2017.3.12 説教 「熱心に祈る」


聖書箇所

ルカによる福音書6章12節
「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」。


説 教

1.昼夜を徹して祈られた主
①祈れない私たち

 今日も皆さんと共に主イエスの教えてくださった主の祈りについて学びます。今日は主イエスが語る祈りについての教えの言葉を通して、私たちの毎日の祈りの生活を検証し、その祈りの生活と主の祈りとの関係を考えて見たいと思います。
 私たちの祈りの生活の模範と言えば、それは言うまでもなく私たちの主イエスの示してくださった祈りの生活であると思います。私たちは普段、あまりの忙しさのために祈ることを忘れてしますと言うことがたびたび起こります。また、深刻な思い煩いの渦中の中でも、真っ先に神に祈るべきことは知っているのですが、それができないと言う現実があります。しかし、私たちの主イエスはどんなに多忙な生活の中でも父なる神に祈ることを忘れることはありませんでした。むしろ、イエスが救い主としての活動を続けることができたのは、この祈りの生活を真っ先に優先したところにあると言えるのかも知れません。なぜなら、主イエスはその祈りを通して、父なる神の助けと励ましを豊かに受けることができたからです。また、主イエスは不安や恐怖に押しつぶされそうになるときにも父なる神に一層熱心に祈りました。このように主イエスの祈りの生活を学ぶとき、一番分かってくるのは私たちが祈るべきときに祈ることができない、そのような弱さを持った存在であると言うことです。そのような意味で私たちは自分の祈りの生活にこそ、神さまの助けを一番に受ける必要がある者たちだと言えるのです。

②十二使徒のために祈られたイエス

 今月の聖書箇所にはこの主イエスが昼夜を徹して祈りを献げられた物語が記されています。

 「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」。

 私たちは夜を徹して祈ると言うことにあまり慣れてはいないと思うのです。私は以前、韓国人の牧師に誘われて徹夜祈祷会の一部に参加したことがあります。普通私たちは教会の兄弟姉妹と共に祈る場合にも、また自分の家で一人で祈る場合にも言葉を理路整然とならべて祈ると言う習慣を持っています。しかし、私が韓国人の集うその徹夜祈祷会で聞いた祈りはそのようなものではありませんでした。そこでは各自が思い思いに「主よ、主よ」と叫んでいたり、讃美歌を歌ったり、うなり声のような祈りが献げると言う光景がありました。どんな姿勢であっても神の前に一夜を過ごす、自分の思いや感情のすべてを神に打ち明ける、そんな集会であったと思います。主イエスが献げられた祈りが彼らの祈りと同じものであったかは定かではありません。しかし、私たちはあまりにも祈りを定式化してしまっているために、自由に祈ることができなくなっているのかもしれないと言う反省を私はその祈祷会に参加して思ったのです。
 主イエスはこのとき祈るために山に登り、夜が明けるまで神に祈られました。それはかなりの長さを持った長時間の祈りであったと考えることができます。イエスはこんなに長い時間をかけて何を祈っていたのでしょうか。聖書はこの時のイエスの祈りの内容を私たちに示す言葉を続いて語っています。

 「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」(6章13節)。

 主イエスはこのとき十二人の使徒を選び出すために祈られたのだと考えることができます。この十二人は主イエスの復活の証人として福音を証しし、教会の礎を据える働きをする重要な任務を負った人々でした。それだけではありません。この十二人の中には後に主イエスを裏切り、彼を十字架にかけるきっかけを作ったイスカリオテのユダも含まれていました。主イエスがユダのためにどのような祈りを献げられたかはこれもはっきりとは分かりません。しかし、ご自身を十字架にかけた人々の罪が赦されるようにと最後のときまで祈られた主イエスが、このイスカリオテのユダのための執り成しの祈りを最後まであきらめることがなかったと言うことは誰にでも想像ができることではないでしょうか。このとき主イエスはこの十二人の弟子それぞれのために祈りを献げられました。これから先、使徒として生きていく十二人の人生を支えるためにイエスはこのとき祈り続け、そのまま朝を迎えられたのだと言うのです。

