1.イースターをお祝いする
最近は私たちの周りのいろいろな場所で「イースター」と言う言葉を聞く機会が増えました。ディズニーランドではイースターパレードが毎年行なわれています。近くのショッピングセンターでもイースターバーゲンなどと名前が付けられたセールが開かれるようになりました。私もこの間、スーパーに食品を買いに行って、総菜コーナーで「イースター特盛り寿司」などと言う名前のついた商品を見つけることが出来ました。今や日本でも多くの人が「イースター」をお祝いするようになったようですが、その本当の意味を知っている人となるとどれだけおられるか疑問です。
教会に来られている皆さんに今更説明することもおかしいのですが、イースターはイエス・キリストの復活を記念する祝日です。キリスト教会の歴史の中でクリスマスをお祝いするようになったのは教会が誕生してからずっと後になってのことだと考えられています。一方、このイースターはキリスト教会の誕生と共に始まったお祝いであると言えます。いえ、このイースターの出来事こそがキリスト教会を生み出したものだとも考えることができるのです。
今から二千年近く前に十字架にかけられて、殺された主イエスが墓から甦られました。そして主イエスは多くの人々に復活された御自身の姿を示すことで、御自身が死に勝利され、甦られたことを明らかにしてくださったのです。イースターはこの復活されたイエスに出会った人々の喜びに起源をもつ祝日です。わたしたちキリスト者はこのイースターを過去に起こった出来事として記念するだけではなく、この日に甦られた主イエスが今も私たちと共に生きてくださったていことを喜び祝うのです。
「死人が復活するなど、古代人が考え出した妄想にすぎない」と多くの人は思われるかもしれません。しかし、聖書を読んで見ると実はこの復活と言う出来事は聖書の時代の人々であっても到底受入れることが出来ないものとして考えられていたことがよく分ります。今日のテキストとなっているコリントの信徒への手紙一の15章でパウロは「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(12節)と述べています。
「死んだ者が甦るなど聞いたことがない」。人間の経験に基づく結論は死人が甦る、復活と言う出来事を決して受入れることはできません。だから、当時の人々の中でも復活なしのキリスト教を作りだそうとした人々がいたのです。しかし、パウロはそのような人々に対して「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(14節)と強く非難したのです。
イエスの復活は人間の経験や理性では決して証明することも、受入れることも出来ない神のみ業であると言えます。この復活という出来事を信仰によってしか受入れることが出来ないのです。人間の力でイエスの復活を証明することはできません。しかし、私たちは実際にこのイエスの復活と言う出来事を経験した人々の証言を通して、この出来事がその人々にどのような希望を与え、その人々の人生を変えることができたかについては聖書を通して知ることが出来ます。そこで今日はイエスの復活と言う出来事に出会った何人かの人々の証言を通して、イエスの復活が私たちに与える希望とは何かについて少し考えて見たいと思います。z
2.人生の目的を失ったマリア
イエスの復活を最初に知らされたのはどの福音書の記事を読んでも分るように、何人かの女性たちであったようです。彼女たちは生前のイエスに付き従っていた女性の弟子たちでした。日曜日の朝にイエスの墓に向かった女性たちの名は福音書によって記録されている名前が微妙に違っています。しかし、その中でも必ず登場するのはマグダラのマリアと言う婦人です。特にヨハネの福音書ではマグダラのマリアがイエスの墓の前で泣いていると、イエス御自身がそこに現れ、マリアに親しく語りかけたと言う物語が記されています(ヨハネ20章11〜18節)。
このマグダラのマリアがどのような女性であったか、聖書は詳しくは記していません。ただ、ルカの福音書には彼女について次のような記述が残されています。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア…」。イエスの周りに付き従っていた女性たちはイエスに病気を癒していただいた人が多かったようです。その中でもマグダラのマリアはイエスに「七つの悪霊を追い出していただいた」と言う説明がつけられているのです。聖書の中には悪霊に支配されて苦しむ人々の姿が度々登場しています。これらの出来事を見ると、悪霊に支配されている人は自分の意志とは違った力によって人生を操られて、自分で自分の人生を生きることができない姿が示されています。悪霊が彼らの毎日の生活を支配して、苦しめ続け、自分の力ではどうすることもできないのです。
