2017.4.9 説教 「賛美と感謝」
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聖書箇所
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フィリピの信徒への手紙4章6節
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
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説 教 |
1.思い煩うために人生があるわけではない。
①思い煩いから抜け出せない私たち
今朝の礼拝では今月の聖句となっているフィリピの信徒への手紙4章6節の言葉「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」から学びます。このパウロの言葉を中心に、私たちの礼拝生活について考え、その礼拝生活と主イエスの教えてくださった主の祈りとの関係についても少し考えてみたいと思います。
パウロは今日の聖句の中で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と私たちに命じています。まず、この言葉を聞いて、「この言葉は誰に語られているのだろうか」、「パウロは自分とは全く関係ないことを言っている」と言える人はどのくらいおられるでしょうか。むしろ私たちの多くはこのパウロの言葉を聞くとき、「この言葉は私のことを言っている」、そう思われる方が多いはずです。なぜならば私たちは毎日、様々なことに思い煩って生きているはずだからです。もし私たちが自分の履歴書を書くとしたら、その職業欄に「思い煩い」と書いてもいいほどに、私たちの生活と思い煩いという問題は切っても切り離せない関係にあると言えます。
主イエスもマタイの福音書で「明日のことまで思い悩むな」(6章34節)と語られています。この言葉は私たちが以前に読んでいた口語訳聖書では「明日のことを思いわずらうな」と訳されえいたはずです。パウロがこのイエスの言葉を思い出して自分の手紙の中でも「思い煩うな」と語ったのかどうかは定かではありません。しかし、これらの言葉を聞くと、思い煩いと言う行為が私たち信仰者にとっても決して見逃すことができない問題であることがわかるはずです。
この「思い煩い」の言葉は元々「心が二つに分かれる」と言う意味を持っていると言われています。ある説教者はその説教の中で「思い煩い」と言うのは心に思い浮かぶ二つの異なった結論の内、必ず悪い方を選ぶことによって起こると解説しています。なるほど、「宝くじで一億円あたったらどうしよう」と考えることは心配ごとでも、思い煩いでもありません。思い煩いとは必ずこれから自分の人生に悪いことが起こるはずだと考えるところに生まれるものだからです。
今は仕事もあり、一定の収入を得て、生活している人がテレビのニュースを見て「不景気になって、失業したらどうしようか」と心配し始めます。今は健康が守られているのに、親しい友人が病気になったという知らせを聞くと「自分も病気になったらどうしよう」と心配すること、これが思い煩いです。このように思い煩いとは必ず、私たちが自分の将来について悪い結果を先取りすることで生じるものなのです。
それではどうして、私たちはいつも自分の人生に対して悪い結果を予想して、勝手に思い煩ってしまうのでしょうか。それはたぶん私たちが普段から自分の人生が不確かなものであると考えているからです。私たちはどこかで、自分の人生は何かが起こったらすぐに倒れてしまうような不確かなものだと考えているのです。だから私たちの心の中に次々と自分の将来に対する悪い結果が浮かんで、思い煩いを止めることができないのです。だからパウロは「思い煩うのはやめなさい」と言う言葉の前にこんな言葉を語っています。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(4章1節)。私たちがまず主イエスによってしっかりと立つこと、それを怠れば私たちは絶え間ない思い煩いの嵐の中に飲み込まれてしまうのだと思うのです。だから、私たちが自分の職業ともいえる「思い煩い」から解放されるためには、「主によってしっかりと立つ」必要があるのです。それでは私たちが主イエスによってしっかり立つとはどのようなことを言っているのでしょうか。私たちが「主によってしっかり立つ」ためにはどんなところにを心に留めて生きるべきなのでしょうか。
②神は何のために命を与えてくださったのか
そのことを考えるヒントとして、私たちはさらに私たちが抱く「思い煩い」という事柄について考えを巡らしていきたいと思うのです。先ほども言いましたように私たちの職業欄には「思い煩い」と書き込んでもいいように、私たちは毎日の生活の中でかなりの時間をこの「思い煩い」のために使っています。おそらく、私たちが「思い煩う」ことを止めれば、私たちの人生の時間にはかなりの余裕が出てくるはずです。しかし、そもそも、私たちの人生の時間は何のために神が与えてくださったものなのでしょうか。私たちは自分の貴重な命の時間を「思い煩う」ことだけに使ってしまって本当によいのでしょうか。
