2017.2.26 説教 「神に近づきなさい」
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聖書箇所
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ヤコブの手紙4章1〜10節
1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
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説 教 |
1.ヤコブの示した知恵の根拠
①知恵文学
今日も皆さんと共にヤコブの手紙の言葉から学びたいと思います。先日もこの手紙がパウロの記した手紙とは書かれた目的自身が異なっているために、両者の手紙を同等に比べて論じることには無理があると言うことを少しお話ししました。今日も、最初にこのヤコブの手紙の持つ特徴についてもう少し考えて見ることから始めたいと思います。
このヤコブの手紙は聖書の中の分類から考えるとどちらかと言うと「知恵文学」と言うジャンルに入るものだと一般的には考えられています。この知恵文学は信仰生活について先祖から伝えられてきた教訓を集めたいような本、私たちの身近で言えば「ことわざ」集のような部類に入るものだと言えます。旧約聖書の中でこの知恵文学に分類される代表的な文書は「箴言」です。たとえば箴言には「 口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する」(10章19節)とか、「自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる」(13章3節)と言った言葉が収録されています。これらの言葉は少し前に私たちがヤコブの手紙の言葉から学んだ、「自分の舌をコントロールせよ」と言うヤコブの教えとどこか通ずるとこがあるような気がします(3章1〜12節)。
この知恵文学の特徴はパウロの手紙のように論理的に文章が綴られているのではなく、信仰者の中に伝わる先祖たちの知恵の数々が収録されていて、そこに収録されている言葉は前後の文脈を気にすることなく読むことが可能だと言うことです。この知恵文学とは違ってパウロの手紙のような文章の言葉はその前後関係を十分に理解しなければ言葉の真意を理解することは困難となります。知恵文学に属する文書はそれぞれの言葉が独立していて、その言葉だけを読んでも理解できるのです。ヤコブの手紙を読んでいると何か同じことを繰り返して語っているようにも聞こえます。それは、ヤコブが取り上げようとしている問題に対して、彼は先祖たちから伝えられた様々な教訓を紹介してようとしているからだと言えるからです。
②兄イエスから学んだ知恵
ただ、このヤコブの手紙の言葉を理解しようとするときにもう一つ忘れてはならない点があります。それはこの手紙の最初の部分でも学んだようにこの手紙の著者ヤコブがイエスと同じマリアの子として生まれた異父兄弟であったと言う点です。ヤコブは兄のイエスの姿を身近で知り得ることができた特別の立場にいた人物であったと考えることができるのです。
イエスの生涯を伝えようとする福音書のほとんどはイエスが救い主として公に活動されたほぼ三年間の出来事を記しています。しかし、ヤコブは福音書に記されてはいないイエスの生涯を知り得た人物でした。そのような意味でヤコブがここに収録している知恵は、自分の兄であったイエスが実際に日常の信仰生活の中で示した態度から学び得た教訓であったとも推測できるのです。私たちは信仰生活の中で様々な問題に出会います。そのとき、私たちはヤコブの手紙を通して、イエスが示した信仰的な知恵を学び取ることができるとしたら、それは私たちにとってどんなに幸いなことだと言えるでしょうか。
2.争いの原因は何か
①原因はあなた自身の内側にある
ある小学校で児童を巡って深刻な問題が起こりました。そこでその問題を話し合うために父兄たちが学校に集められました。話し合いが始まると集まった父兄たちは「最近の教師たちの質は低下している。問題の原因は教師たちにある」と責め立てました。するとその話に堪りかねた教師たちは父兄たちの言葉に反論して「いえいえ、問題なのは無責任な親たちが多くなったせいです。原因は無責任な子供たちの親にある」と言い出したのです。そのためにこの話し合いは激しい論争の舞台となりました。結局その話し合いで教師と父兄たちが見つけだした妥協点は次のようなものでした。「国の教育方針が悪いから、児童が問題を起こすのだ」と。私たちは問題に出会うと、その原因を誰か自分以外のどこかに求める傾向があります。自分に責任があるとは思わないのです。ヤコブはそのような傾向を持つ私たちに次のように警告しています。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(1節)
