2017.4.30 説教 「誓いを立ててはなりません」
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聖書箇所
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ヤコブの手紙5章12節
わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。
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説 教 |
1.誓ってはならない
①イエスも語られた言葉
今日も皆さんと共にヤコブの手紙の言葉から学んで行きたいと思います。今日の聖書箇所でヤコブは私たちに「誓いを立ててはなりません」と言う警告を発しています。このヤコブの言葉を聞く皆さんの中には「この言葉はよく知っている」、「聞き覚えがある」と思われた方も多くおられると思います。それもそのはずです。福音書の中で主イエスがこのヤコブと同じような言葉を語られているからです。マタイによる福音書5章33〜37節で主イエスも「一切誓いを立ててはならない」と語られているのです。そして、このイエスの言葉の結論も「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(37節)となっている点で、ヤコブの言葉と大変よく似ているのです。おそらく、ヤコブはこのイエスの言葉を思い起こしながら、自分の手紙の中でこの言葉を書いたと思われるのです。
イエスのこの言葉は有名な山上の説教の中の一部として語られたものです。ヤコブはこのイエスの言葉をヤコブが牧会する教会のために改めて、ここに書き記したと考えることができます。なぜなら、ヤコブはこの手紙の中で主イエスに救われ、その恵みによって生きている者たちが、毎日、その恵みによって生きる生き方を教えようとしているからです。
主イエスの救いにあずかりながらも、私たちの生活スタイルはなお依然として救われる前の習慣や考え方を多く残しています。神の愛を信じることができずに、虚栄を張り、自分で自分を守り続けなければならなかったかつての古い自分の生き方は、もはや主イエスによって救いを受けた者にとって必要ないばかりか、むしろ健全な信仰生活とって邪魔なものとなっています。ヤコブはですからこの手紙の中で主イエスに救われた私たちの新しい生き方がどのようなものであるかを教えようとしているのです。今日の部分でヤコブはこの手紙を閉じるにあたり、「誓いを立ててはならない」と言う事柄について取り上げています。
②神の誓いを伝える聖書
それではどうして主イエスの救いにあずかった者は「誓いを立ててはならない」と言うのでしょうか。私たちは社会生活の中で約束とか契約と言ったものを人々と取り交わし、また必要としています。それにも関わらず、ヤコブは「キリストを信じる者は一切、契約書にはサインしてはならない」、「人と約束をしてはならない」と命じているのでしょうか。そうではないと思いますます。なぜなら、約束や契約を重視するのはむしろ聖書の世界の伝統でもあるからです。もし、契約や約束を無くしてしまったら、私たちが読んでいる聖書は意味のないものになってしまいます。なぜなら、聖書自体が神の私たちに対する聖なる約束、契約を伝える書物であると言えるからです。聖書には神ご自身が私たち人間に対して誓いを立てられる出来事が記されているのです。
たとえば、旧約聖書の創世記15章には神がアブラハムとその子孫に「土地を継がせる」という約束を結んだことが記されています。この際、神はアブラハムを深い眠りに陥らせ、ご自分が真っ二つに裂かれた生け贄の中を通り過ぎられると言う不思議な行為を示されました。これは神がアブラハムに対して結んだ約束を必ず果たすことをご自身に向けて誓われたことを表していると考えられています。なぜなら、真っ二つに裂かれた生け贄の中を通る行為は、もし自分がこの約束を破ったら、この生け贄と同じように真っ二つに裂かれて殺されてもよいという神の約束に対する決心、誠実な態度を示しているからです。
このように聖書において約束や契約は、むしろ最も大切なものと考えられています。そう考えるとヤコブが「誓っいを立ててはならない」と語った訳は、そんなに大切な行為を私たち人間の側が軽んじて、軽々しく誓いを口にするようなことをしてはならないと教えていると考えることができます。なぜなら、神との約束のもう一方の当事者である私たちが、自らの行動で約束を軽視するような姿勢を取ったとしたら、神の約束に対する信頼を失うことにつながるからです。
2.正しい誓いとそうでない誓い
①誓約を守ることができるのは神の力
幸いなことに、この4月に私は結婚式と牧師就職式と言う二つの式を執り行う勤めを果たすことができました。この二つの式はそれぞれ別々の都合で行われるものですが、結婚を上げる者たちや、あるいは教会の牧師となろうとする者が神の前で誓約をする、誓いを立てると言うところでは同じ目的を持っていると言えるかもしれません。この式の中で誓約をする者は自分が約束したことを誠実に守ることを神の前で誓いを立てるのです。私は特に牧師就職式の際に、司式をする者が誓約をなした教師に語る言葉を印象深く聞いたり、読むことがあります。司式者はこのとき誓約をした者に対して「願わくは、この志と決心とを与えてくださった神が、これを成し遂げる力をもお与えくださるように」と語るのです。この言葉からも分かるように、私たちが神の前に誓約を立てるのは、自分ががんばってこれからこの約束を守るぞと言うよりは、この約束を果たすことができるように神の助けを願い求めることにあると言えるのです。つまり、私たちが神の前で誓約を立てるのは、その約束を果たすために神の助けを必要としていることを公に認め、それを願い求めるために行われるのです。ですから、私たちにとって神の前に誓約を立てるということは、その神の恵みに生きる者として大切なことであり、進んでこの誓約の機会にあずかるべきだとも言えるのです