パウロは「どのようなことでも、思い煩うのはやめなさい」と語るのも、また私たちの主イエスが「明日のことを思いわずらいな」と言われたのも、私たちの命の時間は「思い煩う」ために神から与えられたものではないと言うことを教えようとしているのです。むしろ私たちは自分の人生という大切な時間を神が望まれることに費やす必要があるはずです。決して「思い煩う」ことだけで自分の人生を使い果たしてしまってはいけないのです。
それでは私たちは自分の人生の時間を何のために使う必要があるのでしょうか。神は私たちが自分の人生を使って何をすることを望まれているのでしょうか。それは神を礼拝することであると言えます。私たちが心から神に感謝を献げ、神を賛美することが、私たちの人生の目的であり、本来、私たちそのために人生の貴重な時間を使うべきなのです。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。
パウロはここで「あなたがたが今、自分の人生を間違って「思い煩う」ことに使っている。しかし、その人生はあなたが神に感謝を献げ、祈りと願いをささげるために与えられているものなのだ。」と教えているのです。だから、私たちは思い煩うのではなく、神に感謝を込めて祈りと願いをささげて生きるべきなのです。自分の人生を、神を礼拝するために使う必要があるのです。ですから主イエスの上に固く立つ生活とは私たちが自分の命の時間を本来の目的のために使うことであると言ってよいのです。
2.思い煩いをなくすことが人生の目的ではない
ところで私たちはここで聖書から「思い煩うな」と命じられるとき、しばしば陥りやすい誤解について考えてみたいと思います。私たちは「思い煩う」ことは信仰者としてふさわしくない、そんなことで自分の命の時間を使い果たしてしまっては神に申し訳ないと思います。そこでなんとか「思い煩う」ことをやめようと努力するのですが、なかなか思い煩いから解放されることができないばかりか、ますます深刻な思い煩いにはまり込んでしまうということが度々起こるのです。これはいったいどうしてなのでしょうか。
私は子供の頃から恥ずかしがり屋で、人前でものを話すことが苦手でした。特にたくさんの人の前で何か語ろうとすると、あがってしまって自分でも何をしゃべっているのかわからなくなってしまうのです。だから人前で、堂々と語ることができる人にあこがれて、「自分もそうなれればよいのに」と思っていました。やがて牧師になって、人前でお話をする機会が増えた私は「何とかしてこの問題を解決させないと」と思いました。そこで私は『人前であがらずにしゃべるためには…』と言った題名のついた本を読み漁りました。そして実際にそのような本のアドバイスに従っていろいろと試してみるのですが、どうもうまくいきません。次から次への新しい本を買い求めて、その方法を試してみるのですが、思うような結果は得られないのです。そんなことを繰り返していくと、私の心には一つの確信が生まれて来ます。「私は何をしてもだめなのだ。きっと説教者には向いていない」。そんな敗北感でいっぱいになってしまった経験があるのです。
そんな思いに悩まされていたときのことです。私はあるときこんなことに気づきました。自分は今、人前に立ってもあがらずにお話ができるようにということばかりを考えて、そのためにかなりの時間を使っている、しかしそれは本当に正しい方法なのだろうか。牧師となった私がすべきことは神の言葉を忠実に語ることであって、人前であがらないことではないのではなかと。大切なのはあがってもあがらなくても、お話がうまくできてもできなくても、神の言葉を語ること、福音を伝えることが私に与えられた使命ではないかと考え始めたのです。そこで私はその後、自分の時間の過ごし方を変えました。今まで「人前であがないためには」と様々な本を読んだり考えていた時間を、聖書を読んだり、説教の内容を研究する時間に変えたのです。確かに私は今でも、同じ問題で苦しんでいます。人前でお話をしなければならない者としてこの問題が解決されないことはとても不便なことだと思っています。しかし、だからと言って神の言葉を伝えることができないわけではないのです。
ここで私たちは「思い煩ってはならない」と言うパウロの言葉を誤解してはならないと思います。私たちは「それをまず自分で解決しなければ神に喜んではいただけない」と考えてしまってはいけないのです。なぜならそもそも、私たちが「思い煩い」から解放されことは、私たちの人生の目的では決してないからです。確かに私たちは思い煩いから解放されて、平安な心が持てたらよいなと考えています。しかし、私たちの信仰はそれらを得るためにあるものではりません。私たちの信仰は神を信頼し、神と共に生きるために与えられているものだからです。だから、大切なのはどんなに私たちの心がまだ様々な思い煩いに支配されていたとしても、心の平安が乱されていたとしても、そのままで神に信頼して、神に従う生活を送ることなのです。そのままで神を礼拝する決心をすることなのです。なぜなら、それこそが神が私たちに望んでおられることだからです。思い煩いは苦しいことですが、思い煩いがあるからと言って神を信じることができないわけではありません。神を礼拝することができないわけではないのです。私たちはむしろ、たとえ思い煩いを抱えたままであっても、私たちの人生の本来の目的のために自分の命の時間を使う必要があるのです。
