2017.4.2 説教 「預言者たちから忍耐を学べ」
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聖書箇所
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ヤコブの手紙5章7〜11節
7 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。8 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。9 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。11 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。
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説 教 |
1.忍耐は「我慢」ではない
①私たちを成熟させる試練
これまで礼拝で続けて来たヤコブの手紙についての学びもいよいよ終わりに近づいています。すでに学んだように、ヤコブの手紙は最初に「試練」と言うテーマを取り上げてこの手紙を始めています。
「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1章2節)。
ヤコブはこのような言葉を語ることで、信仰者が試練に出会うことには積極的な意味があることを私たちに教えようとしています。それを教えることで実際に試練の中にいる信仰者たちを慰め励まそうとしたのです。そこでヤコブは信仰者が試練に遭うことの意味を続けてこのように説明しています。
「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(2〜3節)。
私たち信仰者が出会う試練は私たちを成熟した人間とするために重要な働きをしているとヤコブはここで語っています。そしてその試練との関係の中で彼は「忍耐」という言葉を口にしているのです。ヤコブは試練に出会う信仰者が実際の生活の中で信仰的な正しい判断をするためにこの手紙の中でいろいろなケースを語って来ました。特にヤコブは教会の人間関係に起こる具体的な問題を取り上げ、その問題を正しく処理して、私たちが信仰者として相応しい「行い」をするようにとアドバイスしてきたのです。
今日の箇所でヤコブはこの手紙をいよいよ終わろうとするとき、再び最初にも取り上げた「忍耐」と言うテーマを語り出しています。
②「忍耐」は「我慢」ではない
私たちは他人から「忍耐が重要だ」と聞くと、確かにそれは自分の人生のために大切なことだと思うかもしれません。以前も皆さんにお話ししましたが、私は中学生の修学旅行のお土産として「忍耐」と書かれた小さな置物を買って来た思い出があります。子供のころから「お前はすぐに飽きてしまって、物事を続けることができない」と親から言われていたことが身に沁みていたのかもしれません。当時の私は「自分には忍耐が一番必要なのだ」と思っていたからこそ、そんなものをわざわざお土産として買って来て、自分の勉強机の上に飾ったのです。
きっと皆さんも「忍耐」が大切であるということを小さい頃から親や学校の先生から聞かされてきたのではないかと思います。そして私たちはここでヤコブも彼らと同じことを私たちに教えているのではないかと考えてしまうかもしれません。しかし、ヤコブは本当にここで私たちが親や学校の先生から教わって来た「忍耐」と同じことを教えようとしているのでしょうか。
おそらく私たちがよく知っている「忍耐」と言う言葉は、「我慢」と言う言葉で置き換えられるものではないでしょうか。「忍耐の足りない者」を「我慢の足りない者」と考え、「そんな人間はどんなことに手を染めて、何事も成就できない」と考えてしまうのです。私たちが生きるこの世界では我慢できる人とできない人の人生は決定的に違ってくると信じられています。しかし、もし私たちの信仰を成熟させるものが私たちの「我慢」だ考えるなら、少しおかしくなってくるはずです。なぜなら、その行為は神の恵みによって生きる信仰生活と矛盾するように思えるからです。
辞書を調べると日本語の「我慢」と言う言葉は「我意を張る」つまり人間の「強情な心」を意味するために使われた言葉であったようです。さらに仏教の中で「我慢」と言う言葉は悟りを開くべき者が捨てなければならない煩悩の一つと考えられて来たと辞書には解説されていました。こうなるとこの「我慢」と言う言葉は神の御心を第一とする私たちの信仰生活と反対のことを言っていることになるように思えます。ヤコブが本当にこの手紙の中で神の御心ではなく、私たちの「我慢」を強調しているのでしょうか。
実はここで「忍耐」と日本語に訳されている元々のギリシャ語の言葉は、私たちが忍耐と言う言葉について抱く印象とは全く違った意味を示しているのです。なぜなら、この言葉の本来の意味は「広く、寛大な心」と言うものだからです。つまりヤコブはここで私たちに「あなたがたは主が来られるまで、広く、寛大な心を示し続けなさい」と教えていると言うことができるのです。
