2017.3.5 説教 「主のみ心であれば」


聖書箇所

ヤコブの手紙4章11〜17節
11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。


説 教

1.私たちの信仰生活を脅かす高慢
①原因は相手ではなく自分にある

 今日も皆さんとともにヤコブの手紙から学びたいと思います。先週も学びましたように、ヤコブはこの手紙の中で信仰者の生活にとって大切な知恵を私たちに伝えようとしています。なぜ、私たちの信仰生活の中に人間関係に関する数々のトラブルが生ずるのでしょうか。いったい、その原因はどこにあるのでしょうか。ヤコブは私たちの人間関係に生ずるトラブルの原因を、その問題の一方の当事者である相手に求めても意味がないと教えます。なぜならば、その問題を生み出している原因は自分自身の内側にあると言えるからです。このヤコブの主張の正しさは、私たちの日常的な経験の中でも証明づけることができます。たとえば、どうしても自分と性格が合わないで、顔を遇わすと色々なトラブルが生まれてしまう人がいるとします。いろいろ努力したがその人との関係は変わらないばかりか、悪化して行きます。ところが、幸いなことと言っては何ですが、何らかの理由でその問題の当人が自分の周りから離れて行って、もうその人とつき合わなくてもよいと言うことになりました。「ああ、これで自分の心に平和が訪れた。もうあんな面倒な人間とつきあわなくてもよい」と喜んでいると、不思議なことにその人とはまた違った人が自分の前に現れて、前のときと同じようなトラブルがその人との間に起こるということが実際に起こります。これはまさに、トラブルの原因はその相手ではなく、自分自身の中にあるからこそ、場所や環境、人間関係が変わっても同じようなトラブルを必ず繰り返されることになるのです。

②自分を低くして神の恵みを受ける

 ヤコブはこのようなトラブルを抱える私たちに対して、ここで自己改善の方法を教えているのではありません。そうではなく、私たちを喜んで助けてくださる神に頼り、その恵みを受け取ることで私たちに平和を実現するように、また私たち自身も平和の中に生きることができるようにと教えているのです。解決の唯一の方法は神にだけあるのです。またその恵みに私たちがあずかることにあると言うのです。ところが、神の側は私たちをいつでも積極的に助けようとされているのに、また私たちに恵みを豊かに与えようとしておられるのに、その神の助けを求めず、恵みを受け取ろうとしない私たちの側の問題があるとヤコブはさらにこの手紙の中で指摘するのです。
 ヤコブの指摘によれば、私たちは私たちを助けることができる唯一の方である神に心を向ける代わりに、頼りにならない様々なものに心を向けています。また、神が私たちに恵みを豊かに与えようとされているのに、私たちの両方の手は様々なものを握りしめているので、肝心の神の恵みを受け取ることができなくなっているのです。このような人間の誤った姿勢は「高慢」と言う言葉で言い表せるものです。高慢な人間は神に近づくこともできずに、その恵みを受け取ることもできないのです。だからヤコブは「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(4章10節)と教えています。神の前にへりくだる者に神の力は十分に働きます。またその恵みによってどのような状況の中でも神から来る平和を得て、生きることができるようになるのです。
 そして、ヤコブは今日の部分でもこの人間の「高慢」と言う問題について続けて語っています。高慢とはその人が神を忘れて生きること、いえ、もっと深刻なのはその人自身があたかも自分が神であるかのように勘違いしてしまっていることだとヤコブは教え、その高慢によって私たちの信仰生活に起こる二つの現象を取り上げています。

2.自分が審判者となる高慢
①自分の基準で人を裁く

 まずヤコブが取り上げる一つ目の高慢は「人の悪口を言う」と言う問題です。ヤコブはこのことについて次のように語っています。

「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です」(11節)。

 ここでヤコブは兄弟に悪口を言う問題と律法という神の定められた基準との関係を語ることで、その高慢の正体を解き明かそうとします。ここでのヤコブの説明は少し文字を読んだだけではわかりにくいものかも知れません。ですからもう少し私たちの身近な問題を通してこのことを考えて見たいと思います。
 いったい、どうして私たちは人の悪口を度々語るのでしょうか。その悪口の正体とはどこから来て、どこに行こうとするのでしょうか。人の悪口を言う、それはその相手に対して自分が不満を持っているからです。そのために私たちは腹を立てるのです。それではどうして私たちはその相手に不満を持つのでしょうか。それはその相手が自分のめがねに適わない、つまり自分の期待に添わない行動や生き方をしているからです。つまり、その悪口が生まれてくる原因はその相手に対して持っている自分の期待、「あの人がこういう人だったらよいのに。こう生きてくれたらよいのに」と言う思いから出ていることが分かります。それでは本来、神に造られた人間はどのような存在であるべきなのでしょうか。あるいは、どのように生きればよいのでしょうか。それを教えるものこそ神が私たちに与えてくださっている「律法」の役割なのです。悪口を言う人々はその神の与えてくださった「律法」と言う基準で相手を評価しているのではなく、自分が勝手に持っている期待や、自分の基準で相手を評価しては裁こうとするのです。人を正しく評価し、裁かれる役目は本来、神だけに与えられているものなのに、悪口を語る者は自分をあたかもその神に代わる存在とでもなったかのように考え、自分の勝手な基準で相手を裁いているのです。