マグダラのマリアはイエスによって悪霊を追い出していただき、始めて自分の人生を生きることができるようになった人物であったと考えることができます。そして彼女は自由にされた自分の人生をイエスのために使おうとしたのです。ところが、その彼女の人生設計に大きな壁が突然出現しました。それがイエスの死と言う出来事です。ですからイエスの死は彼女にとって自分の人生の目的を失うような危機であったと言えるのです。イエスを失った彼女はこれから目的もない人生を送らなければなりません。もしかしたら、再び彼女の人生を悪霊が支配し始めるかもしれない、そのような不安も残されていました。
そのようなマグダラのマリアにイエスは復活された御自身の姿を真っ先に現わしてくださったのです。それは彼女にとって大きな喜びであったに違いありません。マグダラのマリアの人生は決して逆戻りすることはなかったのです。彼女はこれからも自分の人生を自分らしく生きることができるのです。復活されたイエスの愛に支えられたマグダラのマリアの人生は自分を支配しようとする様々な力から自由にされ、喜びに満ちたものと変えられたのです。イエスの復活は目的もなく、他人に操られるように見えた私たちの人生を自分らしい本当の人生に変えることができるのです。
3.孤独の中にあったトマス
次にイエスの復活の出来事に出会ったもう一人の人物、トマスの証言について考えて見ましょう。聖書はこのトマスについてもあまり詳しいことを記していません。彼が最も有名になるのは、復活されたイエスと出会った弟子たちの中で、彼だけが仲間はずれになってしまったという出来事を通してです(ヨハネ20章24〜29節)。彼だけが復活されたイエスに会えなかった理由は簡単です。彼はイエスが復活された日曜日の朝に他の弟子たちと一緒にいなかったのです。だから、せっかく復活されたイエスが弟子たちのところに来てくださったのに彼だけは会うことができなかったのです。
トマスについて福音書はいくつかの逸話を残しています。その一つはイエスがご自分の命を狙う敵が待つエルサレムに行こうとされたときのことです。トマスはそのとき「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と発言しています(ヨハネ11章16節)。またこの後で、イエスがこれから自分が地上を離れて天に昇られることを弟子たちに説明されたとき、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14章5節)と発言しています。これらのトマスの言葉を読むと、彼は死んでしまったら全てが終わりだと考えていた様子が伺えるのです。死は私たちからすべての人間関係を奪い去って行きます。そして私たちは一人ぼっちで死んで行かなければならないのです。
トマスはイエスの死に直面して、この孤独感にさいなまれていました。しかも彼は主イエスの復活を喜ぶ、他の弟子たちともその喜びを共有できないでいたのです。そんなトマスの前に復活されたイエスがご自分の姿を表してくださいました。このときトマスが感じた最大の驚きは、イエスが自分のすべてを知ってくださっていて、自分がつぶやいた言葉すら知っておられたと言うことです。復活されたイエスに出会うことのできなかった彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20章25節)とつぶやきました。ところがトマスの前に現れたイエスは彼に「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(同27節)と語ったのです。トマスの目には見えませんでしたが、復活されたイエスはトマスを離れず彼にずっと寄り添っていてくださったのです。キリストの復活は私たちを孤独感から解放することができます。なぜなら、復活されたイエスは私たちの人生にもずっと寄り添ってくださるからです。そしてこの関係は私たちの地上の死と言う現実を経ても決して途絶えることはないのです。
4.失敗のトラウマに苦しむペトロ
次に私たちは復活されたイエスに出会ったもう一人の人物シモン・ペトロの物語に目を向けて見たいと思います。彼はイエスの弟子の中でも最も重要な弟子であったと考えられています。かつてガリラヤ湖の漁師であったペトロはイエスの弟子となることで、いつもイエスの側でそのみ業を目撃し、その話を聞くことができた特別な人物だからです。おそらく、ペトロはイエスの弟子としてその生涯を終える覚悟を持って、イエスに付き従っていたのでしょう。しかし、彼のその覚悟は思いも寄らない出来事によって阻まれてしまいます。それがイエスの逮捕と言う出来事であり、またそれに続くイエスの十字架上での死でした。