前回の学びで平和について私たちは学びました。そこでは上からの知恵、神さまから知恵をいただいて行動する者こそ平和を実現する者となり得るし、自らも平和の内に生きることができるとヤコブは教えていました。ヤコブはここでまた私たちの目を実際の生活に向けさせて考えさせようとしています。「実際にあなたたちの信仰生活に戦いや争いが絶えないのはどうしてなのか。どうして平和を実現することができないのか。その原因はどこにあると思うのか」と私たちに問うのです。そう言われれば私たちはすぐに「あの人がいけないのです。あの人さえ私の言うことを聞いてくれれば問題はなくなるはずです」と答えたり、「あの人がいなくなったら、きっと私の信仰生活に平和が訪れるはずです」と語るかもしれません。しかし、ヤコブは争いの真の原因はそんなところにないと語り、「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」と言うのです。
②自分の欲望に振り回される生き方
この「内部で争い合う欲望」とは、自分の思い通りにならないと気が済まないと言う人間の心の姿を語っています。誰もが自分の思った通りに世界が回ればよいと考えています。しかし、私たちの住む世界は決して私たちを中心に回っている訳ではありませんから、当然私たちは自分にとって不都合な現実に出会わなければなりません。ヤコブが「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」と語るのは、そのような自分の欲望に振り回されている人間の姿を表現しています。自分の欲望を実現するために、それを妨害している者を排除しようとすること、そのような人々と激しく戦ったりする人間の姿がここには語られているのです。
ここでおそらく物事が自分の思い通りにならないと考える人は次にこう考えるかもしれません。「私は神さまを信じているのに。神さまに一生懸命になって、このことが実現するようにと祈ったのに。それなのになぜ物事は思い通りに進まないのだろうか…。これはきっと神さまが悪いに違いない。神さまは私の祈りを無視されているのが原因だ」と言い始めるのです。だからヤコブはそのような疑問を抱き始める人々に容赦なく答えるのです。「得られないのは、願い求めないからで(す)」と。
3.間違った願い方
①逆転現象
いったい、私たちの祈りのどこが間違っているのでしょうか。なぜ、ヤコブは「あなたがたは本当は何も神に願い求めていな」と語るのでしょうか。ヤコブはその訳を次のような言葉で説明しています。
「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(3節)。
ヤコブはそのような疑問を抱く人々は神に願い求める際の動機が間違っていると言うのです。だから神は彼らの祈りに答えてくださらないのだと説明するのです。このような人は自分の欲望を満足させるためにだけに神に願い求めています。彼らは神がいつも自分の欲望だけを満たしてくれるようにと願っているにすぎないのです。これは神を信じ、神に従う者の献げる祈りではありません。だからヤコブはこのような人の行為を厳しい言葉で非難しているのです。
「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」(4節)。
自分の欲望を満たすためだけに神を利用するよう人についてヤコブは「それは信仰とは言えない。むしろ、それは神に背く行為であって、神の敵がすることだ」と語っているのです。ここには神と人間との関係の逆転現象が生まれています。私たちが神に仕えるのではなく、神の方が私たち人間に仕えるべきだと考えているからです。
このような人の願いを神が聞かれるはずは到底ありません。神は私たちの欲望を満足させるために働かれる方ではなく、むしろ私たちが自分の欲望から自由になり、真の救いを受けるために働かれる方だからです。
②私たちの方が神から遠ざかろうとしている
ヤコブは自分の欲望を満たすために神を利用しようとする者の愚かさを非難した上で次におもしろい言葉を続けて語っています。
「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」」(5〜6節)
実はここでヤコブは「聖書は次のように書いている」と言って二つの言葉を引用していますが、このいずれの言葉も私たちが持っている聖書から見つけることができません。ですからこの言葉は昔から様々な議論を呼び起こすものとなっています。多くの人は聖書の教えを伝える何らかの信仰文書の言葉がここに引用されているのではないかと推測しています。確かにこれと全く同じ言葉は聖書にはありませんが、この言葉の語っているところは聖書の教えと矛盾せず、むしろ聖書を解説しているように聞こえるからです。
「神は自分の願いを叶えてくださらない」と不平を言う人は、神が自分からずっと遠い場所にいて、自分の祈りを無視していると考えるかもしれません。また自分に対して少しも愛情を持っていなのではないかと疑うかもしれません。しかし、ヤコブはそのような人々の疑問に「それは全く違う」と断言します。実際に「神は私たちの近くにおられる」と言うのです。なぜなら今は天におられるイエス・キリストは私たち信仰者のために天から聖霊を送ってくださっているからです。この聖霊は私たちの「内に住まわれる霊」として、私たちと共にいてくださる方なのです。神はそのようにして私たちに聖霊を送り、私たちを愛し、恵みを豊かに与えようとしてくださるのです。