 「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」(12節)。

 ヤコブはですから人の悪口を言う人が本当の審判者、裁き主である神に代わろうとするような過ちを犯し、高慢の罪に陥っていると教えているのです。

②神の恵みの力を信じない罪

 ところである聖書解釈者はこの兄弟の悪口を言うという問題を取り扱いながら、この問題の背後に罪人を救う力を持っておられる救い主イエスに対する不信仰が隠されていると語っています。それはどういう意味なのでしょうか。たとえば、私たちは自分にとって身近な家族や友人が私たちの信仰に無理解な態度を示したりするとどう感じるでしょうか。一回、二回ぐらいならまだ我慢もできます。しかし、その態度がずっと変わらないで続いていくなら私たちはどう思うでしょうか。「この人はだめだ。きっと神様を信じることができない。もう何をやっても無駄だ」。そう考えてしまうかもしれません。確かにそのような人は私たちの手に負えるような人ではないのかもしれません。しかし、ここで忘れてはならないのは人を救われるのは神の御業であって、私たちではないと言うことです。そして聖書はこの救われる可能性のない人間のために神からイエス・キリストが遣わされたこと、そしてその救い主の力によれば誰でも救いを受ける可能性があることを教えているのです。つまり、「この人はだめ」と軽はずみに判断する私たちは、そこで神に代わって、勝手にその人の審判者、裁き手になっているのです。これも、自分を神の座にまで引き上げるような高慢な態度であると言えるのです。

3.自分が死すべき存在であることを忘れる高慢
①不確実な存在、確実な死

 さて、次にヤコブが取り上げるのは、私たちの命にまつわる「高慢」の問題です。ヤコブはこのことについて次のように語っています。

 「よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(13〜14 節)。

 ヤコブはここで計画を立て、その計画に従って懸命に働く商人の姿の姿を非難しようとしているのではありません。ヤコブがここで取り上げようとしているのは人間が自分の命の不確実性と、やがて訪れる死の確実性を忘れてしまっているという問題なのです。実はイエスの語られたたとえ話の中にヤコブがここで言おうとしている内容を的確に伝えるお話があります。それはルカによる福音書12章13〜21節に記されている「愚かな金持ち」のたとえです。
 このお話に登場する金持ちは、ある年、自分の畑が豊作となり、たくさんの収穫物を得ることができました。そこで彼はこの収穫物を使って一生を楽に暮らす計画を立てようとします。彼は古い蔵を壊して、すべての収穫物を納めることができる新しい蔵を建てようと計画したのです。その上で彼は自分の立てたこの計画に満足し、喜んでいます。ところが彼が喜んだのも束の間、彼の命はその晩に取り去られ、残されたのは彼が使うことができなかったたくさんの収穫物だけだったというのがこのお話のあらすじです。
 この金持ちの犯した過ちは、自分が死ぬべき存在であるということを忘れてしまったところにあります。私たちの命はヤコブが語るように「明日のことも分からない」ような不確実なものなのです。しかし、それに反して私たちの死は確実に私たちの人生にも訪れます。それなのにこの金持ちは自分を神と同じようにいつまでも死を知らない存在であると勘違いしているのです。