②どうして誓いを立てなければならないのか
実はヤコブや主イエスが「誓いを立ててはならない」と言う場合に想定しているのは、このような誓いを言っているのではありません。ここで取り上げられているのは神の助けを借りるために誓約をすることではなく、自分の語る言葉を正当化するために神の名を用いること、神の名を人が利用するようなことを言っているのです。その人の語る言葉だけでは信用できない、そうなるとその言葉を後々にも残すために正式な文章を書く必要があります。また、文章にしてもその言葉が守られることを誰かが保証する必要があります。本人ではない誰か別の保証人を立てる必要が生まれまるのです。ヤコブは神を自分の保証人のようにして、勝手にその名前を使って誓いを立てるという行為をここで問題にしているのです。これは十戒の第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」と言う戒めに対する明らかな違反となるからです。そのため、イエスの時代のユダヤ人はこの違反行為から逃れる抜け穴として、神の名前に替えて「天」や「地」あるいは自分の「頭」に向かって誓うと言うことをしたと言うのです。しかし、イエスはこのいずれも主の名を蔑ろにする行為としては変わることがないと警告されているのです。
それではなぜ人間はわざわざ神の名を借りて誓いを立てなければならないのでしょうか。それはそうしなければ自分の語った言葉を相手に信じてもらうことができないと言う現実があるからです。つまり、自分の語る言葉をそのまま相手が信じてくれるなら、改めて神の名を使ってまで誓いを立てる必要はなくなるはずなのです。だから、主イエスもヤコブここで「あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」と語っているのです。なぜなら、人間が元々、嘘偽りのない真実な言葉を語っていれば、誓いなど立てる必要はないからです。そのような意味で、「誓いを立ててはならない」と言う警告の背後に隠れた本当のメッセージは「真実な言葉を語りなさい」と言うことになると言えるのです。
それでは私たちが教会で、またその教会の中で共に生きる兄弟姉妹に対して真実な言葉を語るとはどのようなことを意味するのでしょうか。次に私たちはこの真実な言葉を語ると言うことについて少し考えて見たいと思うのです。
3.偽りの言葉と真実な言葉
最近、私たちの周りではいろいろなところで「フェイクニュース」と言う言葉を聞く機会が多くなっています。「フェイクニュース」とは「嘘の情報」と訳したらよいのでしょうか。明らかに事実と異なった情報が、インターネットや様々な情報手段を使って今世界に拡散されています。おそらくこのフェイクニュースを意図的に流そうとする人々は、それを流すことによって何らかの利益を手にすることができるのかもしれません。しかし、その情報が正しいのか間違っているのかが判断できない者にとっては、そのニュースは生活に混乱を起こさせる原因となり、実害さえも与えています。私たちは「こんなフェイクニュースを流す輩などけしからん」、「犯人を見つけて厳しく罰すべきだ」と思っているかもしれません。しかし、ここで私たちはもう少し冷静になって考えて見たいのです。そもそも、私たちは本当に正し情報を知り、その真偽を確かめた上で人々に伝えることをしているのでしょうか。もしかしたら、自分自身がこのフェイクニュースの発信源になっている可能性はないのでしょうか。
ここでヤコブがあえて真実を語ることを勧めているのは教会の交わりについてであることを私たちは忘れてはならないと思います。教会も人間の集まる場所である以上、そこでは様々な情報や噂が飛び交います。とくに私たちはそこで様々な人物に対する評価や噂を語ることがあるのです。しかし、そこで語られる評価は本当に正しいものであると言えるのでしょうか。それは真実な言葉であると言えるのでしょうか。残念ながらこれらの評価は私たちが勝手に下した主観的な判断でしかありません。私たちは相手の行動や言葉を誤解して理解し、その理解に従って間違った判断を人々に語ることがあるのです。私たちはどれだけそのような間違ったニュースによって人を傷つけることがあるでしょうか。この点で、私たちも確かにフェイクニュースの発信源になっている可能性が十分にあるのです。
以前、教会に来ていた一人の人に「教会と言うところでは本音が語られなければならない」と言う言葉を何度も聞いたことがありました。おそらく、この人にとっては「本音」こそが聖書の語る「真実な言葉」と考えられていたのでしょう。しかし、私たちが持っている本音は本当に真実な言葉と言えるのでしょうか。確かにその本人にとって本音は自分の心を正しく表すものかもしれません。しかし、その人間の本音は客観的な根拠を持たないものであり、他の人にとっては全く真実ではないと言うことがあり得るのです。だから当時、私はこの人の言葉をとても恐怖しながら聞いた記憶があります。教会で誰もが遠慮無く自分の本音を語り出したら、たいへんなことになってしまうと想像したからです。