何よりもイエスの逮捕という出来事はペトロの弱さを露呈させるようなものとなったことを聖書は証言しています。ペトロはイエスが逮捕された際に連れて行かれた大祭司の館に、後ろからついて行きました。しかし、そこでペトロは人々に「お前もイエスの仲間ではないか」と問われると、あわててそれを打ち消して「イエスなど知らない」と否定してしまったのです(ルカ22章54〜62節)。それも一度きりではなく三度も否定してしまったと言うのです。聖書において三と言う数字は特別な意味で用いられます。三は完全数と考えられているからです。つまり、ペトロがイエスを「知らない」と三度否定したと言うことは、完全に否定したと言うことで、これはもはや取り返しの付かないような出来事であったと言うことができます。
ですから、イエスの復活の以後もペトロにはこのつらい体験がトラウマのように残されてしまったようです。彼はイエスの弟子を辞めてガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしてしたのです(ヨハネ21章1〜19節)。そして取り返しの付かない失敗を犯したことを悔やむペトロの前に復活されたイエスは現れます。そこでイエスはペトロに「わたしを愛しているか」と三度も尋ねられたのです。これはペトロの犯した失敗を完全にゆるし、その心の傷を癒すために語られた言葉でした。そしてこの言葉によってペトロは立ち直り、イエスの弟子としての生涯を再出発することができたのです。復活されたイエスは私たちがその生涯でどんなに取り返しのつかない失敗を繰り返したとしても、その失敗を完全に赦して、私たちの心を癒して、私たちを再び立ち上がらせることができる方であることをペトロのこの物語は示しているのです。
5.律法主義者だったパウロ
私たちは最後に復活されたイエスに出会って、完全に人生を変えられたもう一人の人物について考えて見たいと思います。それは今日の礼拝のテキストにもなっているコリントの信徒への手紙を記したパウロのことです。パウロが復活されたイエスに出会った体験は他の弟子たちの体験と大きく違っています。聖書の記述によればパウロはイエスの昇天の後に、復活されたイエスと出会う体験をしているからです(使徒9章1〜9節)。
パウロはかつて自分の力で神の律法を守ることで、神の愛を獲得しようとした「律法主義者」の一人として活動していました。営業マンがその売上げによって、その成績が評価され、会社の待遇も変わるように、律法主義者たちは自分の行なう熱心な行為を通して、神から善い評価を受け、その祝福に与ろうとしたのです。パウロはその自分の熱心を示すために、それまでキリスト教徒を迫害し続けていました。多くの信者を捕らえ牢獄に入れました。教会における最初の殉教者とされているステファノの死にも彼は関わっていたと言う記録が聖書にも残されています(使徒7章54〜8章1節)。
この律法主義者パウロの生涯が復活されたイエス・キリストとの出会いによって180度変えられてしまいます。パウロはイエス・キリストに出会う以前と以後の自分の違いについて次のように証言しています。
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3章7〜8節)。
パウロはここで自分の力で自分の価値を証明しょうとうする律法主義者から、キリストの恵みによって生きる信仰者に変えられたと語っています。自分の力を頼りにする者は、その力が失われることにいつも不安を抱いて生きて行かなければなりません。しかし、私たちがどんなに健康に気をつけて、アンチエージングに心がけても、年を取れば肉体も心も必ず弱っていくはずです。だから自分の力に希望を置く者は、その希望を失うときが必ずやって来るのです。しかし、自分の力にではなく、キリストの恵みに希望を置く者はそうではありません。むしろ、キリストの恵みによる希望は私たちの内側で日に日に強められるのです。この希望は私たちが地上の死を経たとしても、決して失われることはないものです。なぜなら、そのことをキリストの復活と言う出来事が私たちに保証しているからです。
イースターの日に復活されたイエス・キリストは今も生きておられます。だから、私たちもイエスの復活に出会った弟子たちと同じ体験をすることができるのです。
|