そして、その神の愛が私たちに伝わってこないのは、私たちのもつ「高慢」と言う問題にあるとヤコブは語ります。「自分は正しく他人は間違っている」。「自分は正しく神の方が間違っている」。いつも自分の考えが一番であると考える「高慢」な人間の態度が、様々な問題を引き起こす原因になっていると言うのです。
水は高いところから低いところに流れます。神の恵みも同じようにたとえることができるかもしれません。高慢な人のところには恵みは流れてきません。だから神の恵みを受けるためには低くなること、謙遜になることが大切であるとヤコブは語っているのです。
4.神に近づきなさい
そしてヤコブは次のように勧めています。
「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい」(7〜8節)。
神は私たちの近くにおられるのです。そして私たち恵みを豊かに与えようとされているのです。だから大切なのは私たちの方が神に近づくことであるとヤコブは語ります。この神に近づくとは、神に従うことを言っています。この世の欲望に支配される私たちはたくさんのものを両手に握りしめて生きています。その握りしめた手を開かなければ、神から新たな恵みを受けることができません。「手を清めなさい」とは、神からいつでも恵みをいただけるように準備しなさいと言うことです。これは私たちの心も同じです。神以外の何かを頼りにしようと生きているからこそ、神に真剣に願い求めることができないのです。そのことに気づき、神だけが私たちに真の恵みを与えてくださると信じることが大切であると言うのです。
「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(9〜10節)。
かつてイエスは山上の説教の中で「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)と語られました。この「悲しむ人々」とは自分の欲望が満たされないから悲しんでいる人々ではありません。そうではなく、自分が神さまに従い得ない弱い罪人であると言うことに気づき、それを悲しんでいる人のことを語っているのです。「主の前にへりくだる」と言うことは、自分は神の助けがなければ生きられない存在でることを素直に認めることです。そして心から神に従って行きたいと願う者のことです。そのように願う者を神は助けてくださいます。そして恵みを豊かに与えてくださるのです。神がその人を「高めてくださり」、喜んで神に従う者としてくださるのです。
私たちに大切なことは他人を自分に思い通りに従わせることではありません。ましてや、神を自分に従わせることでもありません。むしろ私たちが神に従おうとするとき、私たちの人生には決定的な変化が起こります。そしてそのとき神の平和が私たちの生活に実現するのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちはあなたに救われていながらも、他人を自分の思い通りに操りたいと言う願望を持ち、また神さまさえも自分の欲望を実現させるための道具にしてしまうような愚かなものたちです。私たちがこのような深刻な罪を持つような者たちであったからこそ、イエス様が十字架でその罪を償わなければならないかったことを覚えます。しかし、あなたは、そのような私たちを愛し続け、恵みを与えようといつも準備してくださっています。私たちが自分の愚かさを悟り、あなたに近づくなら、あなたは聖書に記されている放蕩息子の父親のように私たちを受け入れ、私たちを助けてくださる方であることを感謝いたします。どうか私たちにあなたに新たに従う心を与えてください。あなたの恵みを受け取ることができるように、様々なものを握りしめている私たちの手をからの手にしてください。私たちの心をあなたに向かわせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.ヤコブは私たちの間で起こる戦いや争いの原因について何と説明していますか(1〜2節)。
2.さらにヤコブは私たちが「願い求めて」も得られない原因をどこにあると説明しています(2〜3節)。
3.「神が自分の願いを聞いてくださらない」と思う人はどのような疑問を神に対して抱くことになるでしょうか。その疑問にヤコブはどのように答えていますか(5〜6節)
4.神が私たちを愛し、私たちにもっと豊かに恵みを与えようとしておられると語るヤコブは、その恵みを受け取るためにどうしなければならないと教えていますか(7〜8節)
5.ヤコブは私たちに「悲しみ、嘆き、泣きなさい」と勧めています。これはどういう意味ですか。私たちは何を悲しむべきなのでしょうか。主イエスの語られた山上の説教の言葉(マタイ5章4節)をヒントに考えて見ましょう
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