2017.2.5 説教 「主イエスと『主の祈り』」


聖書箇所

マルコによる福音書14章36節
(イエスは)こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」


説 教

1.祈るイエスの姿を目撃した弟子たち

 今日も皆さんと共に主イエスが私たちのために教えてくださった「主の祈り」について学びたいと思います。前回すでに学びましたようにこの「主の祈り」は主イエスが弟子たちの「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11章1節)と言う願いに応えて与えてくださった祈りです。この主イエスの弟子たちは確かにファリサイ派の律法学者のように宗教の知識に長けた専門家ではありませんでした。彼らはむしろ普段は平凡な生活を送っていた人々でした。しかし、そのような普通の人であっても弟子たちのほとんどはユダヤ人の家庭で育てられた人々でしから、子どもの時から聖書を学び、信仰生活についても教えられていたはずです。当然、彼らは神に祈る方法を知り、実際に毎日、その方法に従って神に祈りを献げて来たはずなのです。そんな彼らがあえて、イエスに「祈りを教えてください」と願わざるを得なかった理由はどこにあったのでしょうか。それは彼らが祈るイエスの姿に実際に出会ったからだと考えることができます。弟子たちは実際に父なる神に熱心に祈るイエスの姿を見たときに、その祈りは自分たちの知っている祈り、毎日当たり前のように献げて来た祈りと全く違っていることに気づかされたのです。彼らはこの時、「イエスは本当の祈りを知っている」と感じました。だから、彼らはイエスに本当の祈りを自分たちも教えて欲しいと願わざるを得なかったのです。
 それではイエスは実際にいつもどんな祈りを父なる神に献げていたのでしょうか。そしてその祈りは弟子たちがそれまで知っていた祈りとどこが違っていたのでしょうか。今日はこの主イエスの祈りについて考えながら、その主イエスの祈りと「主の祈り」との関係について少し考えて見たいと思うのです。

2.イエスの祈り
①ゲッセマネの園のミステリー

 福音書を読むと主イエスはその生涯に渡って度々、父なる神に祈りを献げていたことが記されています。特にイエスは救い主としての使命を遂行するために父なる神に熱心に祈り続けました。今月の聖句となる言葉もそのイエスが献げた祈りの内容が記されています。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 これは主イエスが逮捕され、十字架にかけられる前にゲッセマネと呼ばれる園で献げられた祈りの言葉です。このときイエスは弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れてこの園にやって来ていました。このときの様子を聖書は次のように語っています。
 「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」」(マルコ14章32〜34節)。
 聖書によればイエスはこのとき「ひどく恐れてもだえ始め」ていたと語られています。恐れのあまり「身悶えして苦しむ」、そんなイエスの姿がここには記されているのです。そのためイエスはこの時、弟子たちに「自分から離れないで一緒にいてほしい。目を覚ましていてほしい」と願われたのです。このように、ここには主イエスの意外な姿が紹介されています。人々に度々「恐れることはない」と語りかけてくださったはずのイエスが、恐れに襲われて死ぬほど苦しんでいるのです。このときイエスは誰かに一緒にいてほしいと願わざるを得ませんでした。いつも父なる神が共にいてくださることを信じ、人々にもそのよう教えてくださったイエスが孤独を感じ、その孤独のあまりに自分の弟子たちに助けを求めておられるのです。
 しかし、主イエスに助けを求められた弟子たちはその求めに答えることができませんでした。イエスが祈りから戻って来られると、少し離れた場所にいたはずの弟子たちはぐっすり眠ってしまっていたと言うのです。彼らはイエスの苦しみなどどこ吹く風と言わんばかりに眠り込んでしまっていたのです。
 ところで、ここで一つの疑問が浮かんできます。弟子たちはこのとき「目を覚ましていなさい」と言う主イエスの言葉に従うことができず、眠り込んでしまっていたはずです。そして主イエスはその眠り込んでしまった弟子たちの近くで熱心に祈っていたのです。

 「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」(35〜36節)。

 確かに聖書にはこのとき苦しみながら祈るイエスの祈りの内容が紹介されています。それならいったい誰がこのイエスの祈りの言葉を聞き、その祈りの姿を目撃していたのでしょうか。弟子たちはこのとき眠っていたはずです。このときゲッセマネの園には誰か別の第三者が存在していたと言うのでしょうか。聖書はこの物語に隠された背景を一切説明していません。だからこれはイエスのゲッセマネの祈りを巡るミステリーとなっているのです。

 このミステリーに対してある人はこう考えました。イエスがゲッセマネの園で献げられた祈りは決して、このときだけ献げられた特別な祈りではなく、イエスがいつも祈っていたものだったと言うのです。もちろん詳細な内容は時と場所によって多少の違いはあるかもしれません。しかし、主イエスがいつでも同じように祈りを献げていたと言うことは想像できるものです。主イエスはいつも自分の人生を通して、父なる神の御心が実現するようにと祈っていたのです。だからイエスはゲッセマネの園でも十字架を前にして、いつも献げていた祈りをより熱心に祈られていたと考えることができるのです。

