言葉を使って相手を尊重しているように見せかけても、結局は自分の利益を求め、そのために他人を犠牲にする者となってしまうのです。そして、ヤコブは私たちが今まで頼りにして来た自分の持つ知恵の誤りを悟り、私たちに「上からの知恵」を求めるようにと勧めのです。なぜならヤコブはこの手紙の冒頭で次のように語っているからです。
「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(1章5節)。
いつも来ている服がぼろぼろになってどうしようもないので、お店から新しい服を買ってきました。ところが、私たちは今まで着ていた服を捨てるのがもったいないと言って、相変わらず古い服を着ている、そんな過ちを犯すことがあります。ヤコブは私たちに神が「上からの知恵」を与えてくださろうとしているのだから、それを大胆に求め、その知恵に基づいて物事を判断し、生きて行くことが大切だと私たちに教えるのです。
3.上からの知恵を求める
ここで気づくことは、ヤコブはこの手紙の中で私たちに何らかの自己修養の道を教えているのではないと言うことです。自己修養は様々な修行やトレーニングを積むことによって、私たちが本来持っている優れた能力を引き出すことに目的がおかれています。自己修養を積めば積むほど、その人が持っている能力が開花して来くると言うのです。しかし、ヤコブはここでむしろ私たちが自己修養の道を放棄して、上から知恵を求めるようにと勧めているのです。なぜなら、私たちの内側からは何のよきものも出てこないからです。また、ヤコブはこの世の知恵にも期待してはならないと語っています。なぜなら、その知恵の根拠は「悪魔から出た」ものであって、私たちが神に背を向けて、神から離れて行く道を教えているからです。それでは「上から出た知恵」を持ち、その知恵に従う者の生活には一体どのような変化が起こるのでしょうか。
「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(17〜18節)。
パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で聖霊なる神が私たちにもたらしてくれる実について次のように語っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(5章22〜23節)。ヤコブの語る「上からの知恵」とパウロの語る「霊の結ぶ実」は同じことを言っているように聞こえます。ですから、私たちは大胆に神に知恵を願い求める必要があります。もし私たちがそれを熱心に願い求めることができないとしたら、それはどこかで自分の知恵は優れていると勘違いしているのだと言えるのです。
4.共に生きる者の上に実現する平和
さて、ヤコブは今日の箇所の最後で「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちにまかれるのです」と語っています。ヤコブは「上からの知恵」を求め、その知恵によって生きる人は平和を作り出す人であり、その人自身も平和の内に生きることができると教えています。
私たちは何よりもこの世界に平和が実現することを求めています。争いを好む人はいないはずです。むしろ、争いを主張する人は、真の平和を勝ち取るために戦わなければならないと主張しています。ところが平和を実現するために戦っても、真の平和を得ることはできず、ますます争いが拡大していくのがこの世界の実情ではないでしょうか。それ故、人々はその争いに疲れ果ててしまうのです。そしてそのような人は真の平和を求めるために、すべての人間関係を絶とうとするのです。自分の心にかき乱すようなすべての問題から遠ざかれば自分の心に平和がやってくると考えているからです。しかし、聖書は私たちに真の平和はそのようなところで得られるものではないと教えています。そして聖書はむしろ、私たちが兄弟姉妹と共に生きるところで平和は実現するのだと教えているのです。
ヤコブは上からの知恵について「何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」と教えています。注意すべき点はここに語られている徳目は、すべて対人関係の中でこそ必要とされるものだと言うことです。自分は誰とも生きる必要はない、一人で生きて、一人で悟りを開くと考える人はヤコブの教える言葉に耳を傾ける必要ありません。これらの知恵は私たちが自分以外の他者と生きるときに必要とされるものだからです。ですから真の平和は上からの知恵を受けて、私たちが自分以外の兄弟姉妹と生きるところで実現されるものだと言えるのです。そして私たちの心の平和も私たちが兄弟姉妹と生きるときに実現していくものだと言えるのです。