②今、何をすることが大切なのか

 私たちの命は不確実なものです。そしてその一方、私たちの死は必ず私たちの人生に訪れます。それは誰に対しても確実な出来事なのです。それでは私たちはこの両者のどちらのために備えをし、今を生きる必要があるのでしょうか。今を確かに生きるために、私たちはどちらを優先して生きていく必要があるのでしょうか。聖書は「確実に訪れる自分の死」のための準備をすることの方が私たちにとって大切であると教えるのです。
 それでは「確実に訪れる自分の死」のために準備するということはどういうことなのでしょうか。ひと頃「終活」という言葉が流行りました。「終わりのための活動」と言ったらよいのでしょうか。自分の身辺をできるだけ整理して身軽になること、他人や家族にできるだけ迷惑をかけないように人生の最後を迎えたいと願うことは決して悪いことではありません。そのために今できることをする、それが「終活」と言うものなのかもしれません。
 しかし、聖書は私たちにとってもっと大切な「終活」があることを教えています。それは私たちが神の前にやがて立つときのための準備する作業です。神はそのとき私たちを裁かれるのです。なぜなら、私たちの命は神が私たちに与えてくださったものだからです。だから神はその命を本来の目的のために私たちが使ったのかどうかを厳しくチェックされるのです。そしてこのとき神のチェックの基準として用いられるのが神の律法です。神は私たちが律法に従って生きたかどうかを厳しくチェックされるのです。
 しかし、残念なことに私たち人間はこのチェックにそのままで合格できる者は一人もいないのです。なぜなら、私たちは神の律法に完全に従って生きる能力を持っていないからです。このままでは不合格の私たちは神から罰を受けなければなりません。だから、神はその私たちのためにイエスを救い主としてこの地上に遣わしてくださったのです。このイエスが私たちに代わって律法の要求を完全に満たしてくださったのです。そしてそのイエスを信じる者にこの合格基準をそのまま適応させてくださるのです。「替え玉受験」という不正はこの世では決して許されません。しかし、私たちを愛し、私たちを救おうとされた神はイエスを私たちの「替え玉」として、私たちの罪を負わせることで、私たちを許し、生かそうとされたのです。
 そして私たちにとって最も大切な「終活」はこのイエスを救い主と信じて生きるということだと言えるのです。

③神を信頼することで、明日に希望を持つ

 「むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです」(15節)。

 ヤコブのこの勧めの言葉は私たちが人生の計画を立てることを止め、その日暮らしのような生活を送ることを勧めているように聞こえます。しかし、実際にはそうではありません。なぜなら、私たちがイエスを救い主として生きるとき、私たちの命は確かなものとされるからです。この地上に生きながらも、私たちは既に「永遠の命」を受け継ぐ者としての資格を与えられているのです。確かに私たちは自分の地上の命が明日どのようになっているのか分かりません。しかし、たとえ明日私たちがどのようになっていたとしても、神は私たちが地上で支払った労苦を無駄にされることは決してないのです。だからこそ私たちの立て計画がたとえこの地上では未完に終わったとしても、それは失敗だったとは言えなのです。なぜなら神は私たちの人生の計画をそのまま神の救いの計画の一部として用いてくださるからです。
 「雨になると憂鬱だ」と私たちは思うことがあります。雨のせいで、せっかく立てた計画がだめになってしまうからです。残念ながら私たちは天気を自分の思いのままに操作する能力を持っていません。しかし、私たちにできることがあります。それは私たちの計画を変えることです。雨の日になれば、雨の日にできることに計画を変更し、行えばよいのです。そして天気がよくなったら、また晴れの日にできることを計画し、実行すればよいのです。この生き方はそのまま私たちの人生にも適応できるはずです。私たちの人生にも雨が降り続くような時もやってきます。その反対にからっとした晴天のような時もやって来るのです。そのとき、私たちはその状況にふさわしい事柄を計画し、実行すればよいのです。そしてこのような自由な生き方は自分を神のように取り違える「高慢」な者にはできないのです。しかし主イエスを信じる私たちは、このような変化にもふさわしく生きることのできる自由を与えられているのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちは恵みを豊かに与えてくださるあなたの助けを忘れて、高慢な者となることで、多くの過ちを犯してしまいます。どうか私たちにその過ちを気づかせ、あなたの助けを求め、恵みを受けるにふさわしい者としてください。あなたによって救われた私たちの人生には、永遠の命があり、またその命に生きる者の自由が与えられています。私たちがあなたに信頼することで、この地上の生涯をますます確かなものとしていくことができるように助けてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.なぜ、ヤコブは私たちに「悪口を言い合ってはなりません」と言うのですか(11節)。
2.どうして私たちは人の悪口を口にすることになるのでしょうか。そのときに起こる私たちの心の仕組みを説明して見ましょう。
3.聖書は人の言行を正しく裁く基準として律法が神から与えられていることを教えています。人に対して悪口を語る人は、この律法に従っていると言えますか。それとも神の律法とは違う基準を持って人を裁いているのでしょうか。
4.それでは律法を定め、人を裁くことのできる方は誰であるとヤコブは教えていますか。その資格のない人間が他人を勝手な基準で裁くことは許されているのでしょうか(12節)。
5.ヤコブは私たちのこの世の命が不確実であることと、その私たちに死は確実にいつか訪れることをどのような表現で説明していますか(13〜15節)。
6.そのような私たちが自分の生涯を確かなものとして生きるためには、聖書はどのような備えをする必要があると教えていますか。