②「自分ファースト」ではない祈り

 主イエスの祈りの特徴は何なのでしょうか。それを考えるときに上げられる一番の特徴は、イエスは自分の願いを祈るよりも、父なる神の願いが実現するようにといつも祈っていたことです。これは私たちが普段献げている祈りと大きく異なっています。私たちは普段、まず自分のために祈っているはずです。そうでない場合は、自分の家族や友人のために祈りを献げています。最近、テレビで「アメリカファースト」とか「都民ファースト」と言う言葉がよく聞かれるようになりました。この言葉を私たちの祈りの生活に適用すれば「自分ファースト」と言ってよいかもしれません。「自分ファースト」、私たちはいつも自分のこと、自分に深く関わることだけに関心を持ち、そのために祈ろうとするのです。しかし、イエスの祈りはそうではありませんでした。彼は父なる神の願いがまず実現されることを、自分の毎日の生活を通してもその父なる神の願いが実現されることを熱心に祈り求めたのです。
 イエスは私たちに「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)と語られています。主イエスは実際にこの言葉の通りの祈りを献げることができた方なのです。ですから「自分ファースト」の祈りを献げる者であれば、誰でもこのイエスの祈りの姿に触れれば大きな驚くを感じることになります。

3.イエスの抱いた死への恐れ
①自分の死を誰よりも恐れたイエス

 ある説教者はこのイエスのゲッセマネの祈りの姿を取り上げながら大変興味深い話題を語っています。先ほど読みましたように、この時の主イエスの姿は普段の彼の姿とは大きく異なっていました。イエスはこの時、恐れに捕らわれながら、深い孤独を感じつつ、父なる神に祈っているのです。写本によっては欠けているものもあるようですがルカによる福音書では「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22章44節)とも記されています。宗教改革者のルターはこのイエスの姿を解説して「この人間ほど死を恐れた人は他には誰もいない」と語ったと言うのです。
 確かに私たちは自分の死を前にして誰もが恐怖を覚えるはずですし、そのとき身悶えするような苦しみを感じ、孤独感を痛感するはずです。しかし、このときのイエスの恐怖はそんな私たちが味わうレベルのものではないとルターは言っているのです。
 私たちの知っている歴史に登場する英雄たちの多くは自分の死を恐れることがありません。彼らは自分の死を前にしても堂々としていますし、いさぎよく死を受入れました。多くの英雄伝にはそのような記事が残されています。そのような歴史上の英雄たちの姿とは対象的に、この時の主イエスは死を前にして恐怖し、苦しみ悶えているのです。どうして、イエスはこの時にそのような姿を示されたのでしょうか。どうして福音書はイエスのそんな姿をわざわざ紹介しようとしたのでしょうか。それはこのイエスだけが人間の死の恐ろしさを良く知っていたからです。誰も耐えることもできない死の力の本性をイエスだけは知っておられました。そして主イエスはその死の恐怖から逃亡することを拒み、あくまでもその死と向き合い、その死と戦われたのです。イエスのゲッセマネの祈りのミステリーのもう一つの核心はここにあります。

②私たちの代わりに恐れてくださったイエス

 この主イエスとは違い私たちは自分の死の本当の恐ろしさを知りません。また、この死の恐ろしさに向き合うこともできないで、いつもこの死の現実から逃げだそうとするのです。もちろん、誰もこの死の現実から逃げ去ることはできる人はいないのです。
 聖書は人間の死を単に物理的な単なる肉体の死とは教えていません。むしろ、聖書は人間の物理的な死は霊的な死がもたらす結果だと教えているのです。神に背を向け、神に対して罪を犯した人間は、その罪の代価として死ぬべき者とされたと教えているのです。つまり、人間の死は罪を犯した人間に対する神の厳しい裁きそのものだと言えるのです。私たちはこの死の本当の恐ろしさを知りません。むしろ「人が死ぬのは当たり前のことだ」と考え、どこかで諦めを付けて、自分の死を迎えなければならないと考えているのです。しかし、聖書は人の死の本当の正体はそのようなものではないと語ります。死は罪人に対する神の厳しい裁きによってもたらされます。そしてこの裁きに耐えることができる人間はこの世には一人も存在しないのです。
 ところが、主イエスだけがこの死の本当の正体と向き合い、その恐ろしさを体験されたのです。だからルターが語ったようにイエスほどに死を恐れた人はこの世には誰もいないと言えるのです。本来であれば罪とも死とも無関係であるはずの主イエスが死を前にして苦しみ悶えられたのです。それはどうしてでしょうか。なぜなら主イエスが死と真剣に向き合われたのは私たちのためにであったからです。主イエスは私たちに代って死んでくださったのです。だからこそ、主イエスが抱いた死に対する恐れも、私たちが味わうはずの恐れであったと言えるのです。イエスがこの恐れをお一人で担ってくださったのです。だから、イエスを信じる私たちは死からも死の恐れからも完全に自由にされると言えるのです。そのような意味で主イエスの献げたゲッセマネの祈りは、私たちの代わりに献げられた祈りであると言ってよいのです。