2.人に見せるための祈り

 マタイによる福音書6章は主イエスが教えられた主の祈りを記録する前に、私たちの祈りの生活において注意すべきいくつかの点を主イエスが指摘された内容を直前に収録しています。
 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(5節)。
 これはイエスが活動された当時のユダヤの日常の光景の一つであったのだと思います。律法学者のような宗教的専門家がわざわざ人通りの多い場所に立って、大きな声で祈りを献げていました。その理由は自分の祈る姿を、自分の祈りの言葉を人々に聞いてほしいと彼らが願ったからです。なぜ、彼らはそう願ったのでしょうか。そのようにして熱心に祈る自分の信仰者としての姿を人々に認めてほしいと思ったからです。彼らはその上で人々の自分に対する尊敬を得たいと考えたのでしょう。現代の心理学用語で言えば「承認欲求」と言える願望です。実はこの時点でこのような祈りの献げる人の祈りの目的は変質してしまっていることが分かります。祈りの本当の目的は神さまとのまじわり、そして対話です。ところがこのように祈る人の祈りの目的は自分が人々から認められるためにあるのです。ですから主イエスは「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」と語られたのです。彼らの祈りは最初から神に聞いていただこうとするものではなかったからです。ですからイエスは、神さまに聞いていただきたいと本当に思うのなら次のように祈るべきだと、続けて語られたのです。

 「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(6節)。

 もし、自分の祈りを神さまに聞いていただきたいと願うなら、人々の目から隠れて、むしろ神さまに向かって祈るべきであると主イエスは語られました。もちろん、主イエスは私たちが兄弟姉妹の前で祈ることをすべて禁止しているのではありません。しかし、そのときでも祈りの本来の目的が神さまに聞いてもらうことにあると言うことを忘れてはならないと教えているのです。

3.異邦人の祈り

 イエスは次に続けて祈りの生活についての注意点を次のように語っています。

 「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」(7〜8節)。
 私がまだ中学生の頃に高校受験会場にいくつもの神社仏閣でもらったお守りを持参して行ったことを思い出します。当時、私はキリスト者でもありませんでしたし、教会に行ったこともありませんでした。たくさんの偶像を信じるごく当たり前の日本人の一人だったのです(?)。だから様々な神社仏閣に行ってそれらのお守り集めていたのです。私がそんなにたくさんお守りを集めていたのは、もしかしたらこれらのお守りの内の一つぐらいは効き目があるかもしれない…と考えていたからです。もし当時の私に本当にその神や仏が自分の願い事をかなえてくれるという確信があったら、あんなにたくさんのお守りを集めなかったはずです。つまり、私が集めたたくさんのお守りは、神仏の働きに確信を持てなかった自分の当時の気持ちの表しているものだったのです。
 主イエスはここで異邦人の献げるくどくどとした祈り、言葉数の多い祈りを取り上げています。彼らは熱心だからこそ祈りが長くなってしまうのではありません。彼らはくどくどと言葉数を多く語ればひょっとしたら自分の願いごとの一つくらいは神々に聞かれるかもしれないと考えたのです。つまりその祈りの姿勢は彼らの不信仰をそのまま表すものだと言ってよいのです。ですから、私たちがこのようなくどくどとした祈りから解放されるためには、まず、本当の神さまだけを信じ、その方だけに祈りを献げなければなりません。そしてその神さまが私たちにとってどのような方であるかと言うことを知れば、わざわざくどくどと言葉数の多い祈りを献げる必要がなくなるのです。

4.神はすべてを知っておられる
①語らなくても、理解されている

 そこでイエスは私たちの神さまがどのような方であるかを次に明らかにすることで私たちの祈りの生活を正しい方向に導かれようとされています。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(8節)。

 私たちの神さまは私たちが祈る前から私たちの願いのすべてをご存知の方なのです。しかも、私たちがそのとき願うものが必ずしも私たちのためにはならないことが起こったとしても、私たちに最も必要なものが何であるかを知っていてくださる方だと言うのです。だから、私たちは自分の祈りの内容を心配する必要はありません。私たちの祈りを私たちのために神さまが添削してくださって、正しい祈りに変え、その上でふさわしい答えを私たちに与えてくださる方が天の父なる神であると主イエスは教えてくださっているからです。
 「神さまが私たちに必要なものをすべて予めご存知であるなら、あえて神さまに祈る必要はないのではないか」と言う疑問を感じる人がいるはずです。私たちは黙っていて、自分の気持ちを伝えることをしなかったら、いつまでも自分のことを他人に理解してもらうことはできません。だから勇気を持って、自分の気持ちを相手に伝えるべきだと思っているのです。この「分かってもらうために伝える、分かってもらうために語る」と言う人間社会のルールから考えると主イエスの言葉の意味が分からなくなるのです。
 しかし、もし祈りを相手に自分を理解してもらうための手段だと考えると主イエスの熱心な祈りの意味は益々わからなくなってしまうはずです。なぜなら、父なる神と主イエスとの関係は三位一体の交わりと言われるように、すべてを理解し合うことのできる最も親密な関係にあったからです。まさに父なる神と主イエスとは言葉の表現を借りなくても十分に理解できる関係であったのです。