「パーフェクトヒューマン」と言う歌が少し前に流行りました。直訳すれば「完全な人」と言う意味の歌です。この歌の内容とは直接関係はありませんが、私たちはどこかでいつも「完全な人」になりたいと願っているところがあります。しかし、もし私たちがこの願い通りに「完全な人」となってしまったらどうでしょうか。その人に神は必要でしょうか。一緒に生きていく兄弟姉妹は必要でしょうか。おそらく、「パーフェクトヒューマン」には、自分以外の何者も必要ではなくなるはずです。ですからヤコブは私たちに「パーフェクトヒューマン」になることを教えているのではないのです。私たちは神をいつも必要としています。共に生きる兄弟姉妹をいつも必要としています。だから「上からの知恵」を求める者は一人では生きていくことのできない者であることを認め、神の助けを求め、兄弟姉妹と助け合って生きて行くことが大切であると言えるのです。神は自分が一人では生きていけないことを認める私たちに平和を実現し、平和の中に生きることができるように上からの知恵を大胆に与えてくださるのです。
5.最前線に立たれるイエスの命令に従う
最初に、ヤコブの手紙の言葉は前線の兵士に伝えられる司令部からの命令のようなものだと言う、ある説教者の説明を紹介しました。だから私たちにこの命令が届けられている限り、私たちは見捨てられていないこと、ひとりぼっちではないことが分かると言うことを学びました。ところで、もし私たちが戦いの最前線に立てられている兵士だとしたら、私たちに送られてくる司令部の命令とは誰から発せられたものなのでしょうか。私たちの戦いを左右させるこの命令は誰から送られて来るものなのでしょうか。ヤコブは自分を「イエス・キリストの僕」(1章1節)としてこの手紙の冒頭で紹介しています。つまり、ヤコブは私たちにイエス・キリストの言葉を取り次ぐものだと言うのです。通常、最前線で戦う兵士に対して、司令部が置かれるのは遙か後方の安全地帯です。なぜなら司令部が真っ先に攻撃を受けて無くなってしまったら、それ以上戦いを続けることができないからです。しかし、私たちの司令官であるイエス・キリストはそのような安全地帯におられる方ではありません。キリストはいつも私たちの前に、戦いの最前線に立たれる方だからです。なぜならキリストは私たちにこう言っているからです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。
キリストは私たちの前に立ち、私たちのためにあらゆる敵と戦って勝利してくださっているのです。だからキリストは自分が戦い取った安全な道を私たちが歩むことができるように、数々の命令を私たちに送ってくださるのです。私たちが彼の命令に従って行くなら、安全に目的につくことができるはずです。しかし、もし私たちがこの命令を無視して、自分勝手に歩み始めるなら、私たちは危険な地雷原に足を踏み入れることになってしまいます。だから私たちは私たちの身の安全を保証し、私たちを目的地に導く、キリストの命令に耳を傾ける必要があるのです。そして私たちが彼の命令に聞き従っていくなら、この地上で平和を実現する者となり、平和の内に生きることができるようにされるからです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちは愚かにも自分が知恵に欠けている者であることに気づかずに、この世の知恵に惑わされ、平和を実現することができない者たちです。しかし、そのような私たちにあなたは上から知恵を送り、その知恵によって平和を実現し、平和の内に生きることができるようにしてくださいます。どうか私たちが私たち向けられたイエスの命令に従うことができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.ヤコブは「自分は知恵があり分別がある」と思っている人に対して、その証しとして何を示しなさいと語っていますか(13節)。
2.私たちの心がねたみ深く利己的であるなら、私たちはどのような罪を犯す可能性があるとヤコブは言っていますか(14節)。
3.ねたみや利己心を私たちの心にもたらす知恵はどこから来たものだとヤコブは言っていますか(15〜16節)。
4.これに反して、上から出た知恵は私たちの毎日の生活にどのような実をもたらすとヤコブは教えていますか(17節)。
5.キリストは武力のような強い力を持って人々を支配するのではなく、人々の罪を赦すことで彼らを神の国の住民としてくださいました。私たちが「平和を実現する人」になるために、キリストの生き方から学べる点は何ですか(18節)。
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