ヤコブはこの後の9節で「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます」と語っています。「互いに不平を言わない」ためには「互いを寛大な心」を持つ必要があります。ギリシャ語の忍耐と言う言葉には本来そのような意味があることを考えるなら、この言葉も辻褄が合ってくるのです。
2.私たちに忍耐を示した人々
それではギリシャ語で「広く、寛大な心」と言う意味を持ったヤコブの語る「忍耐」とはいったいどのようなものなのでしょうか。ヤコブは私たちにその忍耐の内容を正しく説明するために、私たちの忍耐の模範となる三種類の人の事例を紹介しています。
①農夫
第一にヤコブがあげる忍耐の模範は、畑に種を蒔いて、実りを待つ農夫たちです。
「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」(7節)。
農夫は、毎年飽きもせず自分の畑に、種を蒔き続けます。当たり前のことですが、農夫が種を蒔かなければ何の収穫も期待することはできないのです。しかし、豊かな収穫は農夫の努力だけで実現できるものではありません。種が芽を出し、成長するためには水が絶対に必要だからです。そしてその畑に水を与えるものは天から降ってくる雨なのです。その雨は農夫の努力や意志とは全く関係なく、天から与えられる神の恵みそのものなのです。
何があっても、農夫は自分の畑に種を蒔くことを怠ってはなりません。だから自分の職務に忠実な農夫は畑に種を蒔き続けるのです。しかし、農夫のその忠実な働きも、神が必ず天から雨を降らせてくださらなければ水の泡になってしまいます。だから農夫は神が畑のために必ず雨を降らせてくださることを信じて、種を蒔き続けるのです。試練の中で私たちが忍耐できる鍵はここにあります。たとえ私たちが自分の力ではどうにもならない状況に立たされたとしても、聖書はその状況を切り開く神の約束と御業を教えているからです。農夫が自分の畑に神が雨を降らせてくださることを信じて生きるように、もし私たちが、私たちのための神の約束と御業に対する正しい知識と確信を持っているなら、たとえ試練の中でも私たちは「広く、寛大な心」を持ち続け、絶望することなく、神のために忠実に生き続けることが可能となるのです。
②預言者
また、ヤコブは私たちに第二の忍耐の模範として、「預言者たち」の存在を取り上げています。旧約聖書に登場する預言者は大きく分けて二つの種類の人々が存在しています。一つは人々の関心を得ようと、人々におもねり、彼らが受け入れやすい言葉を選んで語る預言者たちです。彼らは神の言葉を伝えているのではなく、人間の欲望を満足さえる言葉だけを語ろうとする「偽預言者」たちです。そしてもう一種類の預言者はヤコブがここで言うように「主の名によって語った預言者たち」、つまり神のメッセージを人々に正しく語り続けた真の預言者たちです。彼らは正しい神のメッセージを取り次ぐことで、人々の好意ではなく反感を買い、弾圧されて厳しい生涯を送りました。彼らの中には時の権力者と敵対して命を狙われる預言者も何人もいたのです。皆さんもご存知のようにその生涯でキリストを指し示す使命を果たした「最後の預言者」とも言われるバプテスマのヨハネは、その晩年に王によって捕らえられ、最後には首をはねられ処刑されてしまっています。
ヤコブはこれらの預言者の生涯を読者たちに思い出させることで、今、試練に出会って苦しんでいる者たちを励まそうとしたのです。なぜなら、苦しみに出会う者は「自分だけが特別に苦しみに遭っている」と思ってしまう傾向があるからです。また、「自分がこのような苦しみに遭うのは、神から見放されているためだ」と早合点してしまうこともあるからです。ですから、そのような誤解を持つ人々の心を、自由にするためにヤコブは預言者たちの例をここで引き合いに出しました。そして何よりも、預言者たちが苦しみに遭ったことは無意味なことではなく、神の深い御心に沿うものであることを教えているのです。そのようにして彼らの苦しみが神の救いの御業のために用いられていられていることをヤコブはこの手紙で証ししているのです。
③ヨブ
第三にヤコブが取り上げている忍耐の模範は旧約聖書に登場するヨブと言う一人の人物です。ヨブは確かに私たちの知っている旧約聖書の預言者たちとは違った生き方をしています。彼は神のメッセージを誰かに取り次ぐ使命を受けた訳ではありませんでした。しかし、彼はその生涯で想像を絶するような苦しみに出会いながら、その苦しみを苦しみ続けることで、このヨブ記の読者に神とその御心を示す重要な働きをした一人の預言者であると考えることもできるのです。
「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」(11節)。
ヨブ記の結末には(42章12〜16節)彼の試練が終わった後に、神がヨブに今まで以上の豊かな祝福を与えてくださったことが記されています。ヨブは確かに家族や財産などたくさんのものを失う試練を受けて苦しみました。しかし、神は彼が失ったもの以上の祝福を最後には与えてくださったのです。ヤコブはここでそのようなヨブの生涯を思い出すことで、試練に出会って苦しむ人が慰めを見いだすことができると言っているのでしょうか。