②本当の気持ちを伝える関係

 しかし、ここで私たちはもう一度、言葉と人間関係について考え直して見る必要があります。なぜなら、自分の本当の気持ちを表す言葉は、本当に信頼し合える相手にだけに語ることができるものだからです。カウンセリングの技術の中で最も大切なのは相手との信頼関係をまず築くと言うところにあると言われています。その信頼関係がなければクライアントはカウンセラーに本当の気持ちや言葉を語ることができないからです。
 このことはもっと私たちの身近な場所の体験からも裏打ちされるものです。私たちの人間関係の中でも私たちが本当にリラックスして、自分のことを話せるのは、自分の家族であったり、親しい友人の間に限られているからです。なぜそうなるのでしょうか、それは相手が自分のことを理解してくれていると言う信頼関係がすでにそこに出来上がっているからです。だから遠慮なく私たちは自分の本当の気持ちを伝えることができるのです。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(8節)。

 このイエスの言葉は私たちに「だから神さまには何も言わなくてもいい。あえて祈る必要はない」と教えているのではありません。神さまは私たち一人一人のことを十分に理解してくださっているのです。私たちは人の前では無理して強がって見たりしているかもしれません。自分の本当の姿が明らかになって、その人たちが自分に愛想を尽かして自分から離れてしまうことを恐れているからです。だから自分の本当の弱さを表すことができないのです。しかし、神さまはそう言う方ではありません。神さまは私たちのありのままをご存知なのです。その方には何も隠す必要もありませんし、自分が優れた人間であることを無理に示す必要もありません。なぜなら、私たちの本当の弱さを知る神さまは私たちのために主イエスを遣わして私たちを救おうとされた方だからです。だから私たちはむしろ、神さまに自分の弱さを隠す必要はありません。私たちの神さまへの祈りは、私たちの本当の姿を、本当の思いを伝えることができるものなのです。

5.主イエスの祈りに支えられた「主の祈り」

 「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように』」(9節)。

 主イエスは私たちと神さまとの信頼関係の中で祈る祈りとして「主の祈り」を祈ることが相応しいと教えてくださったのです。私たちのすべてのことを知っておらえる神さまに祈る、最も相応しい祈りとして「主の祈り」を与えてくださったのです。
 最初に私たちは主イエスの献げられた夜を徹しての祈りについて学びました。このとき主イエスはご自分の使徒として働くことになる弟子たちのために祈る必要がありました。彼らのことを理解し、最もよく知っておられる方が彼らのために祈りを献げられたのです。私たちは「自分のことは自分が一番よく知っている」と思い違いをしています。しかし、本当に私たちのことを知っておられる方は主イエスだけなのです。だから私たちの知り得ない私たちの人生の歩みをすべてご存知の上で主イエスは私たちのために祈りを献げられる方なのです。だからこそ主イエスの祈りは私たちのために熱心にならざるを得なかったのです。
 明日、自分がどうなっているかさえ私たちは分からない存在です。だから私たちは神さまに熱心に祈る必要があるはずなのです。しかし、私たちは神さまに何をどう祈り求めていけばよいのかさえ分からない存在なのです。その上で私たちは神さまに熱心に祈り求める力さえ持っていない者たちなのです。だから、そんな私たちのためにイエスは祈られたのです。私たちの献げる主の祈りの背後には私たちのために献げられた主イエスの熱心な祈りの保証があることを忘れてはならないのです。「主の祈り」はこの祈りの言葉を私たちに与えてくださった主イエスの熱心な祈りに支えられていることを今日も私たちは覚えたいのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 あなたは私たちの祈る前から私たちの願いを知っておられます。私たちが自分のために何が必要であるかを分からずに、むしろ、自分のためにはならないことを願ってしまう者たちであることを知ってくださっています。その上で、あなたは私たちの祈りに耳を傾け、私たちに相応しい最善の答えを私たちのために与えてくださる方であることを感謝いたします。私たちが私たちのために御子イエス・キリストを十字架にかけられたあなたの愛を信頼して、大胆にまた正直に祈りを献げる生活を送ることができるように助けてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1. 「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカ6章12節)。イエスはこのとき何のために夜を徹して祈る必要がありましたか。
2.どうして人々の見える場所で祈る祈りは誤っていると言えるのですか。
3.異邦人はなぜくどくどと言葉数の多い祈りを献げなければならないのですか。
4.私たちが願う前から神さまが私たちの願いを知っておられるなら、どうして私たちはその神さまに祈る必要があるのですか。