主イエスによってしっかりと立つとは、私たちがどのような状況にあったとしても、神に信頼し、神に従い、神を礼拝する生活を送ることだと言えるのです。
3.神に心を向ける
私たちが「思い煩うことをやめないとだめだ。それを何とかしないと」と考えることは大切かもしれません。しかし、ここで私たちが勘違いしてはならないのは、私たちは自分の力では決して思い煩いを解決することはできないということです。むしろ私たちが何かをすれば、思い煩いを深刻にさせるだけなのです。なぜなら、私たちを深刻な思い煩いから解放してくださるのは神の御業だからです。神だけが、私たちからこの思い煩いを取り除き、私たちに平安な心を与えてくださる方なのです。だから、私たちはこの問題を持ったままで、まず神に心を向ける必要があるのです。
ときどき教会に来られる方でこんなことを言う人がいます。その人は真剣に私にこういうのです。「私は不真面目な人間ですから教会に行く資格はありません。ですから、もっと真面目になってから教会に来させていただくことにします」。私はこんな話を聞くと本当に残念に思ってしまいます。そして「この人、いつになったら教会に来られるのだろう」。「自分でそんなことができたら、教会も神様もいらないのに」と思ってしまうのです。
しかし、これは他人事ではありません。信仰者である私たちもいつの間にか、「自分の力でなんとかしなければ、自分で思い煩いを解決しないと、平安な心を得ないととだめだ」と考えているのです。しかし、そう考えても私たちは失敗を繰り返すだけで、本当の解決を得ることはできないのです。ですから私たちが真っ先にすべきことは私たちを癒し、私たちの人生の問題を解決してくださる、神に信頼して、その神に自分の人生を委ねることなのです。私たちがこのようにして毎日曜日に神を礼拝するために集まるのは、今週も自分の人生を神にゆだねて生きることを決心することでもあるのです。
4.イエスが負ってくださる人生
主イエスは私たちのために主の祈りを与えてくださいました。私たちにこの祈りを祈って生きればよいと教えてくださったのです。この主の祈りは二つの部分で構成されています。前半部分は神のための祈りとなっています。そして後半部分は私たちのための祈りとなっています。
この構造からもわかるように主の祈りは、まず私たちの目を神に向けるように作られているのです。私たちの心がこの祈りによって神に向けられるとき、私たちの人生は変わり、神の恵みの中で生きることができるようにされるのです。
「み名があがめられますように。み国が来ますように。御心が天で行われるように、地上にも行われますように」。
私たちは普段まず一番に自分のことを考えて生きています。ところが結局私たちはそのようにすることで思い煩いの世界に踏み込んで行ってしまうのです。今まで学んできたように私たちの人生は神のために生きることによってはじめて、祝福された人生と変わるのです。私たちはこの祈りによって心から神を礼拝する者に変えられることで、神の祝福を受ける者とされるのです。
主イエスは私たちに「明日のことで思い煩う必要はない」と言ってくださっています。このイエスの言葉が本当であることが分かるのは、私たちがこの主の祈りを祈り続け、心を神に向けて、神を礼拝する生活を送るときであると言えるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神様
私たちは自分のことに熱心であるあまり、結局深い思い煩いの世界に自らを置いてしまうような愚かな者たちです。あなたからせっかく与えられた命の時間を「思い煩い」のために使ってしまうような者たちです。どうか私たちの心をあなたに向かわせてください。そして私たちが自分に様々問題を抱えているにしても、まずあなたに従い、あなたに人生を委ねて、あなたを礼拝する生活を送ることができるようにしてください。まずそのために私たちが主の祈りを祈るごとに、私たちの心をあなたに向かわせてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.パウロはフィリピの信徒への手紙の中で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」(4章6節)と語っています。この「思い煩い」について主イエスはどのように語っていますか(参照/マタイ6章34節)
2.私たちが「思い煩い」のために使ってしまっている命の時間は本来、何をするために神から与えられたものだと言えますか。
3.「思い煩いをやめよう」と言う聖書の言葉に私たちが従おうとすることは大切です。しかし、そのときに私たちが陥りやすい過ちは何ですか。あなたもそのような過ちに陥ってしまった経験がありませんか。
4.「思い煩い」を自分の力でやめることは不可能であるなら。私たちは何をする必要がありますか。
5.主イエスは「主の祈り」の前半部分でどんな祈りを祈ることを私たちに勧めましたか。私たちがその祈りを祈るとき、私たちはどのような者とされると考えることができますか。
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