このヨブ記は不思議な書物であると共に、不思議な魅力を持った書物であると言えます。この物語の中で主人公ヨブは神の許可を受けた悪魔によって耐え難い苦しみに出会います。しかし、彼を苦しめたのは悪魔が彼にくだした災いだけではありませんでした。ヨブをもっとも苦しめたのは、自分が心から信頼する神がどうしてこのような災を自分にくだしたのかと言うことが分からないことでした。彼はこの物語の中で一貫して自分を襲った苦しみの意味を問い続けています。しかし、その問いに対する明確な答えは最後まで与えられず、この物語は結末を迎えています。この物語の中でヨブの友達が示した苦しみの意味について答えは皆、頓珍漢なものでヨブを満足させるものではありませんでした。しかし、彼はそれでも苦しみ続けるのです。苦しみ続けることが彼に与えられて使命であるかのようにです。
私たちは苦しみに出会うと、その答えを見つけようと必死になるはずです。「どうして、自分はこんな苦しみに出会ったのだろうか。この苦しみにはどんな意味があるのだろうか」と考えるのです。自分の苦しみに対す明快な答えが与えられなければ、自分が苦しみに出会った意味がないとまで考えてしまうのです。
そんな私たちにヨブは自らの生涯を通して教えているのです。自分が出会った苦しみの意味が見いだせなくても、それでよいのです。なぜならヨブは最後まで苦しみ、悩むことを通して、神の預言者としての勤めを立派に果たすことができたからです。そのような意味でヨブは苦しみに出会って、その苦しみを見いだせない人の心をそこから解放して、「広く、寛大な心」に変える役目を果たしていると言えるのです。
3.私たちの忍耐を生み出すイエスの勝利
ヤコブは私たちが試練の中でも忍耐して生きることができるように、「主が来られる時が迫っている」と言うこと覚えて生きなさいと教えています(8節)。私たちが我慢して生きるのではなく、忍耐して生きることができる鍵は、主が来られることを覚えて生きることだと言っているのです。なぜ、私たちが忍耐するためには、主の来られる時が迫っていることを覚える必要があるのでしょうか。なぜなら、主の来られるときとは主が私たちの住むこの世界と、私たちの人生に勝利をもたらしてくださるときだからです。農夫が自分の畑に雨を降らせてくださる神を知っているように、私たちの人生は必ず主によって勝利を迎えることができることを知れば、私たちはどのような試練の中でも「広く、寛大な心」を持ち続けることができるからです。聖書の中でイエスはこの世で苦難に出会っている私たちに次のように約束されています。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。
ここでイエスが語られているように、私たちから「広く、寛大な心」を奪い、私たちを束縛するすべての問題に主イエスは既に勝利してくださっているのです。そしてヤコブはその主が再びやってこられる日が迫っていることを覚えて生きることが私たちの忍耐にとって大切だと教えるのです。なぜなら、その日には私たちの人生のすべてにイエスの勝利が実際に実現するからです。このようにして、私たちの信仰にとって必要な忍耐は、私たちの我慢から来るのではなく、主の勝利から与えられることを私たちは覚えたいと思います。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちは試練が喜ぶべきことであると言うことをあなたから知らされながらも、それを心から喜ぶことができないばかりか、試練の中で取り乱し、絶望してしまうような者たちです。忍耐が必要であることを知りながら、その忍耐がどこからやってくるのかさえ分からずに、様々な誤解を抱いてしまう者たちです。私たちにあなたを知る正しい信仰の知識と、あなたを信頼する信仰を与えてください。私たちのために世に勝利してくださった主イエスが、私たちのために来てくださる時が近づいていることを覚えることで、私たちから自由を奪い、束縛しようとしているものすべてが主によって滅ぼされようとしていることを確信することができ、私たちが試練の中でも広く、寛大な心を持ち続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.ヤコブはどうしてこの手紙の冒頭で信仰者が「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と語ったのですか(1章2〜4節)。
2.ヤコブは信仰者が持たなければならない忍耐の模範としてどのような人々をこの手紙の中で例に上げていますか(5章7〜11節)。
3.畑に種を蒔く農夫は何を知っているから、豊かな収穫が訪れるまで忍耐することができるのでしょうか(7節)。
4.「主の名によって語った預言者たち」は私たちにどのような忍耐の例を示していますか(10節)。彼らの示した模範によって、私たちはどのような試練について誤解から解放されることができますか。
5.苦難を耐え忍んだヨブに神さまは何をしてくださいましたか(ヨブ記42章12〜16節)。あなたは苦しみヨブの姿からどんなことを学ぶことができますか。
6.ヤコブは私たちが忍耐するために「主が来られる時が迫っている」ことを覚えて生きることが大切であることを教えています。その理由を考えて見ましょう(参照/ヨハネ16章33節)
7.ヤコブがここで語る「忍耐」が私たちの「我慢」ではなく、「広く、寛大な心」を意味するとしたら、私たちはその忍耐をどこから得ることができるのでしょうか。
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