4.私たちのために祈られるイエス
①自分の抱える深刻な問題を知らない

 私たちが神に祈ることはとても大切です。信仰者にとって祈りは呼吸のようなものだと言われています。人間は呼吸を止めてしまったら一時たりとも生きることができないように、祈らない信仰者は死んだ信仰者であり、その信仰は死んでいるとまで言ってよいのです。ところが、そのように重要な祈りを私たちは平気で怠ってしまったりするのです。「祈らなくても大丈夫」と思い違いをしてしますのです。それはどうしてでしょうか。それは私たちが自分の力を過信しているからであると言えます。だからどこかで「祈らなくてもなんとかなる」と思い込んでしまっているのです。私たちは神に祈って助けを求めなければどうにもならない無力な存在であることに気づいていないのです。そしてもう一方では、自分の人生は自分の力では解決が付かないほどに、深刻な問題を抱えていることに気づいていないのです。
 しかし、私たちの主イエスは私たちが無力な存在であること、そしてその私たちが担わなければ成らない人生の問題が自分の力では解決のつかない深刻なものであることを良く知っておられたのです。だから主イエスは私たちのために十字架にかかってくださったのです。そしてイエスはその十字架の上で、自分の死を前にしてまで父なる神に次のように祈りを献げられました。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23章34節)

 イエスが十字架にかかって苦しんでおられるのは、自分では担い切れない人間の罪と死の問題を代って担ってくださってくださるためだったのです。しかし肝心の担われている私たちが全くそのことに気づいていないのです。そんな私たちのためにイエスは父なる神に祈ってくださっているのです。

 主イエスの弟子たちは祈る主イエスの姿に出会って驚きを隠すことができませんでした。どして彼らはそんなに驚いたのでしょうか。それは主イエスがいつも自分たちを愛し、自分たちのために祈ってくださっていることを知ったからです。主イエスは私たちの知らない、私たちのすべての問題を知ってくださっています。そして、その上で私たちのために祈り続けてくださっているのです。

②主イエスの祈りに支えられている私たち

 福音書にはこの祈る主イエスと弟子のペトロとの間に交わされた印象深い会話が記されています。イエスの十字架を前にしてペトロはこれからすぐに自分の弱さのために、主イエスを見捨ててしまうことを知らないでいます。むしろ自分だけは最後まで大丈夫だと勘違いしていました。しかし、主イエスはそのようなペトロに次のように語られたのです。

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22章31〜32節)

 主イエスはペトロの弱さと、ペトロが遭遇しなければならない問題の深刻さをよくご存知でした。だから彼はペトロのために祈られたのです。同じようにイエスは私たちのためにも祈ってくださっているのです。私たちが知らない、私たちの深刻な問題のすべてをご存知の上で、祈ってくださっているのです。
 「主の祈り」は私たちのために祈ってくださるイエスが私たちのために与えて下さった祈りです。だから、この「主の祈り」の本当の力は、この私たちのために祈り続けるイエスの祈りにあると言ってよいのです。私たちは自分が本当に祈らなければならない課題を知りません。本当だったら、汗が血のようにしたたり落ちるほど熱心に祈らなければならない問題を抱えているのにそれを知りません。しかし、その私たちのためにイエスは代って祈ってくださっているのです。私たちに代って苦しんでくださったのです。だから、イエスは私たちにこの「主の祈り」を祈ればよいと教えてくださったのです。私たちがあれこれと心配することなく、「主の祈り」を祈ればよいと言ってくださっているのです。そして私たちはこの「主の祈り」を祈るとき、私たちを愛し、私たちのために祈ってくださっている主イエスの姿を思い出すことができるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちのためにイエスを遣わして、私たちの罪とその裁きである死の刑罰を彼に負わせ、そして私たちを罪と死の呪いと恐怖から解き放ってくださったあなたの驚くべきみ業に心から感謝を献げます。私たちのすべての問題を知り、その私たちのために祈ってくださるイエスによって私たちは今日も生かされています。私たちがその主イエスの姿を覚えながら主の祈りを祈り続けることができるようにしてください。主の祈りを祈ることで、主イエスの祈りの姿を思い出すことができるようにしてください。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはどうしてゲッセマネの園で恐れと死ぬような苦しみを体験されたと思いますか。
2.聖書に残されているイエスの祈りを読むとき、あなたは自分が献げている祈りとの違いを感じることがありますか。それはどのような違いですか。
3.それでは私たちが「主の祈り」を祈るとき,私たちは主イエスについて何を思い出して祈るべきなのでしょうか。