もちろん、私たちは教会の交わりの中で心にもないお世辞をいつも語るべきだとも思っていません。なぜならそれもまた偽りを語ることになる可能性があるからです。それでは、私たちが教会の中で、兄弟姉妹との交わりの中で真実な言葉を語るとはどのようなことだと言えるのでしょうか。
4.神の裁きに耐える得る言葉を語る
①神の裁きを受けないようにするために
ここで私たちはヤコブの語る言葉にもう一度、耳を傾けてみたいと思います。ヤコブは次のように私たちに語っています。
「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」。
ヤコブはここで私たちに「裁きを受けないようにするために」と言っています。私たちが真実な言葉を教会で語らなければならないのは、この裁きを受けなくてもよいためであると言えるのです。ここで語られている裁きとは、私たちの誰もが最後に受けなければならない神の審判を指し示しています。そのとき、私たちは自分の語った言葉すべてに対して神の正しい裁きを受けなければならないのです。つまり、この言葉から考えるなら、ヤコブが求めている真実な言葉とはこの最後の神の審判に耐え得る言葉を語ることだと言うことになるのです。
②福音に基づいた真実な言葉を語る
私たちは誰も必ずこの神の厳しい裁きを最後に受けなければなりません。しかし、私たちはだからと言ってこの裁きを今、恐怖して待っている訳ではありません。むしろ喜びを持って、その裁きの座に立つ時を待つことができるのです。それはなぜでしょうか。私たちがこの裁きに耐えることができるために主イエスが、十字架にかかってくださり、私たちを救い出してくださったからです。この私たちに対する主イエスの御業は確かなものです。だから今の私たちがたとえどんなに不完全な者であっても、この主イエスによって私たちは神の裁きに耐え得る者とされているのです。主イエスを信じる私たちにとって、この救いの出来事こそが何よりも真実な出来事だと言えるのです。
そう考えると私たちにとって真実な言葉を語ることとは何かが分かって来るのではないでしょうか。ヤコブが教えようとする神の裁きに耐え得る真実な言葉とは何であるかが分かってくるはずです。それは主イエスの福音の出来事です。この主イエスの福音は私たちの今の現実がどうであったとしても、私たちの救いが確かであることを伝える真実の言葉だからです。
先日、フレンドシップアワーに参加した一人の姉妹が毎日、自分がどんな不安の中に生きているかを懸命に語っていました。悪魔が自分をどうにかしようとしているのではなかと不安になると言うのです。しかし、それを聞いた出席者は皆、主イエスが悪魔に勝利されているという福音を伝えようとしました。悪魔の力がどんなに現実的であっても、主イエスの勝利こそが真実だと言うことを伝えようとしたのです。実はこれこそがまさに真実な言葉を語ることではないでしょうか。私たちは毎日、現実の生活の中で様々な問題を抱えて生きています。その問題に押しつぶされそうな思いを持って生きているのです。しかし、たとえ私たちの目の前の現実がそのようなものであっても、私たちは教会の中でこれとは全く違った真実の言葉を聞くことができます。それはその現実にもかかわらず主イエスが私たちのために完全に勝利してくださったという福音の伝える真実の知らせです。そして私たちはこの福音の真実の上に、物事を判断し語るべきではないでしょうか。この福音の言葉は私たちが何かに向かって誓いを立てなければ証明できないものではありません。なぜなら、神自らがその言葉が真実であることを私たちに証明してくださるからです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちにあなたの約束の確かな証拠であり、また約束そのものである主イエス・キリストを与えてくださった幸いを感謝いたします。どうか私たちがこの主イエス・キリストによって明らかになった救いの確かな出来事を通して、真実な言葉を兄弟姉妹と語り合うことができるように助けてください。御霊によって、主の真実の言葉を確信を持って語り続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.ヤコブは私たちに「誓いを立ててはなりません」と教えています。それはどうしてでしょうか。このヤコブの言葉と同じ内容を語る主イエスの言葉も参考にしながら考えて見ましょう(12節、参照:マタイ5章33〜37節)。
2.この当時人々は「主の御名をみだりに唱えてはならない」と言う律法違反を逃れるためにどんなことをしていましたか。
3.教会で私たちは自分の語る言葉に気をつけなければならない理由について、ヤコブはここで何と説明していますか。
4.私たちが教会で真実な言葉を語ると言うことは、私たちの本音を遠慮なく語ることでしょうか。そうでなければ、いったいどのような言葉を語ることが大切なのでしょうか。
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